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月刊カルト考古 『転輪王の懺悔』

「お釈迦様のいらしたところを御存じですか?」

若い学者が私のデスクの前に立った。肩幅の広いスーツを着こなした背の高い男だ。

「インドだったかな?」

「生まれはネパール。主な活動はインドでしています。まあもっとも、古代の国境線は今と違うのですけれどね」

 滅多に笑わない彼がはにかんだ。

「何か面白い講義でもあるのかい?」

「ええ、たぶんお好みの不思議な話だと思いますよ」

 若い学者は手まわしよく電車のチケットを購入。それで、電車を乗り継ぎ、都内の街中にある大学構内に入った。東京というところはやたらに坂が多い。駅は谷底にあるのだが、大学はゆるい坂道を上った丘の上にあり、寺院伽藍でいう一番奥にある本堂のような大講堂に入ったのである。殷王朝の王墓のように地下をくり抜き、上に屋根をかけたようなものだ。私たちは、赤絨毯を敷き詰めた螺旋めいた石造りの階段を下りていった。黒い礼服を身にまとった学生たちが、まるでVIPを出向かるかのごとく、深々とお辞儀してゆく。暗い大講堂の席に着く。

 講義はスライドをまじえた老考古学者の回想記のようなものだった。七十くらいだろうか。老人特有の訊きとりづらい喋り方ではないところをみると、入れ歯をしていない様子。厳しい風土で鍛えられたのだろう。物静ではあるのだけれども頑固な感じがする講師だった。後輩にあたる老学者が司会をして、大げさに持ち上げるのを苦笑しながらたしなめる一幕もあった。

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 釈迦は尊称で出身氏族・シャカ族をさしている。名前はゴータマ・ブッダといい、紀元前四六三年に生まれ紀元前三八三年に没したのだという。シャカ族は現在のネパールとインドの国境あたりに小さな国をもっていた。王城はカピラバスツという。そこの王子が彼で、母親をマヤという。貴婦人は王子を身ごもって里へ帰る途中、ルンビニというところで産気づき、そこで釈迦を産むことになる。

 釈迦は長じて悩める青年となり、死・病・貧しさというものに恐怖し、四つの城門のうちの三つをまわって死人・病人・物乞いを目の当たりにし、四つめの門で僧侶に出会い、位を捨てて出家してしまう。

聖人が生きた時代はあまりにも遠い昔のことであるから、実在が疑われるのも無理からぬことであるのだが、一八九六年、A.A.フーハーが、釈迦が産湯をつかったというルンビニで発見した碑文により実在が証明されることになる。釈迦の時代から一世紀を経た、信心深いマウリア朝の国王が聖地巡礼し記念石柱を建てていたのだ。アショカ王といい紀元前二六八年から紀元前二三二年の人だ。アショカ王と後世の国王たちは聖地を整備して寺院にしていたが、のちの戦乱やら異教の民族乱入で遺跡は破壊されてしまった。

 さて釈迦が王城カピラバスツはどこにあるのだろうか? 現在のネパール側にあるという説とインド側にあるという説がある。ネパール説がティラウラコット遺跡、インド説がピパラハワ遺跡もしくはガンワリラ遺跡ではないだろうか? というものだ。

 教授の日本隊は一九六七年から七七年にかけて、ネパールのティラウラコット遺跡の共同調査を行っている。そこは南北五百メートル、東西四五〇メートルの矩形をなした塀に囲まれ、外側には堀一重をうがった区画だった。内部には八つの建物跡、塀の四方には門まである。釈迦出家にいたるあの「四門」か? 敬虔なアショカ王のマウリア王朝時代の遺物、それより遡る原始の彩文土器なんかもでてはくるのだが、釈迦族の王城にちなんだ遺物・遺構はみつけられなかったようだ。一部しか掘っていないのではあるが、ニュアンスから、どちらかといえばアショカ王か次代の王が建てた寺院のようである。インド政府がした同国の候補地二つの発掘調査でも似たような結果だ。

 他方、後日、釈迦が産湯をつかったというルンビニ遺跡調査では変化が起きている。ここの調査は一八九八年P.C.マックヘレッジにより始まって以来、断続的に続いており、沐浴池やらマヤ堂が整備されている。釈迦が産湯をつかったといいかえたが沐浴池、それと聖母を祀ったマヤ堂跡の塚があり、遺構をクリーニングしたのだ。かくして泥で埋もれた池は煉瓦プールとなって地中から姿を現し、菩提樹が巨大化して崩れかけた塚は、一個一個煉瓦を外していって、再び組み立てられていく。その際、当時の地元の人が、マヤが腰かけていたものとされるような聖石「印石」がみつかり、石の周りをアショカ王が命じて赤煉瓦を敷き詰め飾り立てた跡までみつかった。なお、マヤ堂跡の周囲には僧坊・仏塔がみつかっている。

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 こういう調査では、煉瓦造りであるため、割れた面が傷まないように、遺構が掘りあがると一個一個煉瓦のサイズを測ってカバー用煉瓦を焼き、帽子みたいに上面に載せてやる。そうやってスコールに備えるというわけだ。さらに発掘を行った各建造物遺構の周囲には記念石碑のような柱列を設け、牛がそこに入って荒すのを防ぐ柵としている。

 話を戻し、ティウラコット遺跡で、ネパール政府が日本隊に対して貸与してくれたのは、第二次世界大戦の対ドイツ戦でロシア・ソビエトが使っていた軍用車を戦後、彼の国に贈呈したものだという。ベースキャンプは英国が築いた役人が巡察に使うための二階建ての白い館も貸与されている。日本隊はジープ、それから遺物置き場としてのプレハブ小屋を持ち込んだ。なんと屋根を持ってくるのを忘れたためそれがない。仕方がないので、現地の人に手伝ってもらい、石積みに草ぶきの小屋をつくってそこを遺物置場としたのだそうだ。発掘作業では、休憩所にテント、発掘中は直射を避けるためビーチパラソルをさし、鍬のような農具で、煉瓦混じりの硬い土を掘り下げていったのだ。老学者は目を細めそういった。

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 スライド画像にある整備された煉瓦造りの沐浴場は学校プールに少し似ている。岸辺の菩提樹がみなもに映えて美麗である。私は、聖人釈迦自身よりも、熱心に聖地を整備していった古代インドの覇王に関心をもった。よほどに自らの業というものを感じていたのであろう。でもなければこれほどの事業を起こすことはあるまい。マヤ堂にひざまずき、沐浴池に身を浸たりながら落涙し続けたであろうアショカ王はいったい何を懺悔していたのであろうか?

 アショカ王は、紀元前二六八年(異説紀元前二七二年)、マウリア朝第二代ビンドゥサーラ王の跡を襲って即位した。その際、激烈な王位継承戦争があり、兄弟九九人、大臣五百人を殺した。即位してから九年後、カリンガ国を襲って征服し、十五万人の捕虜を得て、このうち十万人を殺した。その中には優れた僧侶も多数いた。王は戦後、深く後悔し、仏教帰依して、八万四千の仏舎利を建立。また遠くアレクサンダー大王の遺臣たちの国々ヘレニズム諸国やスリランカ島に使節を送り交流した。インド亜大陸の大半を制した彼は、聖帝を意味する転輪王と称されるに至る。彼がいかほどの人を殺したかという話は史料として信憑性に欠け、考古学による新発見がなされるまで、伝説の域を脱することはできないのが現状である。

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 ああ、そうそう。そろそろ、身分を明かしておこう。私は千葉県成田市に事務所を構える『月刊カルト考古』の編集長だ。成田山新勝寺の新は、東国で反乱を起こした平将門が「新皇」を自称したので、これを呪い殺して官軍を勝たせたゆえに新勝寺という。そこの門前町の一角にある。資本はさる新興宗教が出している。名前はあかせない。命は惜しいのでね。ネタは出入りの貧乏な若い学者が運んでくる。執筆している私も思うのだが、なんとも胡散臭い雑誌だ。読者の皆様方におかれては今後ともよしなに。敬具

     了

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ノート20120703

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取材

於2012年5月26日立正大学 一般社団法人日本考古学協会第78回総会基調講演 立正大学名誉教授坂詰秀一「釈迦の故郷を掘る」より

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