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いくつかの小競り合いをすませ、王太子府軍が王都颯州へ戻ったのは、彼等が出立して三ヶ月を過ぎた頃のことであった。
北での戦を調停した黒獅子軍はすでに帰還しており、王都では黒獅子軍と王太子府軍の活躍を喧伝する声があちらこちらで聞こえていた。
「いいか! 誰が何と言おうと、俺はおらんぞ!! 軍の関係者以外、誰であろうと一切取り次ぐな。文も預かるなよ。贈り物が届けば、即刻送り返せ! これは命だ。徹底しなかった者は、処分する」
王宮の東にある東宮の自室で、第三王子熾闇は、苛立たしげに部屋付きの小姓達にきつく命じた。
大らかで伸びやかな若者にしては珍しい言葉に、勤める小姓達は神妙に頷く。
それもそのはずである。
彼等は主である王子に、いたく──失礼を承知で──同情していたからだ。
現存する王の息子達の中で年長であり、かつ嫡子である第三王子は、王太子府軍を総括する大将を任じられているが、まだ成人していないとはいえ精悍で見目麗しい若者であるため、あらゆる欲を持つ貴族の令嬢及び、妙齢の娘を持つその家族が彼とよしみを通じようと、王子が王都に戻ってからというもの、ひっきりなしに面会を求め、贈り物を届けようとしているのだ。
質実剛健をよしとする実直で純朴な熾闇にとって、現在置かれている状況というものは、鬱陶しい以外のなにものでもなかった。
日々不機嫌になっていく主を気の毒に思いつつも、こういう時に王子の憂さ晴らしをしてくれるはずの人物の不在に溜息を吐きたくなる。
実は、熾闇の不機嫌のもうひとつの理由がそこにある。
彼の大切な幼馴染みであり、乳兄弟であり、従姉妹である綜翡翠に関する噂話に、王子は神経を尖らせていたのだ。
最近、犀蒼瑛や嵐泰の屋敷へよく足を運び、また、莱公丙や笙成明と遠乗りや市を歩く姿を見かけるといった噂であるが、それ自体、別におかしなものではない。それぞれに美丈夫として名を馳せているが、彼等は王太子府軍の将軍であり、翡翠も官服──つまり、男装している姿で目撃されているのだから、れっきとした仕事絡みのことだろうと誰もが思い込んでいるからだ。
問題なのは、翡翠が王都に戻ってから一度も熾闇に顔を見せていないということなのだ。
常に自分の傍に影のように付き従っていた翡翠が、ただの一度も顔を見せないことは、熾闇にとって思いがけない精神的打撃を受ける結果となった。
幼い子供であれば、駄々をこねればよかった。
不憫な王子だと、皆が彼に気を遣い、翡翠が傍にいられるように取り計らってくれたからだ。
だが、成人間近の若者ともなれば、そのような我儘をするわけにもいかず、鷹揚な態度を装って日々王族の務めを果たさなければならない。
乳兄弟の不在で取り乱さずにおれない自分の不甲斐なさを、ひしひしと実感しながら、一方で下心全開の面会人の多さに不快にならざるを得ない状況に、精神的抑圧と葛藤を感じる日々が続いていた。
それでも、最初のうちはそれなりに辛抱していたのだ。
しかしそれも限界に来つつあった。
そうしてとうとう臨界点に達した若者は、癇癪を起こし、小姓達に不快の原因を元から断つように命じたのだ。
「それでは、殿下は王宮をお出になり、遠乗りに向かわれたと皆様方に申し上げてよろしいでしょうか? この時分でございますと、王太子府の方はどなたもいらっしゃらないようでございますし」
小姓の中でも古株に当たる者が機転を効かせ、そう言葉を紡ぐ。
「そうだな……しばらく向こうにいることにするか。あそこなら、関係者以外は入ることはできぬしな。おまえに任せよう」
王宮内の逃げ場所の存在を失念していた熾闇は、素直に頷く。
いつもであれば、一番に逃げ込む仕事場を忘れていた自分に呆れながらも、王子はほっと息を吐く。
ようやくいつもの自分に戻ったような気がしたとき、前触れもなく扉が開いた。
華やかで柔らかな香気が漂い、周囲が明るく照らし出される。
たった一人の人間が現れただけで、見慣れた部屋が全く違う場所のような感覚を年若い王子は味わった。
「何事ですか、この騒ぎは」
やや低めの、落ち着いた声が呆れたように響く。
「それより。王太子府軍総大将の私室に、このように賊が入り込めるなど、一体どういうことでしょう。無防備にも程がありますよ」
艶やかな黒髪を結いもせず、ただ背に流す男装の娘の叱責に、小姓達は恐れ入り、ひたすら頭を垂れる。
賊という言葉は正しくないが、来訪者があったことに気付かなかったことは、彼等の咎であることは確かだ。
「翡翠」
先程までの癇癪を忘れ、嬉しげに乳兄弟の名を呼んだ王子は、彼女の傍へ歩み寄ろうとして足を止めた。
ふと、疑問が頭を過ぎる。
この目の前にいる娘は、確かに彼の従姉妹であるが、彼の記憶にある翡翠とは、どこかが違う。
「……璃穆殿は、いいのか?」
大好きな親友と逢って話したいことは、彼の中で山積みになっていたはずなのに、言葉になったのは全く考えてもいないことであった。
ここに、もし犀蒼瑛がいたとしたら、嫉妬かとからかうことだろう。
しかしながら幸いなことに、人の悪い青年はここには居らず、聡明な従姉妹は僅かに困惑したような表情を浮かべるばかりだ。
「璃穆殿でしたら、大学で政治博士について学ばれておりますよ。ずいぶん落ち着かれた様子だと、藍衛将軍に聞いておりますが。お会いになりたいのでしたら、文を差し上げたらいかがですか」
「……いや、いい」
相変わらず質素で地味な官服を身に纏っているというのに、彼女がいるだけで部屋が明るく見えるというのはどういう現象なのかとちらりと考えながら、熾闇は首を横に振る。
璃穆と約束した野の花の押し花を届けた以外に彼とは会っていないらしい。
そのことに安堵する自分が不思議でたまらない。
「蒼瑛や嵐泰達は元気か?」
「……このところ、王太子府にずっと詰めていらっしゃいますが? 上将が執務室へお出ましにならない理由を考えていらっしゃるようですよ。どうなさいましたか?」
柔らかで穏やかな口調で問いかけられ、熾闇はささくれ立っていた心が不思議と鎮まるのを感じ取った。
「いや……」
「我が君?」
茫然と立ち尽くす熾闇に、翡翠は怪訝そうに小首を傾げてみせる。
その彼女の言葉に、第三王子はある情景を思い起こす。
弟たちの母が、父である国王をそう呼んでいたと、ふいに思い出したのだ。
『君』という言葉は、相手を指し示す言葉であるが、それは対等な第三者だけでなく、主君や夫を呼ぶ言葉でもある。
王の子であり、次代の王候補の一人でもある熾闇の妻になりたいと願う姫君同様に、いつかは翡翠も誰かの妻になりたいと思うのだろうか。
何気ない、そしてとりとめもない疑問を思い浮かべ、そうしてそれを自覚したとき、熾闇は狼狽えた。
「我が君?」
「何でもない」
慌ててそう答えたものの、後ろめたさが彼を覆う。
翡翠に対する侮辱だと、理性が感情を苛む。
「ずいぶん、お疲れのご様子ですね。では、この知らせは、三の君様にとっては朗報かもしれませんね」
複雑そうな笑みを浮かべた軍師の言葉に、熾闇の意識が覚醒する。
「戦が起きるか?」
「おそらく。ようやく彩が重い腰を上げました」
苦い表情の翡翠に、武人としての熾闇がわかったと頷く。
「この戦、長くかかるな」
王都に戻り、些末事に苛立ち、腑抜けていた間に、彼の将軍達は来るべき時を予測し、秘かに動いていたのだろう。
そうして、その噂に踊らされ、今まで殻に閉じこもっていた己の不甲斐なさを改めて恥じる。
「今回、後方は安泰だな。季籐従兄上に背後は万事お任せしよう。おまえのことだ、もう準備は整っているのだろう? おまえの報告次第で出立しよう」
「御意」
恭しく頭を垂れる軍師に、総大将は顔を上げる。
何よりも大切な使命を前に、鬱屈していた若者は、本来の自分を取り戻した。