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厩では、すでに嵐泰の愛馬が引き出され、鞍が取り付けられていた。
先に出た蒼瑛が告げていたのだろう。
愛馬の首を軽く叩いた嵐泰は、手にしていた薄手の外套を翡翠の肩にかけた。
「多少大きすぎるかとは存じますが、どうぞ」
「お気を使わなくとも、わたくしは大丈夫ですよ」
「ですが、そのお姿ですと、非常に目立ちますし、何より風で裳裾が翻ることになりますから」
「………………」
一瞬固まった翡翠は、再び己の衣装を見下ろし、実に深い溜息を洩らした。
「お借りいたします」
素直に外套を留めた黒髪の軍師は、もうひとつの難関に気付く。
「嵐泰殿、まさかとは思いますが……」
「女性は横乗りですよ。いつものように鐙に足をかけるなど、無理というもの。女性用の鞍に座るには、足場を用意させるのが普通でございますから。御無礼いたします」
苦笑を浮かべた嵐泰は、律儀に声をかけ、翡翠を軽々と抱き上げると鞍の前の部分に座らせる。
そうして自分も鐙に足をかけ、ふわりと鹿毛に跨った。
「鞍か、私に掴まって下さい。妹と相乗りをよくしますので、慣れておりますから」
「お任せします」
こうなってしまっては、すべて嵐泰に任せるしかないと、諦めの境地に辿り着いた娘はおとなしく青年に委ねたのであった。
風の民である颱の人々は、騎馬の民である。
物心ついて最初に覚えることは、風を知ること、そして馬に乗ることである。
例え定住し、街に住むようになっても、彼等は不羈の民であり、移動の手段として乗馬を覚えるのだ。
誰かと伴乗りをしたのは、一体何時のことだったのかと、翡翠は馬に揺られながら思った。
あれは確か、戦場に出る随分前──剣を握り、戦うことを知らない幼い頃、長兄に乗せてもらったのだと優しい想い出を辿り、彼女は微笑んだ。
遠乗りに出掛けようとした季籐に駄々をこね、大好きな兄と共に、大好きな馬の背に揺られてはしゃいだ幼い日。
まだ少年に過ぎない小さな季籐の懐で、とても大きな兄に安心してうとうとと微睡んだ記憶が甦る。
ひとりで馬に乗れるようになってからは、一度も誰とも伴乗りをしたことはない。
それが許される状況ではなかったからだ。
だが今は、女性の衣装を身に纏い、同僚である青年に抱えられ、同じ馬に乗っている。
誰かに身を委ねることは、すなわち死に繋がるという状況だったはずなのに、嵐泰の腕は不思議と兄を思い出させ、安心できた。
お互い、鎧をつけず、衣服を通して肌の熱さを感じ取れる距離で誰かと一緒にいるという感覚は、彼女には熾闇以外にはあまり覚えがない。
戦場で負傷してという状況であれば話は別だが、少しばかり居心地が悪いような気もするが、なかなか悪いものではないと、翡翠は思う。
それが、嵐泰だからなのか、それとも相手が誰でもそうなのかは、まだわからないが。
「姫君、お加減でもお悪いのでしょうか?」
心配そうな声が上からとそして胸元から同時に届く。
思いがけず姫君と呼ばれ、顔を顰めた翡翠だったが、嵐泰が彼女の身を案じてその名と呼称を避けたのだと気付き、ゆっくりと首を横の振った。
「大丈夫です。髪を結い上げているせいで、多少引き攣れてこめかみの辺りが痛いのですが、気分が悪いというほどのことでもありません。昔、兄にこうして乗せて貰ったことがあったと、思い出したものですから……」
「左様ですか。では、速度を上げてもよろしいですか? 先程から、どうやら我らは目立っている様で、興味本位の視線が」
困惑したように告げる嵐泰は、軽く肩をすくめる。
「私にしっかりお掴まり下さい。胸元の方へ顔を寄せていただければ、風も避けられますし、他の者に顔を見られることもありませんので」
「なるほど。そういうことでしたか……わかりました」
鞍を握っていた手を離し、嵐泰の背に腕を回した翡翠は、いわれるままに顔を隠す。
周囲の様子が気になっていたため、顔を上げていたが、普通、伴乗りをする女性は、人前に顔を晒すようなことはしない。
それでは確かに悪目立ちをしてしまうだろう。
「では」
耳許に囁くように告げた嵐泰は、胴腹を蹴り、速度を上げた。
風が頬を掠める。
肌に馴染んだその感触を、心地よいと感じながらも、嵐泰は少しばかり困ったことになったと考えていた。
原因は腕の中の佳人である。
王族直系の血を引く綜家の末姫。
本人に自覚があろうとなかろうと、彼女の美貌は余人が認めるところである。
その美貌の娘が王太子府軍の猛将として名高い嵐泰の腕の中にいるのだ。
否、彼女が綜家の姫だと気付く者はいないだろう。
王太子府軍の軍師としての役目を重んじる娘は、質素な官服に身を包んでいるため、裳を着けた女性らしい姿で人前に出たことがない。
だがしかし、これほど美しい娘が名高い美丈夫と伴乗りをしていたところを目撃されれば、嵐泰と恋仲であると噂されるかもしれないのだ。
他人が思うほど、嵐泰は野暮天の朴念仁ではない。
むしろ、その繊細さゆえ、恋愛事から奥手になっているのだ。
武門の名家として名を馳せているが、傍系とはいえ、王族の末席に名を連ねている嵐泰が、右大臣家の姫と噂が立てられれれば、どんな騒ぎになるかわかったものではない。
この奇跡のような存在を間近で見つめてきた嵐泰だからこそ、この少女の重荷になるようなことはどうしても避けたかった。
常に極度の緊張状態で周囲を警戒しているような翡翠が、こうしてこの腕の中で安心しきった様子で身を委ねていることがとても嬉しいのだ。
無条件の信頼を与えられて、嬉しくない者はいないだろう。
だからこそ、人目についてしまったことを少しばかり後悔した。
「嵐泰殿? 何かありましたか。緊張なさっているようにお見受けしますが」
懐からひそやかな声がする。
「いえ、大事には至らないと思いますが──蒼瑛にからかわれそうな事になりそうです」
ぼそりと告げると、娘は不思議そうな表情で見上げてくる。
「どうやら私の顔を知っている者が、先程の中にいたようです。どこかの美姫と伴乗りをするような男には思えぬゆえ、騒ぎになるかと……」
苦笑を浮かべ、答えた嵐泰に、翡翠は表情を曇らせた。
「それは……嵐泰殿に悪いことを致しました。想いを寄せる方がおられれば、誤解を受けてしまいましょう」
「ご心配なく。そのような方はおりませんゆえ。むしろ、姫君に申し訳なく思います」
「わたくしは構いませんが……」
そう応じた翡翠は、困ったように首を傾げる。
その幼い仕種に、嵐泰の笑みがさらに苦くなる。
「北の狸が何と申すやらと愚考したまで。彼の方を払うには、私ではいささか役不足でしょうし」
「あぁ。いつぞやの話ですか。嵐泰殿なら申し分ない方だと、兄は言っておりましたが」
「季籐将軍が?」
戦場での話題を思い出した翡翠は、そのことを知った季籐の評価を率直に話す。
半ば面白がって評した季籐の言葉に、嵐泰は少しばかり青ざめる。
「はい。それと、二の兄上……偲芳兄上も同様に」
「偲芳殿まで……」
一瞬絶句した嵐泰は、眉頭にちょっと力を入れ、気を取り直したように翡翠に視線を落とす。
「他に、兄上様方は何か仰っておりましたか?」
「えぇ。逸材揃いで面白い、と。欲しい人材ばかりだが、閑職に来てもらっては宝の持ち腐れになってしまうなとも言っておりました」
「……左様ですか」
曲者揃いの彼女の兄達が、何を思ってそう言ったのかは謎だが、敢えて深く考えまいと、青年は思った。
人目に触れぬ道を選び、王宮間近の広大な敷地を持つ瀟洒な屋敷へと近付き、その門の前で軽く手綱を引いて、愛馬を止める。
身軽にその背から飛び降りた青年は、馬上の娘へと腕を伸ばす。
「お手を」
「ありがとうございます、嵐泰殿」
差し出された腕に手を這わせ、翡翠は自分の身体を支えると、地上へと降り立つ。
端から見れば、溜息を吐き、うっとりと見惚れるほど麗しい光景である。
まるで恋物語の一幕のような場面であったが、残念なことにそれを楽しむ観客はいなかった。
「……姫様っ!」
奥から動きやすい袴姿の侍女が数名走り出てくる。
「紅葉、楓。どうしました?」
女子軍の将であり、彼女の側近でもある侍女達が顔色を変えて主を迎え入れるなど、滅多なことではない。
表情を引き締めた翡翠は、武将として部下の言葉を待つ。
「王命が下りました。即刻登城せよとのことです。巍より火急の使者が参ったと知らせがありました。そのままお向かい下さいませ」
「陛下から。やはり、そうでしたか。衣装を改める時間はなさそうですね。すぐに向かいましょう」
馬を用意するように口を開きかけた翡翠を制し、侍女達は嵐泰に供を頼む。
「嵐泰様。どうか、姫様をお願いいたします」
「承知」
一言、頷くと、嵐泰は翡翠を再び馬上へと抱き上げる。
「後ほど、軍師殿のご衣装を府の方へ。先に参る」
手綱を引き絞り、胴腹に蹴りを入れた青年は、それだけを言い置くと、勢いよく愛馬を走らせた。