奄美のリアル事件簿 『富山湾に浮かぶ研究者』
二十数年前のバブル期、業界駆け出しだった私は富山県に出張していた。遺跡自体はさして難易度の高いものではない。古墳時代の溝があって、そこに供え物の土器を投げ込んでいたのだ。高坏とか坏といった器、それと胡桃の種がやたらにでてくる。一五〇〇年前の木葉はあおく、空気に触れるとたちまち変色して枯れ葉になった。
当時勤めていた会社の先輩である主任調査員・武田氏は私と一つ違いの群馬人である。頑固で人を持ち上げたかと思うと、急に見下す態度をとる人だ。そのせいか、富山県花井市の担当者・里中係長とは、犬猿の仲だ。よく電話でやりとりして、受話器を勢いよく切っていた。傍目でみているとどっちもどっちの変人だった。
相手は、東京出身で細面、長身だ。小柄な武田主任を嫌っていた反動のためか、私にはよくしてくれた。現地の終末期弥生土器である月影式土器の資料一式を、整理場のパートさんにお願いしてコピーもしてくれた。しかしまあ、性格が性格なので、例の主任調査員同様に、その後もずっと独身のままだった。
里中氏の部下だった人に主査の村山氏がいる。やはり東京出身者だ。里中係長はヒステリックなところがあり、その偏執的な研究態度に反発している。当然といえば当然だが、まともな権限を里中係長から与えられず、遺跡では一般作業員のようなことをしていた。というか、それ以上のことをしていた。主査としての業務に加えて、一輪車押しをやっていたのだ。低湿地遺跡地帯なので、一輪車を押すときは、けっこう腰にくる。案の定、そこを痛めた。
外部からみた場合、村山主査は無名な上に若く、どうみても未熟だという評判だった。しかし後輩たちからは慕われていた。
それでも、何年かすると、村山主査は市教委の中で一定の地保を築いたようだ。里中係長が書いた地方研究誌が会社に送られてきた。「調査員Mは、農林省の標準年基調を調法がって土層説明をしているが、そんなものばかりに頼って、肝心の層位に、どのようなものがあるか、という意義を見落としている。若さからくる愚かさというものだ……」と書かれてあった。Mとはもちろん村山主査のことだ。
会社内部では、「里中係長のいうことは、大人げないが、いっていることは正論だ」というのが主流だった。
村山主査は私の顔をみるといつもいったものだ。
「里中は支離滅裂なとんでもない奴です。何かありましたら、私に相談してくださいね」
若い主査は、地道に勢力拡大を図っているのだろう。青かった私は、その程度の認識しかもっていなかった。
数年後、この二人が別件で、会社にやってきた。特に仲が悪いわけでもなく、普通の上司と部下という感じで、連れ立ち歩いていた。二人は当時の直属上司・花形課長と、誰からも好かれていた後輩の宗光君と楽しげに歓談していた。この二人はほどなく独立し、年商十億強の会社を立ち上げ、里中氏と親密な関係を持つようになる。
里中係長はフレンチと競馬が好きだった。ときたま東京に帰省すると、宗光君を誘って、食事やら競馬観戦をしてものだった。
花形課長と宗光君が独立した後、勤めていた会社が破産した。私は再就職先の社長から、突然、事件が起きていたことを訊かされた。真冬のことだ。富山湾では雪花が舞っていたことであろう。
「奄美君、富山県花井市の里中係長って知っているだろう。おととい、富山湾の浜辺に打ち上げられたそうだ。官製談合を仕切ってたんだとさ」
官製談合。発掘関連業者が、遺跡発掘に関する支援業務を行う。たとえばプレハブやら水道・安全フェンスの設置。遺跡地での重機による表土掘削。なんやかんやで数百万から数千万の資金が動くのだ。バブル崩壊後、冷え切った地方経済の中、生き残りに必死な土建業者が、遺跡発掘業界に殺到した。自治体は設計価格を提示して、数社の業者を指名し、値段の安いところを採用する。それが入札だ。里中係長は自ら業者の採用順番を決めてしまったのだ。
話を訊いたとき私は直感した。村山主査が内部告発したに違いないと。
事件直後、富山県警は、談合に関わった主だった業者役員を逮捕した。独立して会社を興した花形氏や宗光君たちは、談合には関わっていなかったので逮捕はされなかったものの、里中係長と親しくしていたため、事情聴取を受けた。一時は業界を席巻していた彼らだったが、その日を境に勢いを落としてゆく。
里中係長はコートのポケットに石を詰めて身投げしたとも、談合に関わった会社の黒幕が、刺客を送って寒中の海へ放り込んだともいわれているのだが、いずれにしても、彼の口は塞がれてしまった。真相は闇の中である。
了




