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行軍は、予定通り進んでいた。
何処までも続く草原を神出鬼没に現れ、駆け去っていく騎馬隊に、各国の間諜も様子を窺うどころではない。
兵士として忍び込もうとしても、何故かすぐに素性が露見し、捕らえられてしまうと評判の王太子府軍に潜り込むことはできない。
立ち去った後は安全かといえば、実は全くそうではなく、また戻ってくることなどよくあることだ。
彼等の動きに何らかの法則性があるのだろうと分析してみても、共通することは全くない。
どうしてこの様なことができるのかと、疑問に思うところだろうが、彼等にとっては造作もないことなのだ。
本日予定通りの地点へ到着した彼等は、その場に宿営地を設営する。
本陣の天幕が出来上がったところで将軍達が会議を開くのだ。
この会議には特別に麟霞、晴璃、珀露三王子も出席している。
「……まさかこの様な手段で目的地を選んでいるとは思いませんでしたよ、翡翠様」
どこか切なそうな、それでいて諦めたような哀愁を漂わせながら翡翠の後ろに立つ珀露が遠い眼差しを宙に向けながら呟いた。
「誰にも行き先を読ませぬ、良い手でしょう? 提案した本人に、とりあえず責任は取っていただいておりますが」
軍配で口許を覆い隠しながら、天才軍師と呼ばれる娘は空惚けて告げる。
上座に上将──大将の席があり、その左右二列づつ将軍達の床几が並ぶ中央で、熾闇と蒼瑛がそれぞれ木箱に手を入れ、真剣な面持ちで中を探っている。
その様子を周囲の将軍達がやんやと囃し立てている酒宴の席のような光景を眺め、茫然としているのは初陣を迎えた王子達だけである。
「──次の目的地は、葎湖!」
木箱から木簡を取り出した蒼瑛が、木片に書かれた地名を読み上げる。
「俺の方は、東だ」
同じく木箱から木簡を引き抜いた熾闇が、声高に宣言し、木簡を掲げる。
「葎湖に東から到着ですね」
彼等の言葉を受けた翡翠は、地図の中に描かれた葎湖を朱墨で印し、現在地と東から入る最短順路を描き入れる。
「翡翠殿、これは何かの間違いでは、ないのですよね? まさか、巡視順路が籤で決められていたとは」
夢を打ち砕かれ、縋るような思いで翡翠に問いかけた麟霞は、娘の笑顔にがっくりと肩を落とす。
「これはこれで、皆様が思うよりは合理的なのですよ」
にこやかに告げる翡翠の言葉を真実だとは到底思えない。
だが、颱国歴代の中でも上位一、二を占める天才軍師との誉れ高い綜翡翠──碧軍師との異名を持つ彼女が嘘をつくとは思えない。
惑う彼等の前で長兄となった三の王子が無邪気な笑顔で振り返る。
「酒樽一つでいいのだな? 翡翠!」
「えぇ、褒美は酒樽で。今度は何方の隊が一番最初に到着なさるのでしょうね」
おっとりと頷いた翡翠の言葉に、珀露だけが目を瞠いた。
「翡翠様。もしやこれは、移動速度を速めるための訓練でしょうか?」
「おや。お気付きになりましたか」
珀露の言葉に肩越しに振り向いた翡翠が微笑む。
兵士達が望む褒美を与えることで、隊ごとの連帯感を生み出し、競い合うことで馬術の向上を目指しているのだと気付いた第九王子に、綜家の名を持つ軍師はその鮮やかな視線で彼の慧眼を褒める。
「遊びの感覚でなさるとは、翡翠様もお人が悪い。これでは、敵も味方も騙されましょう」
「どなたが騙されるのです? 騙すも何も、これは始めから神々の遊戯ですもの」
くつりと皮肉げに笑った翡翠の表情に、珀露は目を奪われる。
何を言っているのかと、問いかけるよりも早く、彼女の言葉を理解する。
下界の歴史は、天界の機織姫の織る綾の糸目に決められる。
その美しさを興じて遊ぶは、天界の神々なのだ。
己の意志で決めたことを、神々の気紛れなのかも知れないと思う虚しさはいかばかりか。
「……ですが、機織姫の糸目を乱すもまた人なりと、お教えいただいたことがございます。これはその類だと思いますよ」
軽く肩をすくめ、珀露はそう答える。
「なるほど……王子方、近々、小競り合いが行われます。これが本当の皆様方の初陣となりましょう。指揮を、執ってみませぬか?」
表情を改めた娘が若者達に問いかける。
その問い掛けに、彼等は一斉に首を横に振った──
柢が国境付近へ兵を寄せたという第一報を運んだのは、物見であった。
それを皮切りに次々と細作達が正確な情報を詳細に渡って送ってくるようになった。
寄せられた情報をすべて把握し、整理していく軍師と、彼女の発する言葉を即座に実行していく将軍達の姿に、初陣を迎えた王子達は感嘆の眼差しを向ける。
彼等より数年先に初陣を迎え、現在将軍のひとりとして動く第五王子青牙の無駄のない応答に、王宮内での普段の姿を知る弟たちは別人を見るような思いであった。
天幕の中央部に設えた合議の間の中心に、羊皮紙の地図が広げられている。
その地図の上にいくつもの駒が置かれている。
赤い駒が柢軍、白い駒が颱軍を示しているのだろう。
「予想通り、虫が火中に飛び入りましたな」
まるで始めから予定通りの行動だと、出来の悪い脚本家を嘲るような口振りで犀蒼瑛が告げる。
「騎馬隊が五千、歩兵が三万……狙いは王都か」
莱公丙が苦虫を潰したような表情で唸る。
兵の数で何故その様なことがわかるのか、末席を許された王子達は怪訝そうに顔を見合わせていたが、質問することは控えていた。
「歩兵三万のうち、二百が弩を牽いている。騎馬隊は飾りだな。騎馬隊で攪乱させているうちに、弩、投槍、投石隊を準備させ、一気に壊滅という戦法だろう」
嵐泰が腕を組み、思慮深い眼差しを地図に向けながら彼等の戦法を論じる。
「南の地は北と異なり、湖沼地や奇岩などの障害となりうるものがありませんね。互いに奇襲は使えないことになります。圧倒的な力がなければ、均衡を崩すことができない──だから、弩ですか」
「運ぶ労力よりも威力を取ったわけですな」
笙成明の言葉に、利南黄が頷く。
「我らの動きを察知しているわけでもないようだな。敵陣に潜り込んで、弩の台車を壊すという手は使えませんか?」
赤い駒が動く位置を目で追い駆けながら、青牙が先輩達に問いかける。
「または、弓騎兵隊に火矢を使わせ、直接弩を狙うというのは?」
「ふむ。正攻法としては、火矢は妥当だな。麟霞、おまえ、弓が得意だったな。できようか?」
弟の言葉に頷いた熾闇が、末席にいた第七王子へ問いかける。
「はっ……はい! 兄上……いえ、大将の御為に、必ずや」
びしっと背筋を伸ばし、緊張した面持ちで麟霞は大きく頷く。
「あぁ、そんなに畏まるな。緊張しては、できる仕事もできぬぞ。気楽にやれ。なぁ、翡翠?」
思わず苦笑した若者は、片腕に投げかけ、助けを求める。
「大将が気軽すぎるから、周囲が畏まるという例もありますが? 気負いすぎてはなりませんが、適度な緊張は必要と存じます。さて、どのようにお迎えいたしましょうか」
逆に熾闇を窘めた軍師は、口許に手をあて、半眼になる。
瞑想するようなその表情に、ほんの一瞬、将軍達にも緊張が走った。
すべての視線が、ひとりの娘に集まる。
采配を手にした軍師は、地図の上から白い駒を取り上げ、指先で弄ぶ。
そうして慈愛に満ちた笑みを浮かべた翡翠は、赤い駒を移動させ、それに伴い白い駒を配置した。
誰もが地図を食い入るように見つめ、何度も駒の位置を確かめると、深い溜息を吐く。
「まさか、そんな……」
「ここでそれをやりますか」
「……やられた!」
天を仰ぎ、髪を掻き上げ、何処か呆れたような表情で、彼等はボヤく。
「相変わらず、悪辣だなぁ、翡翠。まさか、このための布石であったとは、気付かなかったぞ」
感じ入ったように、王太子府軍大将が褒め言葉とは到底思えない感想を口にする。
軍をふたつに分け、本隊を王都側へ配置し、分隊を柢軍の背後へ回り込ませる。
さらにそれぞれの隊から中隊をひとつ分け、西と東へ配置し、囲い込む陣形を作り出す。
彼等が最も得意とする八方陣の変形型であった。
熾闇が悪辣だと言ったのは、弓騎兵隊を本隊ではなく、分隊、つまり背後に配置させているからである。
王都への道を塞ぐ本隊が、正面から矢を射掛けることは兵法では理に適っている。
それゆえ、相手も当然警戒してくることだろう。
だが、退路を断たれ、弩に向かって火矢を射掛けられれば、柢軍は浮き足立つだろう。
北と南の道を絶たれれば、逃げる場所は東か西か。
そこへさらに追い打ちを掛けるように中隊が現れるとなれば、士気は落ち、逃げ出す兵も出てくるだろう。
今回の見回りでは、それぞれの大隊ごとに移動をしていたため、実際どのくらいの兵が動いているのか、正確な数を把握している国はいないだろう。
正面に現れた本隊が、その兵力のすべてだと思い込むに違いない。
褒美を賭けた遊戯の目的は、馬術向上だけではなく、相手に数を読ませないための布石だったと今更ながらに気付いた彼等は、驚くことを通り越して呆れ返っている。
そんな策を出した軍師は涼しい顔で一同を眺めている。
「本隊指揮を犀蒼瑛殿にお任せいたします。右翼を笙成明殿、左翼はわたくし、綜翡翠が。分隊指揮を嵐泰殿。左右の指揮は嵐泰殿の良いようになさいませ。弓騎兵指揮は利南黄殿、東側を莱公丙殿、西側を青牙殿にお任せいたします。隊列を分ける頃合いは、莱将軍と青牙将軍の呼吸ひとつにございます。どうぞ、ご随意に」
にっこりと微笑む娘に対し、歴戦の将軍達は引き締まった表情で頷いてみせる。
「決まったな。直ちに隊列を組み直し、移動を開始せよ。嵐泰、利南黄、青牙、頼むぞ」
「御意」
総大将の顔になった熾闇は、ここで別れる将軍達に言葉を掛ける。
恭しく頭を垂れ、命令を受けた将軍達は立ち上がり、もう一度、総大将に一礼する。
それを鷹揚に頷いていた熾闇だったが、ふと弟王子達に目を向けた。
「麟霞、晴璃、勲を立てることを決して考えるな。本当の勲とは、生きて帰ることだ。功を上げることが勲ではない。わかったな?」
「はい」
二人の王子はしっかりと頷いて、後見役の将軍達と共に天幕を出て行く。
「珀露」
「はい、三の兄上」
「おまえの役目は、すべてを記憶することだ。翡翠が采配を振るう頃合い、全体を通しての兵の配置やその後の動き、相手の反応……そのすべてを記憶し、自分なりに整理しろ。誰が何時、何を思って動いたか、そう仕向けるにはどうすればよいのか……見て、学べ」
「はい」
兄の言葉のその裏に潜む意図を察したのか、神妙な表情をして頷いた珀露は、後見役となった従姉妹と兄を交互に見つめた。
颱の国境を侵し、進軍してきた柢軍は、突如として現れた王太子府軍に即座に臨戦態勢に入った。
多少浮き足立ったようにも見えたが、王太子府軍が現れることは予想の範疇であったため、それほど混乱を起こさずに立て直したようであった。
その様子を眺め、本隊を率い、左翼、右翼を展開させた犀蒼瑛がにやりと笑う。
「こうでなくては、面白くないですからねぇ」
「……おまえ、本当に楽しんでるだろう?」
蒼瑛の隣に馬を立てていた熾闇が、呆れたように問いかける。
「当然でございましょう? 派手な陽動ほど楽しいことはありません。しかも、本隊そのものが囮だなんてこれ程面白い仕掛けはそうそうございませんしねぇ。軍師殿は私の扱いをよくご存知だ」
くつくつと楽しげに笑い声を響かせて告げる美貌の青年に、第三王子は肩をすくめる。
ここが王宮で、近くに女官でもいたならば、それこそ大騒ぎが起きるか、うっとりと見惚れて仕事を放棄する者が続出することだろう。
それほど魅力的な笑顔を見せる蒼瑛に、熾闇は呆れるばかりである。
「まぁ、長い付き合いだしな。だが、おまえの扱いは難しいと、こぼしているぞ」
「ご冗談を。私ほど、手軽く扱える男はおりませんよ。彼の姫君に心酔しているのですからね」
「あー、そうか。あぁ、そう言えば、嵐泰も扱いが難しいと言っていたな」
適当に相槌を打っていた若者は、ふと思い出したように呟く。
「嵐泰が?」
その言葉を聞き咎めた蒼瑛が、僅かに眉を寄せる。
「確かにそう言っていた。翡翠は嵐泰が苦手なのか? 時折、困ったような素振りを見せるが」
納得いかない様子で首を捻りながら告げる熾闇に、蒼瑛は微妙な表情を浮かべる。
「鋭いのか鈍いのか、よくわからない御方ですな」
「あん?」
「実際、苦手なのでしょう。嵐泰はあの通り、実直な男ですので、私のように冗談では済まされないものですから。誰よりも信頼に足る男でありながら、戦場ではなく平素においてはどうしても苦手に思えて仕方がないのでしょう」
「何でだ?」
不思議そうに尋ねる王子に、蒼瑛は苦笑した。
「嵐泰が男で、翡翠殿が女性だからですよ。あの男にとって、女性とは尊敬し、護るべき存在なのですから、例え同じ武官であり、同じ主に仕える同僚であっても、それは揺るがないでしょう。一方、翡翠殿はあの様に生真面目な御方ですからね。ヤツの抱える矛盾に気付いて戸惑い、苦手意識を持つことに困惑されておられるのでしょう」
「そうなのか」
「実に不愉快なことに、女官共はあの朴念仁と麗しの軍師殿がお似合いだと、まるで絵物語のような一対だと騒ぎ立てておりましたよ。翡翠殿には私の方が似合うと思うのですがねぇ」
わずかに顔を顰めた熾闇の表情を見て取った蒼瑛が、軽く茶化す。
その言葉に、王子は吹き出した。
「さて。そろそろ始めましょうか。殿下はそこで遊んでて下さい。この程度の小者相手に御大将自ら出陣など、いい笑いものですからね」
秀麗な顔に別人かと思えるほど獰猛な笑みが浮かぶ。
文官然としたこの男がその謎めいた内面を表す一瞬が、この開戦前であった。
「派手にやりすぎて、ひとりで片付けるなよ」
「承知!」
からかう熾闇の声に笑って頷いた男は、片手を挙げ、そうして前へと振り下ろした。