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「や、これは……かなり絡み付いてますね。何をなさってたんですか、お二人とも」
主将に命じられ、注意深く飾り留め具を眺めていた笙成明は、溜息混じりで問いかけた。
本来ならば、小姓に命じるべき仕事だろうが、手先が器用な成明が解いた方が遙かに早い。
その点に関しては、熾闇の判断は確かであった。
「……髪なら、切ればよろしいでしょう」
成人の儀式のために髪を伸ばしてはいたが、本来、それほど髪の長さに執着しない翡翠は、うんざりしたようにそう告げる。
「駄目だ!」
「駄目です!」
だが、間を置かず、即座に激しい反駁が男達から返ってきたため、娘は目を丸くする。
「これほど美しい髪を切るなんて、絶対に駄目ですよ、軍師殿。不揃いになってしまっては、白虎様も嘆かれましょう」
「そうだぞ、翡翠。俺と違って、癖のない綺麗な髪なんだ、切ったら勿体ない」
「……前にも似たような言葉を聞いた記憶が……殿方は、髪の長い女性を好ましく思うのでしょうか?」
思わず問いかけた翡翠の言葉に、熾闇と成明が見事に固まる。
「そ、そうでもないと、思うが……」
「綺麗な髪、という条件がありますね」
「……それは、確かにあるな」
顔を見合わせた若者達は、ぼそぼそと小声で話し合う。
「やはり、解いた髪に指を絡ませたいという気になるからでしょうか? 特に好ましく想う方の」
「ああ。翡翠の髪、櫛通り良さそうだしな」
丁寧に、慎重に、熾闇の肩から飾り留め具を外した成明が、今度は留め具から翡翠の髪を優しい手つきで解いていく。
その器用な指先に神経を向けながら、主と会話を続けている青年は、お互いの話が微妙にずれていることに気付かない。
「軍師殿、痛みませぬか?」
「えぇ。大丈夫です。続けて下さい」
髪自体には神経が通っていないはずなのに、細かく気を遣う成明がおかしくて、翡翠は笑みを噛み殺しながら頷く。
ようやくきれいに元通りに解かれると、三人三様でほっとしたように息を吐いた。
「お手数をおかけいたしました。ありがとうございます、成明殿」
「礼を言う、成明」
「いえ。切らずにすんで、何よりでございました」
立ち上がった成明は、翡翠に手を差し出し、彼女を立ち上がらせる。
その横で、同じように立ち上がった熾闇が、まじまじと彼女の髪を眺めた。
「本当に伸びたなぁ……髪を結うのに、そんなに長さが必要なのか?」
「いえ、ここまで長さは必要ないでしょう。重いし、手入れするのも面倒なので切りたいのですが、母と姉が許してくださいませんので、ここまでの長さになりました。髪結いの儀の時に一度切りますし、その後、適当な長さに切り揃えるつもりにしております」
「……勿体ない」
翡翠の言葉に、熾闇と成明が同時に呟く。
「その、切った髪は、何かに使えないのか?」
「針山の詰め物くらいですよ」
惜しそうな表情で熾闇が問いかけると、顔を顰めて翡翠が答える。
「そうなのか?」
納得いかないような表情で、王子は傍に控える将軍に視線を流す。
「あの……お守りに……」
「お守り?」
「えぇ。髪を紐のように編んで、それを鎧の肩紐にするのです。愛しい女性の元へ無事に戻れるようにと、厄災除けのお守りにする兵士が多いですよ」
「へぇ……」
照れ臭そうな表情で告げる成明に、熾闇は感心する。
「成明も、そのお守りを持っているのか?」
「滅相もございません。その様な女性は、私にはおりません」
「じゃあ、髪結いの儀が終わったら、翡翠の髪を貰うといい」
「はぁっ!? そ、それは……」
無邪気な熾闇の言葉に、頬を赤く染めた成明は慌て出す。
「いいよな? 翡翠」
「えぇ。どうせ切り捨てるだけの髪ですし、わたくしの髪で、成明殿のお役に立てるのなら構いませぬが」
「実に嬉しいお申し出なれど、今はその話ではなく、先程までの状況になった経緯をお伺いしたいのですが」
受けるわけにも断るわけにもいかず、話を誤魔化してしまおうと、成明は最初の時点へ強引に話を戻してしまう。
拙いところに話が戻った熾闇は、肩をすくめ、それでも正直に話し出す。
「俺の背が伸びたという話をしていたんだ、最初は。それで、何だったかな? あぁ、そうそう。翡翠をこう、抱き締める感触が、仔猫を抱いているときの感触に似てるって話をしてた時に髪が絡まって……」
「……仔猫?」
どうしてそんなところに話が飛ぶのだろうと、不思議そうに青年が首を傾げると、王子は途端に得意げな表情になる。
「ほら、小さくて、暖かくて、甘くていい匂いがするだろ? それに、ふわふわと柔らかくて……仔猫、触ったことないか?」
「いえ。ありますが」
困ったような表情で答えた成明は、ふたりにわからないように溜息を吐く。
翡翠が不快に思って暴れた理由は判ったが、それをどう、上司に伝え、窘めるべきなのか、言葉に困る。
悪意の欠片もない無邪気すぎる王子を微笑ましいと思うが、それも時と場合によりけりだろう。
相手が乳兄弟で幼馴染み、しかも従妹であれば、彼女を異性であると認識しづらいのだろうが、そろそろ自覚して貰わないと困るのだ。
なにせ、成人前とはいえ、王族には次代に血を残す義務がある。早い者であれば帯刀の儀を終えたあたりで子を成す王子もいるのである。
特に、熾闇には、周囲の者達の期待が大きい。
天才の名を欲しいままにしながら、病弱のために夭逝した第一王子峰雅と並び、武で名を馳せる熾闇の血を多く残したいと、本人の意に添わぬことを承知ですでに画策している輩がいることは確かだ。
その熾闇が、未だ少年期の真っ直中で色恋沙汰よりも、武芸に励み、風と共に遊ぶことを一番と思っているようなお子様であることを、軍の人間以外知らないと言うことが驚きである。
己の任務に忠実で、禁欲的な王子だと、外部の人間に思われているのだ。
「あまり、そのお姿でおふざけになりませぬよう、お願い申しあげます。今回は切らずにすみましたが、もし、絡み付いて解けず、切らねばならないとなりましたら、後悔なさるのは上将でございましょう」
「む……わかった。今度から、武装を解いてからにする」
「お願いいたします」
自分ではこれ以上の説明は無理だと諦めた青年は、本当に言いたいことを秘め、本題から逸れたことを告げた後、本来の職務である定時報告を始めたのであった。