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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
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68

 東宮にある第三王子の私室に、木片をぶつけ合う高い音が響く。

 それは、一定間隔を置いたゆったりとしたものであった。

「……へぇ、面白い手だな、これは」

 将棋盤を眺めた第三王子は、思わず感嘆の声を上げる。

 現在の状況は、圧倒的不利な場面となっているが、あまり気にしてはいない。

 相手の実力が自分以上であるということを承知しているがゆえの余裕なのかもしれない。

「それじゃ、この場合、どう動くんだ?」

 定石を踏まえながらも、決して単調な攻めではなく、熾闇が思いもよらない展開を見せていく。

 それゆえに、彼は無邪気な好奇心を満たそうとして、つい定石から外れた手を打ち、見事なまでの不利な状況を築き上げてしまったのだ。

 もちろん、彼もまた優れた戦略感性を持っているため、常識を覆すような手を打ち、駒を配置するために、辛うじて勝敗がついていないという状況なのだ。


 淡々とした表情で駒の位置を確認し、先を見越した手を打つ翡翠は、何気なさを装って昔話を始める。

 それに乗った熾闇は、記憶を呼び覚ましながら興じる。

「……それにしても義母上方は、どうしてああも義理の息子の唇を奪って面白がるのだろう?」

 先程の漣華との会話を思い出し、ふと呟いた熾闇の言葉に、翡翠は首を傾げる。

「愛情表現だと仰っておりましたが?」

「嫌味の域に達していたように思うが?」

「考え違いでございましょう。あれほど慈しんでおられることなど、他の後宮では有り得ないことだと伺いました。それより、今までの接吻けの経験がすべて奪われたものだということの方が、少しばかり問題だと思いましたが」

 さらりと受け流した娘は、さり気なく彼の痛いところを突く。

「俺のせいじゃないぞ。それに、接吻けしようと思うような相手がいなかったのも確かだ。あ、でも、翡翠にならしてもいいかな」

「わたくしに接吻けしてどうなさるおつもりですか? それに、嵐泰殿や成明殿にもできるなどと仰るおつもりではないでしょうね」

「……何で判った?」

 意外そうに小首を傾げ、熾闇は感心したように問いかける。

「それこそ愚問でございましょう? 熾闇様のお顔に書いてございます」

「えっ!? 嘘だろう!」

 ぎょっとした若者は、慌てて自分の頬に手をあてる。

「……実際に書いてあるわけがないでしょう。物の例えでございます」

 呆れたように肩を落とす翡翠に、拗ねた熾闇は渋面になる。

「嫌がらせで接吻けしてやるぞ!」

「嫌がらせ……」

「そうだ! そうすると、煩いじじい共がおまえを俺の妃にしようと画策するはずだからな。これが嫌がらせじゃなくて何と言うんだ?」

「……確かに、嫌がらせではありますね、ある意味」

 大臣達をじじいと呼ぶ主を窘めるでなく、形良い眉を寄せた翡翠も同意する。

「あ、でも、やっぱりやめた! おまえが俺の妃になるのは、別に嫌じゃないが、そうするとおまえを戦場へ連れて行けなくなる。そうなると、困るのは俺自身だからな。おまえ以外に、俺の背中を預けられる相手はいない」

「妃将軍は、過去に何人かいらっしゃったようですが……正妃様ではおられなかったようですね。わたくしとしても、従者としてお傍にお仕えさせて頂きたく思いますので、お妃様の地位は慎んでご辞退申し上げましょう」

 辞退すると言われた若者は、とても嬉しそうに笑う。

「誰が何と言おうとも、おまえは俺の一番の親友だからな。従妹で、乳兄弟で、確かに今は従者だが、おまえが俺の一番の理解者だ。だから、おまえも偶には俺を頼れよ。何時だって、俺はおまえの役に立ちたいと思っているんだからな。俺には必要ない権力も、おまえ達が必要なら、いつでも行使するんだからな」

「そのお言葉だけで充分すぎるほどですよ。わたくしは、あなたが望まれる何時如何なる時でもお傍に」

 穏やかに返した娘は、微笑む。

 成人の儀が翌年に控えているとは言っても、王宮内で過ごす時間が少ない彼等は、ある意味、あまりにも純粋で幼い。

 政治的駆け引きや決断を瞬時に判断できるほど老練な武将でありながら、人としての感情には疎すぎる程に疎い。

 それでも、ゆっくりと時を刻みつつあった。


 南の動向について詳細に調べる必要があると、熾闇の居室を辞した翡翠は、王太子府へと向かった。

 熾闇には報告してはいなかったが、巍の璃穆が颱を訪れたとき、早急に南が動き出すかもしれないと細作を放っていたのだ。

 そろそろ報告があるだろうと踏み、参謀室へと向かっていた翡翠は、ふと足を止めた。

 ほんの僅かだが、眩暈を感じたのだ。

「…………?」

 額に手をあて、前髪を掻き上げてみたものの、あまり不調は感じられない。

 気のせいかと思い直し、再び歩き出した翡翠だが、数歩も進まないうちに再び眩暈に襲われる。

 今度は視界が揺れるという可愛らしいものではなかった。

 足許から感覚すべてが歪んでいく。

「…………ッ!?」

 声も上げられず、石畳に向かって崩れ落ちていく身体に、娘は歯噛みする。

 こんなところで気を失うわけにはいかない。

 何とか持ちこたえなければと思ってみても、身体は言う事を聞かない。

 歯痒い思いで近付く石畳を見つめた翡翠は、ふいに身体がふわりと浮き上がったことに驚いた。

「相変わらず無茶をなさいますな」

 戯けた声は耳に馴染んだもの。

 視線を動かすのも億劫であった翡翠だが、何とか転じて声の主を見上げる。

 思っていたとおり、彼女を抱き上げていたのは犀蒼瑛であった。

「ひどい顔色だ。どこか、横になれる場所へお連れしなくては」

 低く響く甘い声が心配そうにひび割れる。

 蒼瑛とは別の、だがこちらも良く知っている声である。

「…………」

 その名を呟こうとしたが、声は出ず、息が漏れただけであった。

 蒼瑛の肩越しに、背の高い男の姿が映る。

 彼の親友である嵐泰の姿である。

「嵐泰、上着を貸せ。軍師殿をお隠し申し上げろ。この方の弱ったお姿を他の者にお見せするわけにはいかぬからな」

「承知」

 事務的な響きを持つ蒼瑛の言葉に、即座に応じた嵐泰が己の上着を翡翠に断って掛ける。

 その直後、ゆったりとした震動が翡翠に届く。

 犀蒼瑛が歩き出したのだと悟った娘は、目を閉じた。


 運ばれた部屋は、王太子府の参謀室にある彼女の居室であった。

 長椅子の上に静かに置かれた翡翠の元へ、嵐泰が水差しと茶碗を運ぶ。

「水を……唇を湿らせた方が、お加減も晴れましょう」

 そう告げる嵐泰に、翡翠は辛うじて礼を言う。

 何とか眩暈も治まり、声も出る。

 一時的な過労なのだと判断した彼女は、上体を起こそうと長椅子の背に手を伸ばす。

 その手を取った犀蒼瑛が、翡翠の背を支え、彼女を抱き起こす。

「以前にも申し上げました。こういう時は、男を頼りなさいと。そんなに頼りないですか、私達は」

 耳許で囁くように言われ、娘は頭を振る。

「いえ。誰かを頼るという考え方自体、わたくしには思いつかなかったようです」

 額に手をあて、首を横に振りながら答えた娘は、溜息を吐く。

「ご心配をおかけして、本当に申し訳ないことを致しました。ありがとうございます」

「また、同じことをなさるおつもりではないでしょうね? 少しは我らを信じなさい。男というものは、美しい姫君の言葉には喜んで従う生き物なのですよ。あなたがそのおつもりなら、我らは絶望して造反しかねませんが」

「それは、困りました」

 蒼瑛の言葉に、翡翠は苦笑を浮かべる。

「信用していないわけではないのです。ですが、自分の仕事を人に押し付けるわけには参りません。軍師として、大切な命を預かった以上、その責任を放棄することは許されません」

 茶碗を受け取り、冷たい水を喉に流し込んだ綜家の姫は、生真面目な表情でそう答えた。

「わたくしは、一日でも早く戦を収め、ひとりでも多く、家族の元へ兵を無事な姿で帰す役目を負っております。そのための努力を怠ってはならぬと、そう思うのです」

「優等生のお言葉ですな。それはいい。上に立つ者が、自分の役目を自覚することは、実に重要なことではあります。が、しかし、それが行き過ぎてはならない。聡明なあなたでしたら、おわかりですね?」

「……そう、ですね。確かにその通りです」

 柔らかな口調とは裏腹に、手厳しい蒼瑛の指摘に、翡翠は肩を落とす。

 その彼女の頭に大きな手があてられた。

 頭を撫でられたのだと彼女が気付くまで暫くの時間が掛かる。

「軍師殿、我らはあなたを諫めているのではございません」

 床に片膝をつき、視線を合わせて嵐泰がそう告げた言葉に、翡翠はゆっくりと頷く。

「あなたは大変優秀な軍師であることは、この国の内外の者達が認めるに吝かではないでしょう。ですが、あなたは生身の人間であり、まだ成長途中の若者でもある。軍師は激務です。完璧にこなそうとすれば、今のあなたの体力では身体を壊してしまいます。この程度で済めばよろしいでしょう。しかしながらいつか、その命を縮めてしまいましょう。早世してしまえば、あなたや上将が目指す世界へ到達できないのですよ」

 真っ直ぐにあてられた視線に迷いはなく、その瞳は澄み渡り、純粋に翡翠のことを心配している様子が見て取れる。

 父や兄達以外に頭を撫でられたことが無く、また年相応に扱われたことがない翡翠にとって、嵐泰の態度はある意味非常に新鮮であった。

 頼りない子供として存在していいのだと、無条件に甘えても構わないのだと、その態度が無言で告げている。

 皮肉げな口調で指摘する犀蒼瑛ですら、翡翠を一人前の大人として扱っているのに、嵐泰の目には年相応な子供としてしか映らないのだろうか。

 明らかに兄達とは違う存在の赦しの言葉に、彼女はひたすら戸惑う。

「……ごめんなさい」

「謝る必要はありません。赦しを請う必要も。いくらでも立ち止まり、振り返っても構わない。我々は何時だってあなたの後ろに控えているのですから、疲れたら荷を我らに押し付けて休んでも構わないのですよ。そのために、我々はいるのですから」

 そう言った嵐泰は、翡翠の頭に乗せていた手を外し、ゆっくりと立ち上がる。

「我々は少し席を外しましょう。お休みになられるとよろしい。妹をこちらに向かわせますので」

「それでは白華様にご迷惑が……」

「妹は軍師殿のことがとても好きなのです。迷惑など思いませんよ。むしろ、呼ばなかったことを怒るでしょう。上将には内密にさせます」

 それだけ言い残し、嵐泰は蒼瑛を促して部屋を出ていく。

 その背を見送った翡翠は、卓に茶碗を乗せると、長椅子に横になった。


「見事に美味しいところだけをさらっていくヤツだな」

 翡翠に声が届かないところまで離れた蒼瑛は、親友に向かってにべもなく言う。

「そんなこと、俺の知ったことか」

「そうか?」

「……それより、俺にはおまえがわからんよ。翡翠殿を気に入っている素振りを見せながら、あまりにも冷たい態度を取る。しかも、相手が成人前の子供だということを忘れた様子できついことばかりを言う。もう少し、あの方のお身体を思いやっても良かろう? それに、他の者達もそうだ。成長期の身体には充分な休息が必要だというのに、誰も彼もそのことには触れず、難問の良い結果だけを望んでいる。いささか度が過ぎているのではないか」

 素っ気なく応じた嵐泰は、憮然とした様子でそう告げる。

 その言葉に、蒼瑛は驚いた様に嵐泰を見つめる。

「おぬしの目には、軍師殿が幼子に見えるのか?」

「白華より年下の姫君だろう? そればかりは変えられぬ事実だ」

 親友の言葉に、それこそ意外だと言いたげな嵐泰は、渋面のまま答える。

「なるほどな。おぬしが如何に矛盾した男かということが、ようくわかった。存外、おぬしが次期国王かもしれんな」

「は?」

 感心したように蒼瑛は頷くと、ゆったりとした歩調で歩き出す。

「王だと? 次期王は、直系の方々の何方かだろう。俺は傍系の末席の人間だ。すでに王族とは名ばかりの傍流筋だ。王の資格なぞ、端からありはしないぞ」

 驚いた嵐泰は、蒼瑛を追いかけ、自分にとっての事実を主張する。

「ま、未だに白虎様が次代を決めないことが、不埒な考えを産む原因と言うことで、聞き流せ」

 あっさりとその言葉を流した青年は、僅かに歩調を早めた。

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