奄美のリアル事件簿 『盗掘職人の系譜』
十七世紀に水戸黄門こと徳川光圀が、水戸学というのを起こしていた。『大日本史』を編纂する過程で、なんと純粋な学術調査として、領国の外れにあった下野国の上侍塚古墳と下侍塚古墳を発掘していたのだ。いずれも全長百メートル前後の規模を誇る前方子方墳だ。そのあたりで、偶然、日本三大石碑と呼ばれる那須国造碑が発見されたため、墓誌があるのではないかと推定して、調査をしたのだ。墓室の出土遺物類は、お抱えの狩野派絵師たちに描かせて記録し、調査終了後、墓に戻してやっている。さらに盛り土の崩落を防ぐため松を植えるという史跡整備事業までやったのだ。なんて粋な。さすがは天下の副将軍。墓荒しな好事家とは一線を画している。
「助さん、格さん。やっておしまいなさい!」
助さんも格さんもモデルがいて、黄門様側近の学者だったらしい。
十八世紀では、幕府の重鎮・新井白石が、そんじょそこらの畑から出てくる石鏃を調べて、古い文献をあたった。対馬がよく、外国の侵略の被害にあっていたので、北方民族粛慎人のものではないかという説を立てた。実際は日本の原住民たる縄文人がつくったものなのだが。資料による考証を行った点で、水戸黄門同様に、ただのコレクターとは違うところだ。
そして十九世紀・明治時代に、アメリカ人モースが指揮する東大による東京・大森貝塚調査が行われ、近代考古学が開化する運びとなる。
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古墳時代、ある豪族により古墳が築かれても、一族が衰退するや、途端に盗掘が始まっていたようだ。飛鳥時代の「薄葬令」により古墳造営が制限され、仏教が全校的に普及する奈良時代になると、豪族たちのステータスは寺になって、古墳はまったく造られなくなる。盗掘団は豪族たちの目をはばかることなく盗掘することができるようになったことであろう。
そして江戸時代、水戸黄門たちが華々しい学術成果をなす一方で、古墳をはじめとする各遺跡の盗掘は後を絶たないでいた。というのも、世のお大尽のコレクション癖は、江戸時代にもあったからだ。
東北・青森県の亀ヶ岡遺跡というのがある。甕が出土する丘があるから、かめがおか、なのだ。地元のお百姓が、畑を耕すと完形土器がゴロゴロでてくる。縄文時代晩期の、器面に縄文を施して磨りけし、燻して、網目なんかを口のあたりに彫刻して、デザインがやたらに美しくモダンにさえ感じる。「粋な土器じゃわい」ということで、江戸の好事家たちを魅了した。好事家たちは、そんな土器やら、古墳を暴いて掘り出した勾玉なんかのコレクションを交換し合っていたのだ。
こんな話を耳にしたことがある。昭和期、千葉県の地方素封家が山の一筆を買った。というのはそこに古墳の墳丘があったからだ。地元で人足を雇い、組織的に、大っぴらに盗掘をやらかしていたのである。感覚的には宝探し。往時の人はそれをロマンと呼ぶ。
私・奄美が、かつて、所属していて倒産した発掘調査会社の社長は、少年期に、この盗掘集団の人足に加わっていた。彼自体も素封家の御曹司だったから、金銭的というよりは、「ロマン」の探求だったのだろう。(爆)
盗掘団の発掘は、オーソドックスな遺跡調査に酷似しているようだ。地層学的にみて、新しい土ほど上になる。ゆえに、遺構を覆う土を順番に剥がして行けば、綺麗に遺構を掘り上げることができ、結果として、ごっそりと、目的の遺物を傷つけることなく手に入れることができる。ということを体得したのだ。彼らと学術研究の違いは、調査記録をとったか否かという差異に他ならない。
前回、『暁の盗掘団』でお話した、埼玉県の遺跡で、竪穴住居を美麗なまでに掘り上げた「匠」の技は、こういう素封家・好事家系の盗掘団が培ってきたものだろう。かつて盗掘団に関わっていた「職人」の仕業だと、私・奄美は推理するところである。
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一九四九年の法隆寺金堂火災が契機となり文化財を保存・活用、国民の文化的向上を目的に、翌一九五〇年、文化財保護法が制定された。保護の対象となる文化財には、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、史跡、名勝、天然記念物、登録記念物、文化的景観、伝統的建造物群、文化財の保存技術、埋蔵文化財などがある。
このうち埋蔵文化財の保護については、はじめ努力目標のような法令で、効力がなかった。だが、遺跡の緊急発掘調査の案件が激増し、既成事実化されたためか、昨今はだんだんと強制力をもつようになってきている。今回は、法律ができる前の、大っぴらに盗掘がなされていた時代のお話。
了
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ノート20130410




