やさしいこの場所に、ふたり。
あなたが安らげる場所になれますように。
「いらっしゃいませ!」
こぢんまりした店の中で弾んだ声が出迎えた。声にさえ笑顔が浮かんで見える、上辺の言葉だけではない暖かさ。
だから何度でもこの店に足を運びたくなる。
だからこの店はいつでも心地いい賑やかさに溢れている。
「ご注文は何になさいますか?」
紅茶と、今日は甘いものは何がある?
「今日はいつものショートケーキ、ショコラタルト、モンブランに……」
たくさんあるね。お勧めのものをひとつお願いしようかな。
「かしこまりました。すぐにご用意しますね」
ぱたぱた離れていく背で結い上げた髪が揺れる。一人でフロアを切り盛りする彼女はいつも忙しそうだが、大概いつも楽しそうだった。独特の距離感を作るのが巧いのかもしれない。
店の奥というほどではない奥で声が上がった。何せ小さな店の中、周囲の話にだって聞き耳を立てようと思えばやってやれないことはない。
コンフリー、今日のお勧めって何ですか?
は? ……ああ。そうですね、どれも、と言いたいところですが、強いて言うならレアチーズタルトが良い出来です
視線で促されて気づいたのか、途中でこちらに笑顔が向く。軽く仕草で返礼すると、片割れはそのまま踵を返して店の奥へと消えた。
お待たせしました、と改めて説明されるまでもなかったが、果たして運ばれてきたのはレアチーズタルトだった。苦笑を交えて軽く礼を言うと、彼女は当たり前だが席を離れてフロアへ戻った。
今日の紅茶も、お勧めのケーキも美味しい。時間がゆっくりと流れ方を変えた錯覚すらする。
暖かい距離。少しだけ賑やかで静かな空間。
過ぎない程度に放置される心地よさ。
ここに来ればのんびりと気持ちを安らげると知っている。
きっと多くのお客にとって、カフェ『マトリカリア』は、そんな場所。
* * *
「じゃあね、ありがとう、スイランちゃん」
「こちらこそです! お気をつけて、またお越し下さい!」
馴染みの老婦人が去る姿を笑顔で見送る。孫へお土産だと言った婦人の手には、今しがたスイランが手ずからケーキの数々を詰めた箱が大切そうに抱えられていた。
大好きなものでひとを笑顔にできる。このカフェで働いていて、最も大きな喜びのひとつだった。
暮色が色濃くなるにつれて客足はぽつぽつと減っていく。今日最後の背中を見送り、しばらく待って閉店の札を下げた。店員二人はそれぞれ普段の習慣のままに、店じまい後の片付けや掃除に動き回る。
一気呵成で仕事を終えたスイランは一息つき、店の奥をひょいと覗いた。
「お疲れさまでしたー。掃除も終わりましたよ、コンフリー」
「お疲れ。俺、もう少し仕込みやるから先に上がれよ」
小さな厨房を一人で切り盛りするパティシエ、兼このカフェの店主は勤勉だ。わざわざ言ってやるのも気恥ずかしい間柄なので、そうと言ったことはほとんどない。
当人に言ったことはなかったが、スイランはコンフリーのそんな性情も昔から慕っていた。
「んー……、ちょっとフロアから作業、眺めていてもいいですか?」
「構わないけど、別に面白いことは何もしないぞ?」
「ぼーっと見ているのも面白いものなんですよー」
「好きにしろよ。ああ、残ったケーキ食ってもいいぞ」
「遠慮なく!」
* * *
自分の城も同然の厨房で、作業のほとんどはもう体が覚えている。時たま無心になる瞬間は、何とも言葉にしにくい心地よさを覚えさせた。
視界の隅にちらりと居る空色―――ひとつに結い上げたスイランの髪の色。作業の邪魔にならないようにと意識してか、あちらからは絶対に声をかけないその存在と気配が、普段は無心の作業にどこか暖かい刺激を加える。
照れくさいので言葉にしたことなんてなかったが、本当は彼女の存在はいつだって大きかった。
店の名前すらまだ無かった、始まりのあの日からもずっと。
お店の名前は、『マトリカリア』。
『集う喜び』という意味なんですよ、素敵でしょう?
まず俺にどうか訊けよ、と笑った覚えがある。―――反論なんてないほどに良い響きだった。それが少しだけ悔しい思い出でもある。
そんな子供じみた思いに一人こっそりと苦笑して、ラン、と馴染んだ音を声に乗せた。