紀行/いつものやつね
どういうわけだか私は飲食店の店員にすぐ顔を覚えられます。群馬県では家内とよく行くいくつかのフレンチレストランでは予約をいれることも多いためか、名前まで憶えられてしまい、さすがだなあ、と感心することしきり。千葉県の本社近くに借りた単身赴任用アパートには「すきや」があり、そこも例外ではありません。
朝メニューの豚汁・卵セットは、シラスがついていて、私はいつもの席に座り、御飯をミニサイズ、キムチをつけて注文。愛想のいいマダムが店員さんにいらっしゃり、その時間を仕切っておられます。
「いつものやつですね?」
「はい、いつものやつです」
定番なので、メニューまで憶えられてしまいました。そこに通い出してしばらくすると、学生バイトの青年がいて、彼も私の顔とメニューまで憶えてくれました。
「いつものやつですね」
「はい、いつものやつです」
「実は、お客さんが入店したとき、すでに、準備させて頂きました」
(――できる!)
彼は、美青年というわけではないのですが、背が高く筋肉質で、笑みに屈託というものがない好漢タイプ。学業のためか、毎日くるわけではありません。外勤の関係で、二か月間が開いて同じ席に着きます。
「いつものやつですね」
「さすが、憶えているなんて」
笑みがこぼれます。
ある日、彼ではなく、研修中といつプラカードを胸につけた別のバイト生が、カウンターに立ち、注文をとりにきました。初めてのようなので、注文を細かくいいます。色白細身のイケメン君です。
「豚汁・たまごセット、御飯ミニ盛り、キムチをつけてください」
彼は、電卓を少し大きくしたサイズの打ちこみボードに注文を入力して行きました。
「豚肉……たまご……セット。御飯は大盛りですね?」
「ミニ盛です」
「以上ですね?」
「キムチを付けてください」
「かしこまりました。繰り返させて頂きます。鮭セット、御飯並盛、納豆つきですね?」
「いえ、豚汁・たまごセット、御飯ミニ盛り、キムチをつけてください」
やきもきした様子で、厨房からマダムが飛び出してきて、平謝りし、注文を取りなおします。二人が厨房に下がると何やらイケメン君が、失敗のいいわけをし、「ボード打ちこみの仕方の教え方が不適切だった」とマダムに食いついているではありませんか。マダムは、「人の話を訊いていない。あなたが悪いんでしょ」と呆れ顔でいわれています。翌日、店にいったら、マダムと好漢君だけで、イケメン君はいません。二度と会うことはありませんでした。
「いつものやつですね」
「いつものやつです」
イケメン君の消息をあえて訊こうとは考えない私でした。
了
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ノート20120818/校正20160516