妄想探偵事務所 『実験・メジャー毒薬砒素の抽出』
千葉県富里インター近くに奄美剣星の家がある。二階建ての建売住宅で、小さいながらも庭があった。土曜日のことである。なぜだか、近くのホームセンターで実験器具を扱っていたので、口髭を生やした奄美は衝動買いした。リビング横の書斎が実験室になった。
丸眼鏡をかけた奄美の娘・紗理奈は、彼に似て超美形である。実の父親がいうのだから間違いあるまい。
「――で、パパ。これなに? ニンニクみたいな匂いがする」娘がテーブルの上においた拳大の鉱物に顔を近づけた。黄色くて、ロウソクのロウのように、柔かい感じがする。
「砒素鉱石。砒素には三種類ある。ここにあるのが黄色砒素だ。ほかに、黒いのが黒色砒素、鉛のような光沢のあるのが灰色砒素、金属っぽいから金属砒素ともいう」
「砒素?」
「世界中でもっともポピュラーな毒殺薬としてつかわれている。食当たりに対する嘔吐剤、殺虫剤としても使われていた。中世ヨーロッパにはプロの殺し屋がいて、隙をうかがっては、政敵の食べ物に混ぜて暗殺した。よく、『悪い水にあたったため若くして死亡』と書かれている王侯貴族の略歴があるけれど、ほぼ、こいつだ。書いた歴史家たちも暗黙の了解事項だと思う。セントヘレナ島に流されたナポレオンなんかも、こいつで毒殺された」
「ほのかなニンニク臭というのが曲者ね」
「ニンニク臭は黄色砒素の特徴で、他は無味無臭だ。匂いのある黄色砒素にしても、料理に混ぜても違和感がない」
中二の少女が、「かえって美味になるかも」といってから、「日本では、『和歌山毒物カレー事件』が有名よね――」と続けた。
一九九八年七月二十五日に園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた六十七人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、四人が死亡した。はじめ保健所が入って食中毒としたが、科学警察研究所が入って亜砒酸と判明した。亜砒酸は亜鉛と砒素の化合物で、白蟻駆除につかう特殊な殺虫剤であった。それゆえに、容疑者を絞り込むのは比較的容易だった。案の定、容疑者宅の流しから下水道にかけて、亜ヒ酸が微量に検出されたことから、有力な物的証拠となったのだ。
それじゃあ、実験してみよう――
口髭の父親と丸眼鏡の娘は、おそろいの白衣とマスク、それに手袋を着用した。
「砒素摂氏六一五度で気化するから、原石からの抽出も容易だ」
書斎中央・実験テーブルの上には、バーナーが置かれている。それで炙りだし、上に自作の傘状をしたアルミ傘をセットし、そこに接続した冷却パイプで冷やし、液化砒素をビーカーで採取するというものだった。
紗理奈が腕組みした。
「あのお、パパねえ、この設備じゃ、いくらなんでも、ちゃちいわよ」
「仕方ないだろ、ホームセンターで売ってないんだから」
「ともかく、危険過ぎ。実験中止!」
こうして、奄美の「素敵な実験」は頓挫した。
.
実験失敗後、シャーロックホームズを気取ってパイプ煙草をくわえた奄美は、横の椅子に座った紗理奈にいった。もちろん実験テーブルの試料と器具は片付けられている。
「しかし、あれだね。砒素って『低知能犯の毒薬』って異名があるんだ。あまりにも簡単に人が殺せるんで、財産目当ての殺人に、昔からつかわれている。イギリスでは、ある婦人が、財産目当てで資産家と何度も結婚して、相手がその度に変死するんで、周りもさすがに怪しんだ。警察が婦人の所持品を調べてみたところ砒素をみつけた」
「それと『低知能の毒薬』という因果関係は?」紗理奈が丸眼鏡をあげた。
「ああ、かつて毒殺は立件が難しかった。しかし砒素を使った殺人犯はそれに味をしめて、次から次へと同じ手口で殺人を繰り返して、やがて、尻尾をだす」
「一回でやめておけばいいのに……お莫迦さん――」
「それができないのが『低知能犯の毒薬』たるゆえん」
「ああ、萌えない――」紗理奈が、こめかみに両手をそえ、左右に首を振った。
父娘は実験失敗を悔やむより、麗しからぬ密室殺人アイテム・砒素を憎んだ。
※危険ですので実験しないでください(←勇者よ来たれ!)。
了
ノート2012/校正2016




