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王太子府の敷地にある屋内練兵場では、緊迫した空気に包まれていた。
矛を手にした嵐泰と、長剣を片手に佇む犀蒼瑛。
静かに立っているだけだが、その身を取り巻く闘気は隠しようもない。
目に見えぬ空気のはずなのに、物理的に圧倒される。
それぞれの武器を構え、その一瞬が来るのを待っている。
しわぶきひとつない、静かな空間。
本来、剣舞には伴奏がない。
なぜなら、舞手本人が伴奏者になるからだ。
舞手が持つ得物──剣が楽器となる。
剣が空を切る音、刃をしならせ、ぶつけ合う音、舞手が大地を踏みしめる音、それらが剣舞の最上の音楽なのだ。
そうして、それゆえに、最も難しい舞となる。
得物は実用の武器の中でもその切れ味は最高のものである。
不用意な舞手であれば、命を落としかねない上に、型がきちんとはまらなければ非常に見映えが悪く、神に奉納できない。
舞う者は一流の舞手である上に一流の武人でなければならないのだ。
戦の勝利を願うと共に、戦の誉れを神に捧げる舞い。
ひとりで舞うなら、まだ良いが、複数名で舞うのなら、その呼吸がズレでもしたら大惨事になる。
それゆえに、舞手は慎重にならざるを得ず、また己と相手の技量をきちんと把握せねばならない。
嵐泰も蒼瑛も、互いの技量は良く知っていた。
例え目を閉じていても、相手の剣を受け止めることができる程度には。
呼吸を整え、相手の呼吸を計る。
お互いの呼吸が同じになるまで、ゆっくりと同調していく。
それと同時に、限界まで気を高めていく。
唐突に、その瞬間が訪れた。
嵐泰が矛を突き出し、蒼瑛はそれを受け止め、跳ね上げる。
次の動きを予測するように、蒼瑛はくるりと背を向けながら立ち位置を変え、嵐泰は矛を押さえ、即座に次の突きへと操る。
目まぐるしく位置を変え、互いの得物を交差し、紙一重で避け、跳ね上げる。
舞を見ているよりも、御前試合を見ているような錯覚を起こしかけるが、彼等の動きは滑らかで、無駄も隙も微塵もない。
永遠に続くかのように思われた彼等の舞に闖入者が現れる。
カシャン、カシャンと一際甲高い金属音を響かせて、嵐泰の矛と蒼瑛の長剣を受け止めたのは二振りの鎖鎌であった。
短い柄には貝の細工が繊細に施され、繊細優美な芸術品を思わせるが、その鎌の刃は鋭い輝きを放ち、その特徴とも言える鎖は、今は隠されたままである。
繊細でありながら兇悪そのものの武器を操るのは、翡翠であった。
おそらく、颱随一の舞手である翡翠だからこそ、この鎖鎌を操ることができるのだろう。
柄だけを握り、操ることなら、他の武将でも扱える武具だが、一旦、柄から刃先を切り離し、自在に動く鎖を延ばせば、使い手自身までもを危うくしてしまう鎖鎌を制御できるほどの技術を持つ者はまずいない。
鎖鎌の鎖は、柄と刃先を繋ぐものと柄と房飾りを繋ぐ二本がある。
一本だけならまだしも、二本同時に、しかも、左右二振り、計四本の鎖の動きを把握し、尚かつ他の二名の動きもきちんと見なければ、この舞は危険な血の舞となる。
どこか荒削りだった舞が、翡翠の参入で優美なものへと変わる。
緊迫した空気はそのままに、だが、魂を引きずり込むような誘引力を発し、舞は進んでいく。
しゃらんと、澄んだ音を立て、鎖が柄から引きずり出される。
うねるように空を舞う鎌の刃を、いとも容易く操り、引き寄せる。
心を込めた最高の舞は、神にとって御馳走となるのだ。
人とて、胸に迫る最高の心の栄養となるだろう。
矛と長剣を宥め制し、煽り立ち向かい、鎖鎌が縦横無尽に空を巡る。
そうして、迎える終焉の時。
鎖は柄の中へと収まり、そうして静かに立ち去る。
残されたのは矛と長剣。
互いに対峙し、また不動のものとなる。
緩やかに穏やかに呼吸を整え、青年たちの動きが止まる。
荒々しい余韻を残しながら、青年たちは彫像のように佇んだ。
しゃらりと鎖が触れ合う音がし、飾り房を眺めた翡翠がやや困ったように複雑そうな笑みを浮かべる。
「飾り房がまた斬られてしまいました。踏み込みの速度が合わないのでしょうか」
「申し訳ない。私が遅れたようです」
前髪をぐしゃりと掻き上げて、溜息混じりに嵐泰が応じる。
「いや。速度は合っていたぞ。問題は、矛の突き出す角度だ」
「上将!?」
いきなり背後からかけられた声に、嵐泰と蒼瑛は振り返り、驚いた様な声を上げる。
「驚かせてすまない。翡翠を捜していたんだ。実に見事な舞だった。今度の奉納舞だな? 華やか好きの白虎殿も満足されることだろう。矛先が指先一本分だけ下を向いていた。その分を上げれば、もっと良くなる。翡翠は、鎌の間隔をもう少し広げた方が、左右の矛と長剣をもっと受け止めやすくなると思うぞ」
傍観者ならではの適切な指摘に、彼等は一様に頷く。
「長剣は、動きに遊びがありすぎる。せっかくの美しい型が少し流されていた。勿体ない」
実に残念そうな響きで、熾闇は自分が気付いた場所を羅列していく。
「なんだよ、こいつ。後から来て偉そうに……!」
口惜しそうな表情で、麗倫が熾闇を睨み付ける。
「……何だ、このガキは?」
自分よりも背の低い、見慣れぬ顔に、王子は不愉快そうな表情を作る。
同じ年頃だとは思うが、相手が自分よりも小さいことから年下と判断したらしい。
「何だと!? 同じ年頃だろうが、おまえ! 後から来たくせに、態度がなってねぇぞ!」
「麗倫!」
辺り構わず噛み付く近習に、たまりかねた嵐泰が拳を降ろす。
「いってぇーっ!! 兄上、ひどい……」
「相手が誰かを確認せず、突っ掛かっていくおまえの方が愚かだと思うが? その様な態度を取るのであれば、おまえの親が何と言おうと近習を辞めさせるぞ」
厳しい口調で告げた嵐泰は、熾闇に視線を向けると右手を左胸にあて、頭を下げる。
「申し訳ございませぬ、上将」
「兄上、誰だよ、そのジョウショウって奴?」
脳天をさすりながら、忌々しげに少年は訴える。
「……本当におまえの親戚、近年稀に見る傑物だな」
どうやら呆れ果てたらしい蒼瑛が気の毒そうに親友を見やる。
「なんだ。そいつ、嵐泰付きの小者か?」
「小者たぁ、なんだよ! 俺はっ! 高家の跡取り息子だぞ!」
煩そうに顔を顰めたまま問いかける熾闇の態度に腹を立てたらしい麗倫は、がうっとばかりにがなり立てる。
鎖鎌を床に置いた翡翠が、熾闇の前まで歩み寄ると、その場に膝をつき、彼の上着の裾を両手で掲げ、唇を寄せる。
「わたくしの名にかけて、ここはお収め下さいませ、我が君」
「なぁんで、姫さんがそんな奴に礼を取るんだ? 姫さんって、王族の次に偉いんだろ? ってゆーか、王族でも直系以外なら位的に上だって聞いたぞ」
臣下の態度を崩さぬ翡翠に、麗倫は怪訝そうに問いかけ、そうして暫くの間何かに気付いたかのように動きを止めた。
「……もしかして、あんた……第三王子? 姫さんの上司って、第三王子なんだよな?」
「翡翠を呼び捨てできるのは、俺と陛下と、綜家の者だけだろうが」
不機嫌そうに告げた熾闇は、翡翠の腕を握り、引き上げるように彼女を立たせると、そのまま自分の傍へ引き寄せる。
どうやら麗倫に対して対抗意識を燃やしているらしいと気付いた翡翠は、かすかに苦笑する。
「控えよ、麗倫! 上将、申し訳ございませぬ。すべては私の咎でございます」
床に膝をつき、頭を垂れる嵐泰が、詫びを口にする。
「いや、いい。気にするな、嵐泰。怒ってはおらぬゆえな。おまえ、名は何という?」
鷹揚に頷いた若者は、仔犬のような高家の息子に名前を問う。
「高麗倫」
「麗倫か。ひとつ、忠告をしてやろう。嵐泰の屋敷の外へ一歩踏み出せば、おまえの失態はすべて嵐泰の責任となる。例え侮辱を受けようとも、おまえは激することは許されん。主を持つということは、そういうことだ。俺から嵐泰という得難い将を取り上げるなら、俺は遠慮なくおまえを斬る。いいな?」
「──なっ!?」
とっさに声を上げかけた麗倫は、目を瞠ったまま黙り込む。
大好きで尊敬する嵐泰の近習になることを許されて有頂天になっていた少年は、やっと自分の立場というものを理解したようだ。
「翡翠と嵐泰の二人がかりで庇われたことに気付かぬほど愚かだったと認めなければ、この先、おまえは嵐泰の手で処断されかねないぞ」
諭すように告げた熾闇は、己の参謀へ視線を向ける。
「翡翠、聞きたいことがあるんだが、時間が空いたら俺の処へ来てくれ」
「今すぐでなくてよろしいのですか?」
「うん。納得がいくまで舞の稽古を続けてくれ。三人とも楽しみにしている。邪魔した」
あっさりとした様子で片手を挙げ、背を向けた熾闇は、屋内練兵場を離れ、己の執務室へと向かう。
その背に一礼した翡翠は、苦笑を浮かべたまま、麗倫に視線をやる。
「……俺、姫さんと兄上に庇われてた……?」
「あのままでは、熾闇様が望まれなくとも、不敬罪で死罪でしたから。類は、嵐泰殿にも及びます」
困惑し、心細そうに問いかける麗倫に、翡翠は誠実に答える。
「我が君は、優しいお方ではございますが、甘い方ではございません。一度口になさったことは必ず実行なされます」
優しげな口調で翡翠は麗倫に告げる。
「そして、わたくしはあの方の参謀です。我が君が実行なさいます前に、不安要素を摘み取るのがわたくしの役目。わたくしは優しくも甘くもありません。戦場で、嵐泰殿の不安要素になると想定された時点で、わたくしは麗倫殿を嵐泰殿のお側から排除いたします。あなただけでなく、あなたの家ごと消し去りることになるでしょう。それがお嫌でしたら、学びなさい。嵐泰殿に負担をおかけしないように」
ひやりとする酷薄さを秘めながら、優しい口調で諭す翡翠の言葉に、麗倫は唇を噛み締めた。
「……わかった。いえ、わかりました。俺は強くなる。兄上に必要とされるように、迷惑にならないように」
見た目よりも遙にきつい言葉を受け止めた少年は、きっぱりと告げると、真っ直ぐな視線を翡翠に向ける。
「頑張って下さい。嵐泰殿、蒼瑛殿。先程、我が君が指摘して下さいました点を踏まえて、稽古いたしましょうか」
にこやかに微笑んだ娘は、そう青年に声かける。
「やれやれ。軍師殿は、厳しい方だ」
揶揄するように肩をすくめて蒼瑛は笑う。
「褒めて下さってありがとうございます」
「何時だって、私は軍師殿に賞賛の言葉を送っておりますとも」
軽く流してしまう彼女の手強さを快いと笑いながら、肩をすくめた蒼瑛は、親友を促し、長剣を構えたのである。