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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
89/201

89

 新年の大祭を目前に控え、王太子府軍は北東へと軍を一時撤退させた。

 盛大に撤退の噂を流し、物見斥候すら残さず、見事に軍を引いてしまったのだから、これには内部的な反駁も出たが、翡翠の策だと聞いた者は、そのまま意見を取り下げた。

 王都の新年祭に間に合わせるために、王太子府軍は撤退をしたと、王太子府軍自らがその噂を流して王都とは別方向へ移動したのだから、彩国はその噂を鵜呑みにはしなかった。

 今までも、散々、王太子府軍の奇策に痛い目に合わされてきただけあって、彼等が流した噂を真実だとは思わずに、また、追い駆けようともせず、彩国軍は、自国と颱国との境界でじっと敵の動向を探ることにしたのだ。


「見事な衣装だな。間に合わせとは言えない豪華さだ」

 当日まで仕事らしい仕事がない若者は、暇を持て余したついでに軍師の天幕へ遊びに行き、陰干ししている衣装を目にして、素直に感心した。

「えぇ、間に合わせではないようですよ。用意周到な御方に見事に図られました」

「……蒼瑛か」

 衣装に背を向け、ことさら無視して仕事に励む翡翠の御機嫌はあまりにもよろしくない。

 都の姫君と異なり、華々しく着飾ることを好まぬ娘としては、この豪華絢爛な衣装が気に入らないらしい。

 色目が派手というわけではない。

 むしろ、地味と言った方がいいだろう。

 蒼氷から萌葱へと移る襲は、冬から春へと移りゆく様を表しているため、非常に抑えた色合いだ。

 肩巾は、白虎神が空を駆けるときに乗る瑞雲の色を示している。

 白虎神に捧げる舞姫が纏うに相応しい色合いだ。

 色に限って言えば、地味だと断言できるが、その生地に関して言えば、服飾に疎い熾闇でも非常に高価そうだとわかる上質さだ。

 生地の発色、艶、そして地織の細やかさは、溜息が出るほど見事なものだ。

 一色織りの衣が光の加減で様々な色へと変化して見える。

 これだけの物を手配するには少なくとも一月以上は掛かるだろう。

 それを翡翠の寸法に合わせて仕立て上げるとしたら、到底、間に合うわけもない。

 つまり、遠征に向かう前にすべての発注を終えて、品物が届くだけの状態で出発したと考えられる。

 当然のことながら、そのことを翡翠は知らなかったのだろう。

 そうでなければ、ここまで彼女が怒るわけもない。

 怒りを何かにぶつけるような真似をしない翡翠だから、暴走した侍女達に当たり散らすようなことはしていないことは確かだ。

 だが、彼女達にしてみれば、面と向かって怒鳴られた方が余程ましだったのだろう。

 しきりに熾闇に向けて目配せをし、助けを求めている。

「いささか、やりすぎたようだな」

 かなり温厚な性質を演じている翡翠をここまで怒らせることができたなら、蒼瑛も本望だろうと、些か妙な感想を抱いた熾闇は、そう呟く。

「罰が軽すぎたように思えてきますね」

 ムスリとしたまま、書面に視線を落とし、次々と処理しながらも翡翠は答える。

「そうか? ならば、何か追加しようか」

「本気で仰ってますか?」

「無論だとも。俺にとって、おまえの言うことはすべて正しいからな」

 思わず手を止めて、熾闇をまじまじと見た娘に対し、若者はごく真面目な表情で応じた。

「それは困りましたね。間違った答えを出さないか、今でも悩み抜いておりますのに、そう仰られますと、よけい間違えられなくなります」

 苦笑して、黒髪の娘は困ったように首を傾げる。

「間違えても良いさ。俺が責任を取る。おまえは、おまえの信じることをすればいい。そのために、俺の手に権力とやらがあるのだろう。俺にはいらぬものだが、おまえ達を守るためなら、いくらでも使ってやろう」

「何処でその様な言葉を覚えられたのやら……部下を口説いてどうなさるのですか、まったく。機嫌を直せと仰りたいのでしょう? 今のお言葉で直りました」

 肩をすくめ、そう答えた翡翠は、くつくつと笑い出す。

「そうか。それならよかった。おまえが映えるように用意されたのだろう? さぞかし似合うことだろうな。本番まではとっておかなくてはならないのが残念だが」

「姫様のお姿は、当日までお見せできませんが、三の君様、あてられてみてはいかがでございましょう?」

 翡翠の機嫌が直ったことから茶目っ気を出した紅葉がにこやかに告げる。

「は?」

「お色目的には、三の君様にもよくお似合いだと思いますわ。さぁ、ご遠慮なさらず」

 くすくすと笑いながら、楓までが衣装を下ろし、熾闇の肩に着物を羽織らせる。

 しなやかにまとわりつく上質の絹の思わぬ重さに目を丸くした若者は、お遊び好きの侍女達を窘める機会を失った。

「紅を差してしんぜましょう。茜と緋牡丹を合わせたお色がお似合いですわ」

「へ?」

「動いてはなりませぬ。はみ出てしまいますわ」

 どう考えても不敬であるが、幼い頃より親しんできた相手だけに熾闇も迂闊に対応できず、硬直したまま唇に紅を刷かれてしまうハメに陥る。

「まぁ、素敵。よくお似合いですこと。これでは、なまなかな姫君では太刀打ちできませんわね。三の君様が女舞の舞姫になられても、何の違和感もございませんわね」

「御髪を整えて、もっと綺麗にいたしましょう」

「わっ! ちょっと待て!!」

 女達の迫力に、大慌てで抵抗しようとした熾闇だったが、有無を言わさず髪を解かれ、着付けられて、げっそりしたところに姿見を掲げられた。

 そこには、翡翠と面差しの似た凛々しい舞姫の姿があった。

 額に軽く掛かる癖のある赤紫の髪に、金の肌、意志の強うそうな眉と闊達そうな闇色の瞳の舞姫は、肌の色を変えれば、嵐泰の妹である白華姫にも何処か似ている。

「……っげ」

 姿見を眺め、熾闇の頬がひきつる。

 満足そうにうっとりと溜息を吐く侍女達と、笑いを堪えるように熾闇から顔を背ける翡翠。

「うちの姫様が一番だと思ってましたが、三の君様も相当な美女ぶりでございますわね。眼福ですわぁ」

「おい! 俺は、男だぞ!」

「存じておりますが」

 切羽詰まって訴えてみたが、相手は強者、ケロリとした表情で応じる。

「こういうものは、女性の方が似合うだろう」

「えーっ!? 三の君様、よくお似合いですわ」

「翡翠」

 これ以上は相手にできぬと、熾闇は従姉妹を呼ぶ。

「はい?」

 笑いを堪えていた娘は、主の表情に気付くのに遅れた。

「返す」

「は……」

 肩を掴まれ、引き寄せられて、何を返すのかと疑問に思った翡翠だが、唇を塞がれ、言葉を失う。

「……っんぅ!」

「ひっ……姫様っ!」

 直接口紅を返すという荒技に出た熾闇と、無理矢理受け取るハメに陥った翡翠の接吻けを目の当たりにした侍女達は、顔色を変え、悲鳴にも似た声を上げる。

「返したぞ。大体、こういうモノは、女性の方が似合う」

 ぷはっと唇を離した若者は、仏頂面でそう告げる。

 ざっと帯を解き、衣を脱いで楓に押し付けると、手の甲で唇を拭う。

「紅がべとべとして気色悪い。よく、こんなものをつけていられるな。あ、おまえが紅差さないのは、それだからか? 悪いコトしたな」

 茫然としている翡翠を振り向き、自分なりの解釈で化粧らしきものをしない従姉妹に謝罪した熾闇は、今度は指先で彼女の唇についた紅を拭い取る。

 思いのほか、それが優しい手つきであったことに、翡翠が微笑う。

「わたくしよりお似合いでしたのに、勿体ない。風舞の舞姫をお願いすればよかった」

「おい。笑えない冗談はよせ」

 顔色を変えて答える若者に、娘はくすくすと笑う。

「本来、舞には男女の区別はありませんでしたからね。どちらがどう舞っても良かったものを、いつの間にやら区別をつけたと白虎様が仰っておられました。もともと、熾闇様も舞はお上手なのですから、構わないと思いますが」

「いや、構う! 今、おまえの苦労がよくわかった気がしたぞ。蒼瑛に復讐してやろう。待ってろよ」

 ぽんっと翡翠の肩に手を置いた第三王子は、姿見で紅が残っていないかを確認し、結い上げられた髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて元に戻すと、軍師の天幕を後にする。

「姫様、申し訳ございません~」

「大丈夫ですよ、楓。仔狼がじゃれついてきたようなものです」

「三の君様は仔狼ではございません!」

「戦場では気の失せた者に、口移しで水を飲ませますし……」

「姫様がその様なことをなさったことはございません」

 青ざめて、今にも泣きそうな表情で訴える侍女達に、翡翠は困惑する。

「檸檬水や砂糖水なんかの味見とか」

「普通、そんなことはしません!」

 きっぱりと否定され、いよいよ対応に困ってしまう。

 実はつい最近まで、よくやっていたとは言えなくなってしまった綜家の末姫は、視線を泳がせるに留まった。


 天幕を出た熾闇は、そこでばったりと犀将軍に出逢った。

「おや?」

 王太子府軍随一の色事師と陰で言われる美丈夫は、第三王子の姿に違和感を覚え、右手の甲に視線を止めた。

 鮮やかな緋色が擦り付けられたように手甲の一部を染め上げている。

 その艶めかしい色合いと若者との不釣り合いさに怪訝そうな表情を浮かべ、王子の顔を見つめた犀蒼瑛は、軽く目を瞠った。

 闇色の瞳の王子の唇が、濡れたように赤く染まっている。

 彼が出てきた天幕が、軍師のものであると確認し、蒼瑛は少しばかり悪戯心を起こした。

「……美女の唇は果実のように甘かったですか?」

 にっこりと極上の笑みを浮かべ、そう問いかける。

「……は?」

 てっきり慌てふためくと思っていた総大将は、何を言われたのか判らないと言いたげにきょとんと蒼瑛を見つめている。

「それ。女性の紅でしょう?」

 熾闇の右手を差し、さらに問いかけると、王子は渋面になる。

 照れる気配など微塵もない。

 これには、蒼瑛も首を捻る。

「紅が移るようなことを、そちらの天幕の美姫となさったのでは?」

「何だ? それは」

「いや、だから……」

 さらに仏頂面になった熾闇を前に、痩身の青年は非常に珍しいことに言葉に詰まった。

「その紅は、女性の唇を鮮やかに彩るためのものでしょう? それが男に移るとすれば、普通……」

「あぁ、そういう意味か。残念だが、おぬしが期待しているようなことではない。翡翠の侍女達だが、あいつが優しいことをいいことに、少しやりすぎるきらいがあるな。藍衛に話して、配属について考えさせた方がいいかもしれぬな。あれでは、翡翠の害にしからぬ」

 不快そうに、だが真剣な面持ちで告げる若者に、蒼瑛は神妙に頷く。

「上将がそうお考えなら、藍衛殿に話を通すのもよろしいでしょうね」

「そうしよう。大祭の準備はどの程度進んだか? 状況が知りたい、本陣の天幕まで足を運んでくれぬか?」

「御意」

 頭ごなしの命令ではなく、八つ当たりもせずに物を頼む熾闇に、ひねくれ者と評判の青年も素直に頷く。

「悪いな」

 そう言って、先を歩き出した若者の後を追い駆け、蒼瑛も歩き出す。

「……一体、何があったんだろう……?」

 それをどうやって聞き出すか、彼にとって愉しい命題が与えられたようであった。

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