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絶え間なく風が吹く地でも、一日に一度、必ず風が止まる時刻がある。
殆どの民が知ることのないその時刻には、風だけではなく、鳥や動物、星すらもその輝きを止め、真の暗闇と無音の世界を作り出す。
それは古来よりの神々の取り決めなのだと、幼い頃、彼は白い獣の神に教えてもらったことがあった。
たったひとり、孤独に耐えながら、幾日も夜を過ごしていた幼子が、不思議そうに守護神へ問いかけたとき、彼の神は何とも言えぬ複雑そうな表情と共に、無明の理について話してくれたのだ。
光が闇を払拭する光臨という事象をより鮮やかに引き立てるために行っているのだと。
夜陰に紛れ、送られてくる刺客の恐怖に立ち向かいながら、眠らずに夜明けを待つ子供の熾闇に、憐憫を感じたのか、白虎神は夜毎彼の寝所へ現れて、昔語りをしてくれた。
夜明け前のほんの僅かな時間──この時間ばかりは、どんな者にも平等に眠りが訪れる。
それは、天帝が決めたこと。
陰から陽へ──静から動へと変わるその瞬間、流転する理を解きほぐせないように、眠りの呪いがかけられているのだ。
その時間に起きることを許される者は、人に在らざる者、そして天帝に愛されし者。
無音の世界で僅かばかりの気配を感じた熾闇は、寝台の中で目を開けた。
天幕の外を音もなく歩くその気配は、彼にとって馴染み深いもの。
その穏やかで静かな気配に笑みを浮かべた若者は、こっそりと寝台から滑り降り、天幕の外へと忍び出た。
夜陰に紛れ込む黒髪に縁取られた雪花石膏の横顔。
闇から切り離されたその白い顔に填め込まれた翡翠の瞳が、まるで彼の軽率さを詰るように眇められる。
予想通りの表情に、肩をすくめて笑ってみせた熾闇は、乳兄弟の反応を待つ。
仕方なさそうに器用に片眉を跳ね上げ、苦笑した翡翠は、ついっと向きを変え、再び静かに歩き出す。
その視線の先には東がある。
禊ぎをするのだと、彼にはわかった。
普通、禊ぎをするなら、湧き出づる清水で清めるものだが、朝日を浴びることはさらにその効力を強めるのだ。
本陣の天幕群から離れたところまでやって来た翡翠は、両手で太刀を掲げ、大地に両膝をつき、頭を垂れる。
その姿勢からさほど待たずして、東の空が白み始めた。
闇色から突如として白い輝きが放たれ、黄昏時の茜と暁時の薄紫とに染め上げられた空と大地の境界線上に朱鷺色の塊が滲むように現れる。
そしてその塊は朱鷺色から黄橙色へと変化し、さらに金橙色へと染められていく。
その間にも、じわりじわりと地平線から天空へと移動をし続ける日輪は、草原を黄金色へと塗り替える。
さわさわと草が鳴く。
波打つように揺らめき踊る草の音に、大地に風が戻ったのだとようやく気付く。
小鳥がさえずり始め、草原のあちらこちらで動物の気配が動き始める。
死の世界から生の世界へと移り変わったのだと強く感じる。
ほっと息を吐いた熾闇は従姉妹へと視線を転じた。
掲げていた太刀を鞘から抜き放ち、白刃を光に変えた娘は、ゆったりとした動きで舞っていた。
命を寿ぎ、感謝する、天帝への奉納舞。
太陽の輝きを体現するその舞は、実に単純な所作からなっている。
優しくも静かな舞は、風舞と共に翡翠によく似合う舞であった。
じっとその舞を見つめ続けていた熾闇は、舞終わった翡翠の許へと歩み寄ると、彼女を抱き締め、その肩へ顔を乗せた。
「……我が君?」
「いつもながら見事な舞だな」
ぽつりと呟いた若者は、ますます腕の力を込めていく。
「どうなさいました? 痛いですよ」
くすくすと笑いながら主を宥める娘は、王子の背に手を置くと、その背を優しく撫でる。
まるで母親が子供を宥めるような仕種に、若き武将は苦笑を浮かべた。
「やはり、翡翠には舞が似合う。草原もな」
「お褒めいただき、光栄にございます。大きな駄々っ子の様ですね」
「……おまえが消えるかと思った。陽の光に溶け込んで、天界に召されるかと……怖くなった。天帝は殊の外、舞がお好きだと聞いた。おまえの舞の腕前は、朱雀の神娘姫に並ぶからな。連れて行かれてはとても困る」
拗ねたような口調で答えた第三王子は、少しばかり腕を緩め、暖かく柔らかな感触にうっとりと目を細める。
彼が不安がっているときの翡翠は、熾闇が落ち着くまで甘えたいように甘えさせてくれるのだ。
「何処へも参りません。いつでも熾闇様の御傍に。それに、わたくし、天界には興味ございませんから」
実にあっさりとした口調で、天界行きを拒否した娘は、少しばかり物騒な笑みを浮かべる。
「仮に、天帝様がわたくしをお召しになられたとしても、白虎様にお願いして必ず戻って参りますから」
幸運にも、王太子府軍の総大将は、この不敵で物騒な笑顔を見ることはなかった。
もし、この笑顔を見ていれば、おそらく数日はその不穏さに心拍数が上がり、眠れなくなっていたことだろう。
「……うん。おまえの言葉は、何時だって信用できる。俺のたったひとりの親友だからな」
満面の笑みを浮かべ、そう断言した若者は、そうっと腕を緩め、乳兄弟で従妹の顔を真っ直ぐに見つめる。
「彩はこの機に攻めて来ようか?」
「様子見であれば、応と申し上げましょう。それよりも柢の方でしょうか。焦臭さを感じます」
「そうか。翡翠が言うのであれば、そうなのであろうな。柢であれば、弟たちの修練には適当か。何事もなければそれで良かったのだが、あまり血を流したくないという思いも届かぬのが世の常だからな」
仕方なさそうに肩をすくめ、そう応じた王子は、誰よりも信頼する半身に柔らかな眼差しを向ける。
「おまえに負担ばかりかける」
「そのお言葉だけで充分でございます。わたくしにとって、何よりの餞です」
嬉しそうに微笑んだ翡翠は、随分と背が高くなってしまった従兄弟を見上げた。
「そろそろ天幕に戻りませんと、大騒ぎになってしまいますよ」
「……そうだな」
空を見上げ、第三王子は頷く。
まだ暁闇の時刻だが、気が早い者は起き出し始めるだろう。
「今日もよろしく頼む、翡翠」
「心得まして」
生真面目に頼み込む熾闇に、軽く笑った翡翠は答えると、ふたり連れだって天幕へと歩き出す。
目下の課題は、誰にも気付かれずに天幕の寝台へ潜り込むことだと、笑い合った若者達は、朝日を背に足音を忍ばせて本陣への中心部へと歩いていった。