奄美のリアル事件簿 『暁の盗掘団』
二十世紀末の「旧石器捏造事件」はあまりにも有名だ。とはいえ、旧石器がみつかる遺跡というのは実に稀で、二十年強百遺跡近く関わった私でも、二例しか携わっていない。いわば宝くじに当たるようなもので、バンバンあてまくる調査担当者など、捏造ねっちゃん以外の何者でもない。私が携わった二例というのも細石刃文化という最末期で、一万数千年前、新石器時代に相当する縄文時代の直前段階のものだ。欧州では細石刃文化期を中石器文化に位置ずけ、中近東では同時期新石器文化に位置ずけしている。
事件当時、旧石器時代の上限というものは、三十万年から百万年へどんどん遡ってゆき、その成果(?)は別世界の出来事だった。例の捏造事件は学問上のマナー違反というだけで、別段、直接法規に触れるわけではなかった。ゆえに関係者が処罰される理由はない。
ここに挙げる遺跡を巡る犯罪は法規に触れるものだ。ここでは、直接遺物を盗むタイプを挙げてみたい。
私が業界駆け出しのころ、遺跡の遺物盗難が相次いでいた。一般見学者を集めた「お祭り」的な・現地説明会という催しがあり、そのため、破片ではない完全な形状の遺物を、掘りたて状態で遺跡現場に残しておき、さて説明会となった朝になって、ごっそり、盗まれる。なんて話もあった。
かくいう私が担当する現場でも数度あった。そういうところは、新興住宅地で人の出入りが多い郊外であることが多い。スレた地域だ。また腕も悪いので、遺物の取り上げに時間がかかり、数日先に持ち越したという経緯もあった。
竪穴住居跡に掘りっぱなしにしておいた遺物が翌日になるとなくなっている事件は、ほぼ同時期、駆け出しの時に相次いだ。
第一の遺物盗難は茨城県江戸崎町、第二の遺物盗難は群馬県高崎市だ。それ以外では、経験していない。防犯対策をとるようにしたからだ。消極的な防犯対策はシートで隠しておくことだ。しかしこれは、泥棒たちに遺物のありかを教えるようなものである。最も効果的な方法は、調査員・作業員とも熟練度が必要になるのだが、掘り上げた傍から、とっとと記録をとって、保管所に運び出してしまうことだ。
江戸崎町の遺跡では、奈良・平安時代の竪穴住居跡から模様の入った滑石製紡錘車が盗まれた。状況から、マニアというか、散歩してきた人がくすねたものだろう。質の悪い作業員の可能性もある。
高崎のとある工場建設予定地での出来事だ。遺跡調査作業をしていると自称郷土史家やら愛好家、冷やかしがわんさか押しかけてきた。むこうはこちらが役人で、好事家的な暇人だという意識があり、勝手に長話を始め、撮影やら実測といった時間を奪う。夕方は犬の散歩、ゴルフの練習、ドライブといった感じで、立ち入り禁止の遺跡地に入り込むのだ。そして、縄文時代の打製石斧、古墳時代の須惠器大甕破片、奈良・平安時代の土師器坏が同時期、連続して、なくなった。
当時、私は歯医者に通っていた。歯科医師の話だ。
「近くで、市の教育委員会が発掘調査をやっていましてね、作業員をしている婆様が患者にいるんだけど、勾玉を持ってきてみせた。そう、現場からくすねてきたヤツ。婆様にいわせると、『家宝にするんだ』っていっていたけど、担当者が番号とかつけたはずだ。とんでもねえ話だと思いましたよ」
まったくその通りだ。
しかし付近の事情は、かなり異常だった。古墳が沢山ある。旧中山道を控えた交通の要衝で、国定忠治を生み出したあっちの世界。『木枯らし紋二郎』なる渡世人主人公の物語まである。戦時中に造られた旧軍空港、軍事工場を控え、戦後は進駐軍が入ってきた。住人は当たり前のように古墳を暴いて遺物を収集し、戦後直後は小遣い稼ぎに盗品を進駐軍兵士に売っていたというのだ。いわば盗掘ムラとでもいうべきか。盗んでいるという感覚がなかったのだ。遺跡調査が終わると、「貰わなきゃ損だ。シャベルは私の物だよ」と持ち帰ろうとした。戦後直後に少年期を過ごした「ギブ・ミー・チョコレート」な世代の年寄りに限る。高齢なので、もう、作業員にはいない。遺物窃盗もめっきり訊かなくなった。
同じ頃、埼玉県出身の教育委員会職員に訊いた話だ。
「朝、調査中の遺跡に行ったら、未調査の竪穴住居跡が一夜にして、きれいに掘り上がっていた。『誰だ、勝手に掘った奴は!』と作業員たちに訊いてみたが、誰も掘っていない。未明から早朝にかけて、盗掘団が一気に掘り上げたんだ。その道のプロは、遺物にダメージを与えず、どっさりと持ち去るテクニックを極めた結果、考古学と同じ手法で、綺麗に遺構に詰まった覆土を除去するという方法に行きついたみたいだ」
この手口は後に耳にしたことはない。次回お話する好事家系盗掘者、しかも奥義を極めた者による犯行。現在では絶滅した「匠」の技だ。「いやあ、いい仕事をしましねえ」肩、ぽんぽん(←おい、違うだろ!)。
了
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ノート20130409




