妄想探偵事務所 『実験・毒殺萌え青酸』
千葉県富里インター近くに奄美剣星の家がある。二階建ての建売住宅で、小さいながらも庭があった。リビング横の書斎に、実験用テーブルがあり、アルコールランプだのフラスコだのが置かれている。口髭の家長・奄美が近くのホームセンターで衝動買いをしたものだ。
シャーロック・ホームズを気取って、実験オタクになった奄美は、ワトソン役に無理矢理仕立てた中二の娘と連日――危ない――実験を繰り返しているのであった。
丸眼鏡をかけた奄美の娘・紗理奈は、彼に似て超美形である。実の父親がいうのだから間違いあるまい。父親とおそろいの白衣を着た彼女が小首をかしげた。
「処方箋の紙にくるんである試薬は何?」
「青酸。正式にはシアンカリュウム。青酸カリという言い回しが定番だな。日本のミステリーでは、毒殺の場合、必須アイテムだね。物語で毒殺ときたら、これがお約束。薬局で、だされる用紙に用途をかき署名・捺印して買う。あるいは医療関係者を脅迫して手に入れる」
「犯人は偽名をつかうのだけれでも、けっきょく、入手先から足がついてしまうというわけね?」
「実際は違う。もともと、金属精錬や塗装に使う触媒で、日本では年間三万トンを生産しているんだそうだ。下町の町工場にだっていくらだってある。ということは、毒物に詳しい理系出の学生が工員アルバイトなんかやったりしたら、そこから、簡単にくすねることが出来てしまう代物というわけだ」
「うう、危ない!」
奄美は、試薬の横にあったヴィクトリア朝風の銀ポットから、ウエッジウッドの金縁カップ二つに紅茶を注ぎ、娘に勧めると自らも口にした。
「日本初の青酸殺人事件は、一九三五年、東京浅草・明治製菓売店喫茶部で発生した校長殺人事件だ。犯人は、教職員給料を持っていた校長が、そこに寄るのを知っていて、紅茶に一服盛った。被害者が倒れたところで、現金の入った風呂敷袋を奪って逃走した」
「犯人は逮捕されたの?」
「――された。学校近くの足袋屋店主だった。青酸は近くの工場工員から騙して買った。顔見知りだった校長は、まさか毒を盛られたとは思わず、一気に、ぐいっ、と飲んでしまったというわけだ。そして、『毒殺ときたら、青酸カリ』という伝説ができた」
「伝説?」
「青酸カリは口に含むと、ベンジンのようだともガソリンのようだともいう刺激臭があり、通常は吐きだしてしまう。致死量は百五十から三百ミリグラム。三十から六十ミリグラムを摂取しても肝臓が無毒に分解する」
「刺激臭が酷いので、途中で被害者に気づかれてしまう。ちょっとくらいじゃ死なない。じゃあ、『唾をつけて本を読む人を毒殺するために、各頁に刷毛で溶液を塗っておく』ってトリックは成立しなくなるじゃないの?」
「その通りだ」
「じゃあ、なんで、校長は飲んだのかしら?」
「単純だ。昔は礼儀にうるさい。犯人がもてなす形をとったから、校長は我慢して飲んだというふうに推測できる」口髭の父親は、手にしたカップをテーブルに置いて続けた。「一九四八年(昭和二十三年)に発生した帝銀事件の犯人は、被害者たち帝国銀行の行員たちに、『保健所の者だが伝染病が発生したので予防薬を飲んでくれ』と騙して青酸を渡した、工員に茶碗にそれを入れさせ水に溶かせ飲ませた」
「そういえば『青酸コーラ無差別殺人事件』っていうのを読んだことがあるわ」
「あれは、一九七七年(昭和五十二年)に起きた無差別テロ、あるいは、多数の模倣犯による犯行で、死者・発症者、危うく飲みそうになった被害者がでた。当時は瓶に栓をしたもので、一度開封してから、栓をしなおすということが容易にできたんだ。亡くなった人はジョギングの後とかで、一気のみしている」
紗理奈もカップを置いた。
「そういえば、よく、捜査員が死因を探るために死体の匂いを嗅ぐわよね。アーモンド、オレンジ、杏子のような臭気って話……」
「あれは、胃酸で化学反応を起こしたシアン化水素によるもので、直に匂いを嗅ぐと危険なので現場の捜査員はやらない。司法解剖を待つね。ガス発生には時間がかかるから、『失楽園』みたいな即死はしない。発症の間に手当すれば助かる率は高いんだ」
「――え、小説にかいてあることって、嘘じゃない!」
「それをいっちゃ、無粋ってもんだ。古典落語『ミョウガ宿」じゃ、ミョウガを食べた客が、御代を払うのを忘れたという話があるだろ。シェイクスピア『真夏の夜の夢』ででてくる惚れ薬だってそうだ。実際にはそんな効能なんかない。物語上のお約束だよ、お約束」
――さて、恒例の実験だあ!
「微量の青酸をなめても、肝臓が無毒化してしまうという実験だ。帝政ロシア末期に現れた宮廷に現れた怪僧ラスプーチンの暗殺未遂事件があった。怪僧は、ワインを飲んでいために、致死量を遥かに超える毒を盛られても、胃の中にあったワインの酸で薄められて、ぴんぴんしていた、という話がある。胃病の人も、胃の中で猛毒シアン化水素ガスが発生が抑えられ発症しない」
奄美は、念のため解毒剤と処方をテーブルの上に置いておいた。さらに、台所からグラスに注いだ白ワインをもってきて、ぐい、と飲んだ。それから、テーブルの上の青酸の試薬顆粒を薬指につけて舐めた。
ぐぐぐ、ガソリン臭。ぎゃあああああああ。ばたん。
床に倒れた奄美をみた娘は、眼鏡をあげ、不測の事態にそなえての解毒の処方メモを読み上げた。
「なになに、『吐かせて胃洗浄を繰り返す。そののち亜硝酸アミルを十五秒吸入、空気を十五秒空気を吸入させる。ただし、口からシアン化水素ガスが発生している可能性がある。猛毒で危険だ。マウス・トゥー・マウスは避けて用意してあるビニール袋を使う――パパにキスしたい気持ちはよく判るけどね……』――吐かせるの? やだあ、キモイ!」
「紗理奈、そりゃないだろ!」口髭の父親が半身を起き上がらせる。
「きゃあ、ゾンビ!」娘がのけ反って引いた。
※真似しないでください( ← ちょっとくらいなら……コラ・コーラ――殴るぞ!)。
了
校正20160516




