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北からの客人は、意外な処に余波をもたらした。
王太子府は、開店休業状態で、関係者は毎日のように詰めているのに、静まり返っている。
「……ああいう男が好みだったとは、意外ですねぇ」
軍部の大将執務室──つまり、熾闇の執務室で、重い溜息を吐きながら蒼瑛が外を眺めて呟く。
「意外ではないと思いますよ。元々、他の姫君のように見た目や身分で相手を計ることを由となさらない性分の御方ですからね、あの様な男を好まれるのかもしれませんよ」
肩をすくめ、やや呆れたように莱公丙が蒼瑛に答える。
彼等の視線の先には、実に麗しい光景が広がっている。
巍の新王太子である璃穆と、彼等の華である綜翡翠、そうしてその傍には嵐泰と劉藍衛が控えている。
何や彼やと親しげに話しかける璃穆に対し、翡翠は穏やかに応じている。
険しい表情を浮かべた藍衛は、周囲に視線を鋭く投げかけ、警戒をしており、表情を変えぬ嵐泰は、常に翡翠の死角に当たる部分に影のように寄り添っている。
「……おまえたち。一体何しにここへ来てるんだ? 執務の邪魔なら、追い出すぞ」
珍しく机に向かった熾闇が、筆を手に唸る。
「上将の無柳を慰めに、でございますよ。邪魔なんてとんでもない」
「蒼瑛……そんなに翡翠のことが気になるなら、一緒に伴をすれば良かっただろうに」
けろりとした表情で答える蒼瑛に、熾闇はうんざりしたように告げる。
「とんでもない! 藍衛殿が恐ろしくて」
ことさら怯えた様子を見せた蒼瑛は、くすくすと笑う。
「相変わらず、一方的に犬猿の仲ですか、藍衛殿と蒼瑛殿は。劉将軍は誠実公平なお人柄、蒼瑛殿も誠実に接しておられれば、あれほどまでに避けられることもなかったのでしょうに」
苦笑を浮かべた笙成明が、僅かに肩をすくめる。
「おや、それは誤解というもの。私はいつでも誠実ですよ」
「……自分に、と言うのだろう? あまり、藍衛を怒らせるなよ。笑って赦しているが、いつも被害を被っているのは翡翠なんだからな」
げんなりした様子で、熾闇は告げると、書面に目を通し、最終行に署名と花押を書き入れる。
「殿下は、いつなりとも軍師殿が大切なのですなぁ」
「当然だろう? あいつで我が軍が保っているようなものなんだからな。軍師が心労で倒れ、敵前せずして王太子府軍は瓦解ということになったら、太祖を初め、御先祖様に申し訳が立たぬわ」
蒼瑛の真意とはかけ離れた正解を答えた若者は、丁寧に余分な墨を含み取ると、書類を決算済みの箱の中へと放り投げる。
「それで、真面目にお仕事ですか」
「勅命だからとて、執務をなげうつわけにはいかぬと翡翠が言うから」
「……そもそも、上将の執務でございましょう?」
呆れたように成明が呟く。
「うっ……そ、それは、だなぁ……」
言葉に詰まった熾闇だが、成明の視線にがくりと項垂れる。
「これから真面目に取り組もうと心に誓ったところだ」
「それは結構。軍師殿も喜ばれましょう。ですが、確かに困ったことになりそうですね」
思案げな表情で呟いた成明は、視線を庭先へと転じた。
何がそこまで楽しいのか、にこにこと上機嫌な笑みを浮かべ、些細なことを尋ね聞く巍の王子に、嵐泰も藍衛も内心辟易していた。
「なるほど。これが百花の王と詠われる牡丹の花ですか。確かに王と呼ばれるに相応しい美しさですね。翡翠姫に良くお似合いです」
庭師が丹誠込めた白牡丹を前に、璃穆は感嘆の声を上げる。
「翡翠姫と劉将軍が並ぶお姿は、まさに雅王大公と貴王大公のようですね」
「牡丹と薔薇と仰るか。お言葉はありがたいが、璃穆殿、我らは武人。言葉を弄するは好まぬものゆえ、率直にお話しいただきたいものですな」
憮然と言うよりも、不機嫌そのものの表情を偽らず、面に出した藍衛は、璃穆の言葉を両断する。
「ご冗談を。武官と言えど、颱の方々は風流に通じる博識とお伺いしております。あぁ、劉将軍は貴王大公よりも、艶王大公と申し上げた方がよろしいでしょうか」
「蘭が私だと仰るか。言葉遊びがお好きだとお見受けするが、生憎、こちらの花は棘と毒を持つゆえ、お言葉にはくれぐれもご注意なさるが良い」
「劉将軍、言葉が過ぎます。申し訳ございません、璃穆殿」
藍衛を窘めた翡翠は、言葉ばかりの謝罪を述べる。
「いえ。美しき花には棘も毒もあると、ただいま劉将軍が仰ったばかりです。花の棘に刺さるは、花盗人の特権でございましょう」
にっこりと笑って答える璃穆に対し、藍衛の双眸が吊り上がる。
終始黙り込んでいた嵐泰は、璃穆の言葉に苦笑する。
花の棘よと侮っていたら、どれほどの目に合うのか身を持って知ることになるだろう。
抜けぬ棘の先に付された毒は、じわじわとその身を冒し、死に至らしめることなど、想像に難くないというのに、都合の良いことしか見ないのは、常の男の浅はかさというものだろうか。
先程から、否、この庭に来たときから、背中に視線を感じる。
慣れ親しんだ視線は、同僚達のものである。
現在の状況におとなしく黙っているはずもない彼等は、またぞろ何やら企むに違いない。
そこまで考えていた嵐泰は、気になることを思い出し、藍衛に目配せするとその耳許に囁く。
「青の姫についてはいかがされたか?」
浅黄という呼び名を持つ姫のしでかしたことを知る青年は、それとはわからぬようにその件を一任された将軍にこっそりと尋ねる。
「御機嫌麗しゅうしておられるわ。それこそ、毎日のように贈られる花を愛でてな」
ちらりと嵐泰を見上げた藍衛は、ニヤリと意地悪く笑う。
贈り主はもちろん藍衛だ。
夢のように麗しい美丈夫から、心こもった花を贈られる美しき姫君という役所に満足し、当面の目的を忘れてしまっている浅黄の姫に、嵐泰は少しばかり同情してしまう。
いくら藍衛が美しい姫君が好きだとはいえ、彼女は有能な武将だ。
そうして、誰よりも忠義に厚い。
己が主と定めた翡翠に対し、害意を持つ者は何人たりとも許しはしないだろう。
浅黄の姫が束の間の夢から醒め、身に過ぎる野心を思い出したとき、藍衛は容赦ない断罪者となることだろう。
それまでは、美しい夢の紡ぎ手であり、監視者として、彼の姫の傍にいるつもりなのだ。
そうしてその断罪者の大鎌は、今、巍の王太子の首にかけられている。
本人が気付いているのかは、甚だ疑問であるが。
ゆったりとした歩調で、彼等は庭を歩く。
北方の巍では気候が涼しすぎて花に適していないため、あまり見たことがないと璃穆が庭園の花を見たいとねだったため、王宮内を散策することになった。
一番美しい庭園は後宮にあるのだが、もちろん王と王子以外の男性は立ち入りを許されていないために、それ以外の場所を巡ることになり、案内役の翡翠が取る道順の巧みさに嵐泰は僅かな笑みを浮かべた。
庭から建物の位置関係がわからないように、木々で目隠しされた場所を通り、そうでない場所では興味を引く話題を振って注意をそらして通り過ぎてしまうのだ。
人質という名目で、この颱王宮に残ることを希望した璃穆が、自国に戻ったときにこの王宮のことを詳しく誰かに話せないようにしなければならないことを承知していても、それがかなり難しいことを彼等は承知している。
「しかし、四神国は美人が多いといいますが、これほど美姫が多いとは思いもしませんでした。さすが、天帝に愛されている国だけありますね」
華やかな衣装を身に纏う女官達が行き交うのを眺め、璃穆は嬉しげに言う。
うっとりと溜息を吐く様を横目に見た藍衛が、忌々しげに舌を打ち鳴らしたことに青年は気付かない。
「何か、秘訣のようなものでもあるのでしょうか? これほどに麗しい方々が多いというのは」
「さて? そこまで顔の美醜に拘る者はおりませんゆえ、何とも言えませぬが……貌というものは、その者の内面を表す鏡だと言われております。颱の民は、白虎様に恥じぬよう努力することを第一と考えますので、その決意が面に表れているのでしょう。ただ生きるのではなく、どう生きるか。誇り高く、無垢であれと、そう思っていることは確かですね」
甘やかな笑みを浮かべ、愛しげに護るべき民を見つめながら、翡翠は答える。
黒い艶やかな髪が優しい風になびき、柔らかくそよぐ。
「なるほど、そのようですね。今の翡翠姫は慈愛に満ちて、今までの中で一番美しい表情をなさっておいでです。あなたは颱の民を護るために生きておられるのですね」
意表を突かれ、驚いた様に見上げた翡翠に、璃穆はにっこりと微笑む。
「あなたに護られる颱の民が羨ましい。これほど愛情深い護り手もいないでしょうから。そうして、白虎神も、美しい護り手に厚い加護を授けるのでしょうね」
そう告げた青年は、菖蒲池に辿り着き、見事な花菖蒲に感嘆の声を上げる。
「これはまた、見事な菖蒲ですね」
「菖蒲はあちらですよ、これは花菖蒲と申します」
濃い青の大振りな花弁を持つ凛とした花ではなく、葦の穂のような地味な植物を指し、娘は穏やかに説明する。
「これが、菖蒲? これまた地味ですね。花ではないようですよ」
「えぇ、そうですね。だから、尚武とも言われるのです。菖蒲の花精は、太刀を持った凛とした少年だと言われておりますから。邪気を払い、清める、幼くとも凛々しい武将なのですよ」
「花精、ですか? 翡翠姫はご覧になられたことはあるのですか? 神獣がおわす国ですから、風霊や花精がたくさんいたとしても、何の不思議もありませんが」
花菖蒲の花弁を指先でつつきながら、楽しそうに璃穆は問いかける。
おそらく、花菖蒲の花精なら美人なのだろうと想像しているのだろう。
「白虎様のお側に控えているときなら、何度か。人の身ですので、神仙界の不思議にそう出逢うことはないのですよ。何故か、皆様、よくお尋ねになられるのですが」
くすりと笑った翡翠は、正直に答える。
「翡翠姫なら、きっとその様な尊い方々にお逢いになられても不思議ではないというような気がしてしまうのですよ。翡翠姫が仙女のような御方ですから」
「買いかぶりです」
璃穆の言葉に苦笑した娘は、彼が護衛の二人に視線を向けていることに気付く。
「璃穆殿?」
「翡翠姫……いつも、思うのですが、この王宮で衛士は必要ないのではありませんか? 劉将軍や嵐泰将軍もお忙しいでしょうし……そう言えば、莱将軍や笙将軍も伴をしてくださいましたね」
「わたくし達は戦場で生きる者ですから……絶対安全という言葉を鵜呑みにするわけにはいかないのです。常に万が一のことを考え、璃穆殿の安全を図るのが、今のわたくし達の仕事です」
璃穆の真意をはぐらかし、もっともらしい理由を口にする翡翠に、藍衛が笑いを噛み殺す。
心底そう思っているのか、それともとぼけて見せているのかは、藍衛にも判断が付かないが、彼女の躱し方は実に見事だと、内心で拍手喝采を送っている。
「ご歓談中に失礼いたします」
彼等から十歩ほど離れたところに女官が淑やかに立っていた。
「何用ですか?」
答える翡翠の声も柔らかい。
女官の姿をしているが、彼女もまた女子軍の兵である。
「碧軍師──綜副将軍に、陛下よりお召しが……」
「わかりました。璃穆殿、失礼させていただきます。散策の御案内を劉将軍にさせますので、どうぞごゆっくりなさって下さい」
「ありがとうございます、翡翠姫。ですが、部屋でおとなしくしておりますよ。読みたい書物もこちらには夢のようにたくさんありますので」
にこやかに笑った璃穆は、あっさりと引き下がる。
「そうですか。申し訳ございません。それでは、お部屋まで御案内させます」
藍衛に目配せした翡翠は、典雅な仕種で一礼すると、女官を伴ってその場を後にした。
足早に施政宮に向かう翡翠と女官の姿を、人々はまるで気付きもしない。
「……何がありました?」
それを知りながら、翡翠は小さな声で女官に問う。
「秦より使者が……巍に攻め入るため、兵を貸して欲しいと」
「……秦は、巍の太子が颱におられることを承知しているのですか?」
「定かではありません。が、引き渡しを申し出てはおられぬのは確かです」
真っ直ぐに前を向き、会話などしていない様子を装いながら、彼女達はひそやかな声で話をする。
「なるほど。巍は秦の侵攻を承知していた、と言うことになりますね。太子の安全を確保するため、使者として颱へ送る。その後は、留学という名の人質として颱に留めおき、我らに彼の君を護らせる。巍の新王陛下は、凡夫ではありますが、良い親のようですね」
苦笑を深くした翡翠は、案内されるまま、謁見の間へ向かった。