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馬蹄の音が大地を揺るがす。
地鳴りのように轟く音と共に、騎馬が駆け抜けていく。
疾風怒濤という言葉が当てはまるような剽悍な騎兵達が、勢いよく草原を南へと向かう。
新年の大祭を終え、気力も充実した王太子府軍は、彩国国境に布陣した。
彼等にとって今年の大祭は、生涯記憶に残るものとなったことは間違いない。
おそらくは、歴代最高の女舞を己の眼で見ることができた上、白虎神から舞姫への絶賛を耳にすることができたのだ。
技藝天にも劣らぬ舞であったと告げる白虎の言葉に、誰もが誇らしげに彼等の軍師を見上げた。
技藝天は天界における芸術を司る神である。
音楽の神でもあり、舞を生み出した神でもある。
その芸術の至高神に劣らぬとは、些か過分な言葉だろうが、その言葉が彼等を沸き立たせたことに違いはない。
兵士達は士気高く、出陣の声が掛かるのを今や遅しと待っていた。
「……何故か、妙に士気が高いですね」
やる気満々の熱気に包まれた将兵達を眺めやり、当の軍師が呆れたように呟く。
これでは、国境を侵し、彩国内まで雪崩れ込みそうな雰囲気である。
「大祭で、心の洗濯を大いにしましたからねぇ」
のんびりとした口調で彼女に答えたのは、犀蒼瑛将軍であった。
「颱は風の民ですから、賑やかなことが好きなのでしょうか」
「本気で仰ってます? それ」
不思議そうに問いかける翡翠に対し、蒼瑛は胡乱な眼差しで質問を返す。
「大祭が気分転換になったという意味ではなかったのでしょうか」
「……天然でしたか」
小首を傾げ、考え込む娘を眺めやり、痩身の美丈夫は、天を仰ぐ。
その近くでは、彼等のやりとりを耳にしていた将軍達も、何とも言えぬ表情であちらこちらに視線を彷徨わせていた。
「天仙もかくやという美しい舞姫の見事な舞に、心を洗われたのだと、どうして考えついてくださらないのでしょうね、麗しの軍師殿」
「……舞姫? わたくしのことでしたか」
大祭で舞った女性は、翡翠ひとりである。
そのことに思い当たった娘は、驚いた様に軽く目を瞠った。
「わたくしの舞ごときが士気に影響するとは思いもよりませんでした。あれは、楽を奏でてくださった将軍方のお陰ですし……気に入ってもらえたのなら、嬉しく思いますが」
「自覚がないというのは、時に罪ですな。美しい舞姫に心を奪われぬ男はいなかったというのに……高嶺の花に手を伸ばそうという不届き者がおるやもしれません。お気を付けを」
冗談めかした蒼瑛の忠告に、翡翠は肩をすくめる。
だが、周囲の将軍達の表情からも、それが単なる冗談ではないことを悟り、苦笑を浮かべた。
「充分気を付けましょう。ですが、わたくしが敵わぬ方々にはその様な方がいらっしゃらないので、助かりました」
「そうでしょうか?」
「えぇ。蒼瑛殿は力づくなど無粋な真似をなさらないでしょう?言葉の駆け引きを愉しまれる方ですから。他の皆様も、一番に相手の気持ちを優先させる方ばかりですし」
「……見事な牽制ですね。そう仰られては、下手に手出しができませぬな」
素直に応じる娘の言葉で抑止されたことに気付き、青年は苦笑する。
もとより、見た目より遙かに純粋で幼い娘に無理強いなどするつもりなど、微塵もない。
大輪の華の蕾を、どう丹精すべきかと悩む方が楽しいなど、彼等とて口に出せるはずもないのだ。
冗談めいた忠告などしてみせたが、実際は、力尽くで手折ろうなどと考えている者など一人も居まい。
逆に、武人として、男として、翡翠の目に留まりたいがために逸る心が士気の高さに表れているのだ。
「最早、罪作り等という問題ではないようですな。盛国の美女など、珍しい。姫君としては外聞が悪いやもしれぬが、しばらくの間、独身でいて貰った方が国のためかもしれませんね」
男の性を馬鹿馬鹿しいと思いながらも、蒼瑛はひとりごちた。
新年が明けたとて、戦況はそうそう変わらなかった。
相変わらず兵を小出しして、様子を探る彩国と、それを潰していく颱国。
どちらも決め手に欠けるような戦いぶりに、様子を眺めている周辺諸国も訝しげに見守っている。
毎日のように率いる将軍を入れ替え、先鋒をあたらせている王太子府軍の次なる戦略に、諸国の視線が集まっていた。
「綜翡翠、只今帰参いたしました!」
その日、先鋒を務めていた翡翠が率いる一隊が本陣へと帰還する。
天幕で待つ総大将に報告に現れた副将に、熾闇は笑みを浮かべて頷く。
「よく戻った。疲れたか?」
いつもなら、誰の目を憚ることなく、親友たる副将を抱き締める王子だが、大祭を過ぎた頃よりその行動が微妙に変化していた。
労う言葉はいつも通り、だが、その表情は甘さを含み、その場から動こうとはしない。
急速に精悍さを増してきた若者に落ち着きが感じられ、凛然たる雰囲気の中、どこか大人びた様子が見受けられる。
端から見れば、確実に翡翠と一線を引いている熾闇の様子に、古参の将軍達は彼が青年の域に達したことを知る。
親しげにしながらも、相手をひとりの女性として無意識に扱っている様子の熾闇に、微笑ましい思いを抱きながらも、未だ明確な気持ちに気付かずにいる鈍さに苦笑してしまう。
「いえ。これくらいのこと、疲れるなどありえませぬ。むしろ、そろそろ彩に疲れが見え始めましたね」
そんな若者の変化に気付いた様子もなく、娘はにっこりと笑みを浮かべる。
「我が君も、前線にお立ちになりたいのでは?」
「鋭いな。留守番は、もう飽きた。剣を振るう機会をもらえるなら、是非とも」
「では、近日中に駒をひとつ進めましょうか」
にこやかに応じる軍師の言葉に、総大将の顔に喜色が走る。
「近日中とは何時だ?」
「そう、急かさないでくださいませ。近い内と申しましても、今日明日中とは言えませぬゆえ」
「そうか……残念だが、その件は翡翠に任せる。今日はこれまでだ、解散して良いぞ」
途端にがっくりとした表情を浮かべ、第三王子は集まった武将達に退出を許可する。
あまりにも残念そうな様子に、彼等も苦笑しながら、主に一礼して天幕を出て行った。
武将達が退出して、その場に残ったのは翡翠と熾闇の二人だけとなった。
少しばかり気詰まりに感じながらも、熾闇は従姉妹の横顔をとても美しいと眺める。
仕事だ、任務だと割り切っている間は何も感じないが、それ以外の時になると、どうしても直接彼女を見つめることが難しくて、すぐに視線を逸らしたくなってしまうのだが、彼女と視線が合わなければ、こうやって何時まででも眺めてしまっている。
「……どうかなさいましたか、我が君?」
「え?」
熾闇のためにお茶の用意をし始めた翡翠が、彼に視線を向けることなく世間話のように声をかける。
その言葉に、若者は言葉に詰まり、絶句する。
「ど、どうって……?」
「以前は収まり具合がいいとか仰って、よくひっついてこられたのに、最近はなさいませんね」
「ひっつく……」
せめて、抱きついてきたと言って欲しかったと、視線を彷徨わせながら呟いた熾闇だったが、すぐに我に返る。
「いや、それは……翡翠に失礼だろう?」
「いつものことですから、別に気にいたしませんし、構いませんが?」
できれば、構って欲しいと切に願う若者だったが、その理由にまで思い当たらない。
「そろそろ、彩とのお付き合いを考えさせて貰わなければならない時期に差し掛かったようでございますね」
「……うん」
「熾闇様?」
端切れ悪く頷く熾闇に、翡翠は怪訝そうな表情になる。
「どうかなさいましたか?」
「いや。王都には戻りたくないと思っただけだ」
王都に戻れば、成人の儀が待っている。
成人王族として、公式の場に出席する回数が増えてくるだろうし、それ以上に妃問題が激しくなるだろう。
戦場を自由に駆け巡る熾闇にとって、王都で待つ妃は足枷にしかならない。
もし、夢半ばに倒れるようなことにでもなれば、哀しませるだけの何も与えることができない存在に、鬱陶しさが募るだけである。
要らない者を押し付けられたくないと、正直願ってしまう。
そうして、儀式の最後にある夜語りの姫の存在も、彼に重くのし掛かってくる。
側室扱いになる姫君を指名する気もないが、それが儀式だと押し付けられるのも癪に障る。
どうせなら、翡翠に頼むのが手っ取り早い方法だろうが、大切な親友を侮辱してしまうことになるので、頼むわけにもいかないのだ。
成人すること自体に何も問題はないが、儀式が絡むと話は別だ。
来年まで彩と戦闘していても構わないとすら願ってしまう。
「そんなにお嫌なのですか、成人の儀が」
「夜語りなどせずとも良いではないか。俺は王にはならぬ、だから、必要ない」
きっぱりと言い切って、第三王子は視線を逸らす。
「……おまえの、髪結いの儀は出席したいな。大祭のときに思ったが、あの、複雑そうな髪型、どうやって結ったんだ? 見てみたい。着飾ったおまえを見るのは、わりと好きだぞ。どの姿も似合っていて、綺麗だからな」
自分のことよりと話を逸らしていた熾闇だったが、翡翠に話を移して、本心から告げる。
「それはありがとうございます、と、申し上げておきましょうか。それこそ、わたくしもあの様な姿は、本当に好みませぬが」
「そうだろうな。あの姿を好む者であれば、今、この場にはおれぬだろう。血と汗と埃まみれでは、あの様な衣を纏うことはできないだろうからな。何処にいようと、どんな姿であろうと、おまえはおまえだ。それがおまえの意志ならば、俺はそれで構わない」
「……三の君様」
彼の言葉に少し驚いた様に翡翠は軽く目を瞠る。
いつの間にか、彼女より背が高くなっていた従兄弟は、その心も同じくらい成長していたようである。
それがすべてというわけではないが、それでも相手のことを認める鷹揚さは上に立つ者の資質としては得難いものである。
「わかりました。王都に戻りましたら、過去の成人の儀について大急ぎで調べてみましょう。王子の儀式はその母君かまたは後見が取り仕切るのが慣例。三の君様の場合、後見である右大臣家が取り仕切りましょう。我が君の意に添うような形になるかどうかは保障しかねますが、夜語りの儀について父右大臣に進言いたしましょう」
「……え? いいのか?」
一瞬、きょとんとした熾闇だったが、翡翠の言葉の意味を理解したのか、満面に笑みを浮かべる。
「これまでの中で、おそらく夜語りの儀を行わなかった方のひとりか二人はいらっしゃると思いますよ。典礼博士の元へ伺えば、これまでの儀式の資料がありますので、調べることが可能なはず。儀式自体を行わなかった方もいらっしゃったはずですから、なんとかなりましょう」
「助かった! 恩に着るぞ、翡翠」
「我ながら甘いとは思いますが、主のあの様なお顔は拝見したくはございませんものね」
嬉しそうに笑う若者を眺めやり、仕方なさそうに苦笑を浮かべた翡翠は、先程までの彼の表情を思い浮かべ小さく呟いた。