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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
87/201

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 彩の進撃が行われたのは、それから数日後のことだった。

 いつものような小競り合い。

 だが、その小競り合いで確実に相手の兵力を殺がないと、持久戦では不利になる。

 持久戦とは、ある意味、消耗戦と言ってもいいかもしれない。

 補充できる間はいいが、兵力を消耗し尽くし、補充できなくなった時点で敗北が決定する。

 短期間で戦を終結させてしまう王太子府軍は、それまでの戦果から長期戦が苦手のように錯覚されがちだが、大陸随一の兵力を誇る颱国が最も得意とするものは、持久戦なのだ。

 無駄に兵力を消耗することをよしとしないだけで、必要とあらば、国力を最大限に生かした戦法を取ることが可能なのだ。

「功を焦るな! 一番の功は、生きて王都へ戻ることだ。慌てず、確実に相手の動きを止めろ」

 初陣などで功績を上げようと浮き立つ兵を窘め、基本に添った戦い方をするようにと、指示が飛ぶ。

 遠矢で相手の数を減らし、足を止めたところで、本隊が突撃する。

 護りに徹した戦法である。

 王太子府軍のよく取る戦法としては、本隊が形勢不利と後退し、敵軍が前進してきたところを両翼が包み込むように前進し、回り込んできた遊軍が、敵軍の背後を突くというものだが、彩は決して深追いはしてこない。

 それどころか、本隊が突撃して暫くしたところで後退を始め、自国へと逃げ込むのだ。

 颱が決して他国の領土へ足を踏み入れないという事実をよく知っているからこそ取れる戦法である。

 遊軍を出し、背後を狙うには、彼等は彩国領土を突っ切って行かねばならないのだ。

 しかも、彩国軍は本隊を領土から動かさず、先鋒だけを攻め込ませている。

 延々と続く様子見の戦いに、王太子府軍の指揮官が痺れを切らし、精神的に追い詰められるのを待っているのだ。

 普通であれば、その戦法は非常に有効なものであろう。

 だが、狙いが何であるかを見抜いてしまえば、苛立たしい戦法も児戯に等しくなってしまうのだ。

 挑発に乗って無茶をしない、と言うことが、今の彼等の戒めであった。


 本陣に馬を立て、戦局を見極めている翡翠の傍に、将達が集まってくる。

 今現在の状況で、彼等が兵を率いる必要は全くない。

 それよりも、恐れるべきは刺客の存在であった。

 長期的な戦の場合、単調な攻めが続くことに慣れたとき、そこに油断が生じる。

 その僅かな油断が、文字通り命取りとなる。

 軍を束ねる位置にある者を狙うことで、全体に動揺を与えることができる。

 軍神の寵児ともいえる総大将の熾闇か、あらゆる作を練り上げる翡翠を狙うことで、王太子府軍の結束を乱そうと敵が考えるのは妥当だろう。

 それゆえに、戦局を見つめ、己がいる必要なしと判断した将達が、本陣へと戻り、主副将の警護にあたろうとしているのだ。


 風が運ぶ騒乱を静かに聞き取っていた副将は、小さく頷いた。

「麟霞殿、晴璃殿、珀露殿、お出でなさい」

 振り返った黒髪の娘は、王子達にそう告げる。

 例え身分が下であろうと、地位が雲泥の差で上位にあたる娘は、臆することなく彼等を招き寄せる。

「前線に出ます。供をなさい」

「はっ」

「お待ちください! 何を申される」

 反射的に頷いた王子達とほぼ同時に、莱公丙が異を唱える。

「いけませんか?」

「もちろんです! 軍師殿が前に出られる必要性がございませぬ」

「必要性なら、充分に。右翼がもうじき崩れます。崩れる前に立て直さなければ、士気が落ちましょう。主将がお出ましになられる必要はございませんが、わたくしが出た方がよいと判断いたしました」

 手にしていた軍配で、右翼の突端を指し示した翡翠は、穏やかに応じる。

 その言葉通り、彼女が指し示した場所は、他の配置よりも若干押され気味であった。

 将がその場所で指揮を執る必要が確かにあると、そう判断できる。

「ならば、某が参りましょう」

「いえ、私が」

 そう名乗り出たのは、嵐泰と笙成明であった。

「わたくしにお任せくださいませ。お二方が役不足であると言う事では決してございません。ただ、わたくしが出るべきなのです」

 にっこりと微笑んで告げる翡翠の言葉に反論できる者はそう多くない。

 しかも、その少数派の犀蒼瑛が彼女に同意したならば、もう誰も否を唱えられないだろう。

「美女の応援ともなれば、男たる者、半端な真似はできぬからなぁ。これに勝る援軍はないでしょうね。是非ともお供したいところではございますが、お手並みをこちらで拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」

「勿論ですとも。では」

 極上の笑みを浮かべた綜家の末姫は、小姓から弓と矢筒を受け取ると、馬の腹を蹴り、駆け出す。

「お待ちを、翡翠殿!」

 慌てた三王子が、手綱を握り直し、後を追い駆ける。

 経験すべてが最高の学習になることも気付かずに、彼等はただひたすら従姉妹を追う。

「いいなぁ、翡翠のヤツ。俺も、総大将なんて役職、利将軍に押し付けておけばよかった。そしたら今頃、前線に出られたのになぁ……」

「なりませぬ!」

 羨ましそうにぼやく熾闇の傍で異口同音の四重奏。

 利南黄、嵐泰、莱公丙、笙成明である。

 それを聞いた犀蒼瑛が大爆笑をする。

「軍師殿がいらっしゃらないと、途端にお目付役が増えますなぁ、殿下」

「笑い事ではございません、蒼瑛殿。兄上は、我が国にならなくてはならない大切な御方なのですよ」

「異な事を申される、青牙殿。自分の価値は、自分が定めるもの。他人が定めるものではござるまい。どんな身分、地位にあろうとも、己がただの人であることを上将はよくご存知だ。下で仕える者としては、そのことを誇るべきなのではございますまいか?」

 窘めようとする青牙を、逆に蒼瑛が切り返す。

 その言葉に、青牙は戸惑う。

「ただの人であることを自覚していることを誇る……? 王族として、それは許されざる考え方だと思いますが」

「何を持って許されぬと仰られるか? 王とて人の子でござろう。王がこの場にいらっしゃれば、上将と同じことを申されますよ」

 ニッと笑った青年は、前線へと駆けていく騎影を見つめた。


 緩く結わえた髪を風になびかせ、疾走していた翡翠は、手綱から手を放し、矢筒から矢を掴むと、弓に番え、無造作に放つ。

 遙か彼方の最前線で、射止められ、落馬する敵兵の姿が見て取れた。

「……すごい……」

 思わず見惚れた麟霞の視線の先で、再び落馬する兵士の姿。

 弛まず流れるような動作で連射し続ける翡翠の様子に、少年は素直に感動する。

 弓矢なら、他の兄弟達に負けないと思っていたが、やはり三の兄や従姉妹には及ばないと、厳然たる格の違いを見せられて口惜しいとも思えず、ただ見惚れていたが、ハッと我に返り、自分も矢を番える。

 矢を放つ麟霞を、翡翠が柔らかな眼差しで見やり、微笑みながら頷いてくれたことが、彼の行動が正しかったのだと嬉しくなる。

 突然の矢雨の援護に驚いた兵達は、副将と三王子の姿に歓声を上げる。

「さぁ、己が護るべきものを、護りなさい」

 大きな声で鼓舞するでもなく、柔らかな声音で告げるその言葉に、兵達の士気が上がる。

「全軍突撃!」

「全軍突撃!」

「副将と殿下方をお守りせよ!」

 勢いを盛り返した右翼軍は、右手の得物を掲げ、彩国軍へと向かっていく。

「ここは、あなた方にお任せしましたよ」

「御意!」

 翡翠はそれだけ告げると、手綱を引いて馬首を返し、元来た方へと再び馬を走らせる。

 その後に続いた王子達は、何が起こったのだろうかと驚きを隠せない。

 彼女がしたことは、矢を射て、兵に声を掛けただけ。

 策を授け、指揮を執ったわけではない。

 なのに、劣勢になりつつあった右翼軍を立て直し、勢いづけた。

 援軍を送ったわけでもない。

 だが、確実に戦況が変わっていく。

 翡翠が人心を掴んでいるからできることなのだろうかと、王子達は考える。

「どなたがなさっても、同じ結果を生み出せますよ」

 彼等の疑問に答えるように、翡翠がにっこりと笑って答える。

「要は、矢を射掛ける好機、味方に援護が来たと思わせること、そして、己の本来の使命を思い出させること、これらが上手く噛み合って、良い流れを作り出すということです」

 何でもないことのように告げる娘の言葉に、三人は、彼女がこの状況を彼等に見せるために供に呼んだことにようやく気付く。

 上に立つ者として、相応の期待をされているのだと、少年達は表情を改めて、大きく頷く。

「よく、理解できました。翡翠殿」

「戦に感覚が慣れてしまっては、緊張感を失ってしまいます。常に緊張感を保ち続けることは難しい。ですが、常に初心に返らないと、油断が生まれ、己が命を失うことになってしまいます。いくら策を弄したところで、慢心を持つ者を助けることなどできはしない。哀しいですが、それが『戦』というものです」

 馬上で背筋を伸ばし、静かにそう告げる翡翠の表情は冷徹な施政者のもので、彼等はもうひとつの事実に気付く。

 それは、口に出すことも憚られる程、忌まわしい指摘だ。

 まさかそんなことを翡翠がさせるわけがないと思っていても、味方に対し、それほどまでに冷酷になれるわけがないと思ってみても、気付いてしまった事実を打ち消すことができない。

 初めて彼等は、連勝を重ねる天才軍師、綜翡翠を恐ろしいと思った──

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