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攻撃の合図に、騎馬隊が一斉に前進する。
怒濤の如く押し寄せるその速さ、勢いに、柢の騎馬隊は浮き足立つ。
その機動力を活かし、敵を攪乱させるはずが、それ以上に素早い颱軍に度肝を抜かれてしまったようだ。
右翼、左翼からも兵が押し寄せ、混乱が生じる。
必死に体勢を立て直そうとする柢軍にその隙を与えず、蒼瑛は次々と指示を出していく。
それにあわせ、右翼と左翼もそれぞれの将軍達が互いの陣形を確認しながら兵を動かす。
本隊と右翼、左翼の間に伝令は動かない。
そのことに気付いた珀露は、改めて王太子府軍の凄さを知る。
軍議で軍師が将軍達に配置と策を与えただけで、あとは将軍達が自分たちの感覚で頃合いを見計らい、兵を動かしているのだ。
軍師も大将も何の指示も出さずに、ここまで行えるのは、おそらく黒獅子軍と彼等以外はないだろう。
名に負う女子軍ですら、彼女達の特殊技能を発揮するために綿密な打ち合わせと演習を何度も行っているのだから。
この状況で、何を見、何を覚えればいいのかと、第九王子は唇を噛み締め、戦局を食い入るように見つめている。
本来、軍師として本隊で戦況を見つめ、指示を出すべき翡翠は左翼へ退き、大隊の将として的確にして堅牢な指示を与えている。
全隊をその采配ひとつで指揮する彼女にとって、一軍を操ることなど大したことではないのだろうと珀露が従姉妹を見てそう思ったとき、彼の視線に気付いた翡翠がにこやかに笑った。
「今、あなたの目には何が見えますか? 珀露殿」
場違いなまでに落ち着いた柔らかな声が、彼に問い質す。
「え?」
「この戦に、何が見えますか?」
「……わかりません」
もう一度、繰り返した翡翠の言葉に、珀露は困惑したまま、正直に答えた。
その答えに、娘は優しい笑顔を浮かべる。
「本来、それが正しい答えなのでしょうね。この戦は、前哨戦に過ぎません。颱の領土を狙う国々にとって、一番最初の敵となるのがわたくしたちなのです。各国は、こぞって間諜を忍ばせ、この戦を見守っています。わたくしたちの手の内を知るために」
「今、ここに、ですか!?」
「はい。それゆえ、王太子府軍は、完全なる勝利を手にしなければなりません。我が軍にわずかばかりの穴もないと知らしめるために」
戦場に視線を戻した翡翠は、微笑みを浮かべたまま状況を冷静に見つめている。
「つまり、攻めても無駄だと思わせるために、敢えて正面から彼等を迎えたというわけですか?」
常に優勢に戦局を進めていく蒼瑛の覇気が兵達に移ったかのように、本隊は強気に攻めている。
この分では本当に背後のに潜む分隊が必要ないのではないかと思えるほどだ。
正面から敵を迎え撃つに適した両翼の陣形は、攻めにも守りにも適している。
両翼の将が、本隊と自在に連携を取れるだけ有能であれば、これ程優れた陣形はない。
それゆえに柢は本隊と両翼で兵力がすべてだと思い込んでしまう。
勇猛果敢にして有能な将と、予想を超える兵力。
もしかしたら、彼女は柢という国をひとつ滅ぼすつもりではないのだろうかと、珀露は思う。
見せしめとして国をひとつ。
それはかなり有効な方法に思える。
「無駄、とは違うでしょう。無理だと思わせることが重要なのです。一部隊だけでこれ程の兵力を持ち、まだ余力がある颱と敵対したところで、地の理もなく、人の理もないなら、当然天の理も得られないだろうと思えば、戦を起こすよりも和を以て対する方がより良いと考えを改めるでしょう。わたくしたちは戦に勝つだけでなく、戦そのものを減らしていかねばならないのです」
「理想ですか」
「いいえ。責任です。人の命を預かり、摘み取る者の業かもしれません。人は、己の命がとても大切なのです。すべてはそこから始まります。ですから、戦意を喪失した者を敢えて討つ必要は何処にもないのですよ。己の命の大切さに気付けば、同じく他の命の大切さ、争うことの愚かさに気付くでしょう」
翡翠の表情から笑みが消える。
「翡翠様」
風に艶やかな黒髪をなびかせ、前を見つめる歴戦の軍師が、頼りなげな儚い姫君に見え、珀露は我が目を疑う。
愁いが濃い哀しげな表情を漂わせる翡翠が、本来の翡翠ではないのかと、ふと彼は思い当たった。
常に冷静で、穏やかな微笑みを絶やさぬ天才軍師ではなく、舞や楽をこよいなく愛する名家の深窓の姫君が彼女の本来の姿ではないのかと考えてみれば、他の将軍達の態度に納得できることが多々ある。
出陣前の熾闇の言葉は、翡翠の軍師の任を解き、珀露に任せるためにかけられたのではないだろうかと、そう考えを巡らせた王子は、先程よりも熱のこもった視線で戦局を見つめた。
戦は、短くて数ヶ月、長いと数年単位で行われる。
それゆえ、食料調達が勝敗を大きく左右する。
常に国内で戦を行う颱軍にとって、食料調達はさほど難しいことではなかった。
特に王太子府軍は、その戦期間の短さにおいて、驚異的な記録を誇っている。
普通であれば、半年近くはかかる戦を、いとも容易くわずか数日で終結してしまった実績が過去何度もある。
戦が始まって数日後、依然颱軍は優勢を誇ったまま。
この分では、短期間で戦が終わるだろうと、誰もが思っていた。
心地良い風が、草原を渡る。
空を見上げ、雲の流れを見つめていた娘は、ゆったりと微笑む。
「翡翠様?」
「今日、ですね」
「え?」
怪訝そうに彼女に声をかけた珀露は、謎めいた言葉に目を瞠る。
「風向きが変わります。わたくしも、前へ出ましょう」
「……!」
翡翠の言葉に、第九王子は反応した。
「到着されたのですか?」
「えぇ」
「自ら囮になられるなど、無茶が過ぎましょう。優勢と見て名だたる将が前に出ることなど、確かに良くあることでしょうが、あなたの身にもしものことがあれば、この軍はどうなるのです!?」
「どうにもなりませぬよ。わたくし一人がいなくなったとしても、揺るぎなどしませぬ。古い柱は新しい柱に換えられるもの。大したことではないのですよ。今日は成明殿も前に出られるはず。さぞかし柢は色めき立って下さることでしょう。えぇ、後ろの注意を怠るほどに」
にっこりと笑顔で告げる翡翠に、珀露は溜息を吐く。
勝利を前に、勝ちに逸った小娘を演じるつもりなのだと悟ったからだ。
どんな噂が流れようとも、本人を目にした衝撃がすべてを打ち砕くことを彼は知っている。
それがすべて翡翠の計算であろうとも、だ。
「では、あなたの傍について、是が非でも護らせていただきますからね」
「──もちろん、期待しておりますとも」
珀露の言葉に華やかな笑みを浮かべた軍師は、愛馬の背に蹴上がる。
「左翼軍! 前へ進め! 柢を驚かせてやりましょう」
凛とした声が号令をかける。
それに続いた悪戯っぽい声音に、近くにいた者達はどっと笑い、騎乗する。
「全軍、前へ!」
あちこちで反芻の声が上がる。
愛馬の腹を蹴り、得物を掲げた兵士達は、鬨の声を上げて前進した。