妄想探偵事務所 『実験・ニコチン毒完全犯罪』
千葉県富里インター近くに奄美剣星の家がある。二階建ての建売住宅で、小さいながらも庭があった。土曜日のことである。なぜだか、近くのホームセンターで実験器具を扱っていたので、口髭を生やした奄美は衝動買いした。リビング横の書斎が実験室になった。
丸眼鏡をかけた奄美の娘・紗理奈は、彼に似て超美形である。実の父親がいうのだから間違いあるまい。
「――で、パパ。なんで、なにを読んでるの?」
「エラリー・クイーンの『Xの悲劇』。百頁まで読んだところだ。本筋からは外れているのだけれども、興味深いウンチクがあった」
「どんな?」
「ニコチンだ。煙草に含まれているのが有名だけれど、本文には殺虫剤の原料になっていて、毒殺に転用できるってあるんだ。煙草を吸う犯人には免疫ができる。だから一緒のポットで、被害者と犯人がニコチン入り紅茶を飲んだとしても犯人は死なない。だから警察は犯人も被害者の一人だと考え、捜査を攪乱することができるというわけだ」
「じゃあ、パパ、今日の実験テーマは、『ニコチンによる毒殺』ね!」
「ピンポーン♫」
父親とおそろいの白衣を着てマスクをつけた。
台所にある殺虫剤スプレー缶の成分表をみてみた。
「レスメトリン……あれ、ニコチンじゃないわよ!」
「変だなあ、ネット検索してみよう」
口髭の奄美がノートパソコンの蓋を開け起動させた。
「あれまあ、ニコチン以外にもけっこうある。『Xの悲劇』が書かれたのは――あっ、一九三二年じゃないか。第二次大戦前、殺虫剤なんかも素朴なもんなんだ。現代の殺虫剤には、地下鉄サリン事件の毒ガス・サリンなんかもあるぞ。凄い!」
奄美父娘は目を爛々と輝かせだした。
「現在の日本の農薬には、欧米では禁止にむかっているネオニコチノイドが多く使われているとあるぞ」パソコンを検索する父親が口髭の端を引っ張った。
「ネオニコチノイド? 新種のニコチンかなあ?」
「分子構造がニコチンによく似ていて、虫にはよく効くけれど、人間には即効性の毒じゃない。だから毒殺にはむいていない。理想的な殺虫剤――しかし、自閉症などの症状を引き起こす」
「自閉症ガス――そんなの、ミステリーじゃないわ。ああ、やめて。『殺人事件』というロマンチックな響きが損なわれてしまう!」丸眼鏡の娘が両手で頭を挟み声を荒げた。
「現在、ニコチン殺虫剤は主流じゃないようだ。仕方がない。煙草からニコチン溶液をつくってみよう。煙草一本につきニコチンは二〇ミリグラム」
「それで致死量は?」
「五百から一千ミリグラムだとされている。つまり〇・五から一グラムだ」
「すると煙草二五本から五〇本になるわね」
父娘は、紙煙草の紙とフィルターを取り除いて乾燥葉をビーカーに入れ、アルコールランプに火を灯し、煮込んだ。
「ふふふ、紗理奈、これを紅茶に混ぜ、被害者に呑ませれば完全犯罪が成立するぞ!」
「でもさあ、パパ。ビーカーの底にたまったタール、匂いが凄すぎ。誰がこんなの飲むの?」
紗理奈が眼鏡をあげた。
「あ――」
ビーカーには、暗殺に不適切な飲み物が湯気をあげ、独特の香りを漂わせていた。
※危険ですので飲まないでください(←飲めるもなら飲んでみい!)
【追記】
Xの悲劇でのトリックで、犯人は、コルクに多数の針を刺して剣山のようなものをつくり、被害者の上着ポケットにしこむ。針先には「濃縮ニコチン」を塗ってあります。被害者はポケットに手を突っ込んで、針にちょっと触れただけで即死しています。――しかし純度百パーセントのニコチン〇・五から一グラム、小指の節くらいの量の粉末がないと致死量に至らない。ゆえに「濃縮ニコチン」なるものが、純度百パーセントのニコチンだとしても、水に溶かしてガッツリ注射器で打ち込まないと死なないことになる。仮に注射器によって犯行が行われたとします。すると被害者はもんどりうって、のたうちまわり、あんなに綺麗には死なないことでしょう。――つまるところ「濃縮ニコチン」とは、純度百パーセントのニコチンというよりも、ファンタジー毒薬としてみたほうがいいでしょう。言い換えるなら、作品におけるデフォルメ、ひたすらデフォルメ。
了
校正20160516、20210811




