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新年の大祭を前に、陣内の浮き立つような空気が、天幕の中まで届いてくるような感覚に、風舞の舞姫は明るい笑みを浮かべた。
守護神獣に対し、一年間の感謝と祈りを捧げる祭だ、祭を主催する方も見物客も手を抜くわけにはいかない。
皆が皆、心から楽しめるようにと心配りをしている頃だろう。
風舞の所作は、物心つく前後から習い、すでに練習する必要がないほど身に染み込んでいる。
それでも、楽の音と合わせるために、ここ数日間、時間を見つけては人目のないところで将軍達と稽古を重ねていた。
蒼瑛が企んだだけあって、将軍達の腕前はかなりのものであり、不安なく音に合わせて舞うことができる。
あとは、自分の心次第なのだと、翡翠は自分に言い聞かせる。
教えを請う舞姫達に、幾度となく告げてきた言葉だ。
素直な感謝の気持ちを白虎神へ伝えること、これが風舞なのだ。
舞の神髄に到達するには程遠いが、己の心が舞の所作に繋がることだけは、いつも念頭に置き、心懸けている。
美しい所作だけを追ってはいけない。
それは、形ばかりが美しい空虚な舞となってしまう。
伝えたい気持ちを、祈りを胸に、風となって舞うこと。
自分に出来る精一杯のことをしようと、深く息を吸い込んで、彼女は目を閉じ、そうして真っ直ぐに前を見据えた。
僅かな衣擦れの音と共に、扉代わりの掛け布がそっと捲られる。
「姫様、お客様がお見えでございます」
「鈴蘭、お客様とは?」
蒼瑛と熾闇は先程来たばかりだ。
こんな時に一体誰がと、小首を傾げ、問いかける。
「嵐泰様にございます」
「嵐泰殿が? お通ししてください」
「今、竜胆が御案内を」
にこりと微笑んだ鈴蘭が、身体を横にずらし、道を開ける。
小さな灯りを手にした竜胆が、後ろを振り返り、小さく頷いて誰かに道を譲る。
その後ろから、長身の青年の姿が現れた。
黒を基調とした礼服を身につけた青年が、居心地悪そうな表情で侍女達に礼を述べ、翡翠の前に立つ。
殆ど表情が動かないと評判の嵐泰だが、その実、意外と表情豊かなのである。
王族であるが故に白を身に付けることを許された青年は、頑固なまでに黒を纏う。
末席に過ぎない名ばかりの王族であることを熟知している故ではなく、単に、色を合わせることが苦手だからという理由だ。
冷静沈着で勇猛果敢な将と名高い精悍な偉丈夫は、見た目よりも遙に人慣れぬ不器用な性格をしていることを翡翠は承知している。
そうして、彼が翡翠の侍女達を非常に苦手としていることも、彼女は知っていた。
「鈴蘭、竜胆、案内ご苦労様でした。しばらくの間、控えていなさい」
「はい、姫様」
楓や紅葉ほどではないが、やはり多少は強引な面を持つ鈴蘭と竜胆にここまで引きずり込まれたのだろうと察した娘は、侍女達を下がらせる。
ふたりの気配が完全に途絶えたことを確認した嵐泰が、ほっとしたように息を吐く。
「申し訳ありませんでした、嵐泰殿。ふたりが強引なことをしたのでしょう?」
「あ、いや……用があったのは、確かなことですし……」
ついうっかりと返事をしてしまった青年は、内容を認めてしまったことに気付き、微妙に顔を歪ませる。
しまったと思っているらしい様子が、長い付き合いの翡翠にはありありとわかった。
実際には、殆ど表情は変わっていないのだが、微妙な表情と瞳の動きから彼が何を思っているのかを推測することは、なかなか趣深いものである。
「そう言えば、いつも御傍に控えておられる楓殿や紅葉殿がいらっしゃらない様子……何かございましたか」
「えぇ。遣いを頼んだのです、藍衛殿へ」
「女子軍へですか? この時期に……」
彼が最も苦手とする女性達の姿がないことにすぐに気付いたらしい嵐泰は、ふと疑問に思ったらしく問い掛け、そうしてその答えに軽く目を瞠る。
「そうです。お察しの通り、罰です。先日、三の君様に不敬を働きましたので、その罪を購わせるために、王都へ返しました。今頃、藍衛殿の下で悲鳴を上げていることでしょう」
「そう、でしたか……」
どんな不敬なのか、恐ろしくて聞く気にもなれない様子の嵐泰は、困ったように視線を彷徨わせる。
「それで、御用の趣は何でしょうか?」
「あ……実は、これを……」
水を向けた翡翠に促され、青年は懐から袱紗に包まれた物を取り出した。
「白華……妹の物なのですが、よろしければ、軍師殿にお使いいただければと」
鮮やかな布を開き、中から簪を取り出す。
白華の名の由来となった白木蓮の彫り物が両端に設えられた見事な細工物であった。
「まぁ、これは……覚えています。白華様が風舞の舞姫に選ばれた折り、その髪を飾っていた簪ですね。あの時は大層美しい舞で、白虎様が上機嫌でございました。もう、六年以上前のことですが」
「覚えていただいて、光栄にございます。確かにその時の品。妹が、お守り代わりにと戦場に向かう度に某に預けるのです」
嬉しそうに微笑んだ嵐泰は、その簪を翡翠に差し出す。
「こんなに大切な物を、わたくしにお貸し下さるのですか?」
「よろしければ。侍女殿のことですから、準備に怠りはないだろうと思いましたが、お使い頂ければ、妹も喜びましょう」
翡翠が手を伸ばし、白木蓮の簪を手に取ると、青年は安堵したような表情を浮かべる。
おそらく、天幕の前でかなり長い間、悩んでいたのだろう。
娘は、簪の一本を抜き取り、その代わりに白木蓮の簪を差し入れる。
姿見で具合を確かめ、満足したように微笑むと、嵐泰を見上げる。
「似合いますか?」
「えぇ」
「よかった。白華様の舞に恥じないよう、頑張らなくては」
大切な妹の簪を翡翠にと貸してくれた嵐泰のためにも、誰もが納得してくれるように舞わなくてはと、綜家の末姫は宣言する。
「ありがとうございます、嵐泰殿」
「いえ。こちらこそ、ようございました」
大役を果たしたような表情を浮かべた青年は、ゆったりとした仕種で一礼する。
「では、また後ほど」
それだけ告げると、彼は元来た道を辿り、天幕を去っていった。




