58
犀家西の館の一室に通された翡翠は、自分の置かれた状況に非常に困惑していた。
先代の唯一の側室である西の御方と呼ばれる女性とその侍女達に囲まれ、着替えをしなければならないその状況で、用意されていた衣装は何故か女性物であった。
もちろん、翡翠は女性であるからその衣装を身につけることに何ら問題はない。
問題はないのだが、今まで男物を身に纏っていたのだから、用意しているのは当然男物であるはずだと思い込んでいた。
「西の御令室」
「蘭玉と。綜家の姫様」
「蘭玉殿。わたくしは、王太子府軍副大将兼参謀、及び女子軍大将綜翡翠です。姫と呼ばれる身分ではございません。それゆえ、大変不躾で失礼ではございますが、この衣装を改めさせていただきたく存じます」
先程会った東の正妻とは対照的に、西の夫人は年相応に落ち着いた、だがとても朗らかな女性であった。
多少、茶目っ気がありすぎるような気がするが、蒼瑛を育てた女性だと思えば、大した問題ではないような気がする。
「あら? ご不満が?」
「現在任務中の身ですので、簡素で動きやすい物をお貸しいただければ幸いです。この様に煌びやかな衣装は、奥向きの女性にこそ相応しい物ですゆえ」
「えぇ、そう仰ると思って、あちらに用意させていただいておりますわ。ですが、せっかく来ていただいたのですから、お茶を飲まれる間だけでもこちらに袖を通していただけません? わたくし、娘が欲しかったのですけれど、子はおりませんから、せめて、年頃の娘さんにこの衣装、着ていただけたらと思って作りましたのよ」
手の込んだ見事な刺繍を指先で辿り、年輩の女性は穏やかに微笑む。
「ここには息子もおりますし、嵐泰様もお着きになりました。一時ほど、殿下をお護りするだけの備えはありましてよ」
にっこりと見事な笑みを浮かべる女性に、翡翠はやられたと思った。
親不孝をしている自覚が多少あるためか、母親と同じ年代の女性に弱い自覚はある。
力でもって戦わない女性は、力から護るべき者だと思い込んでいることも知っている。
例えどんなに胆力があり、意志が強い女性でも、剣を手にしない限りは、その類の力は一切行使しないと自分に誓っているため、どうにも弱いのだ。
「……わかりました。ご厚意、お受けいたします。ですが、後ほど衣装を改めさせて下さい」
あっさり負けを認めた方が良さそうだと、半ばげんなりしながら歴戦の参謀は作戦を決定した。
一方、先に着替え終わり、客間に通された熾闇は、犀蒼瑛と嵐泰のふたりから状況説明を求められ、うんざりしていた。
「だから、俺にもよくわからん! 王宮を出た辺りからつけられているとは知っていたが、市で数が増えて、何か仕掛けられるなと思ったから、逆に先手を打ってやろうと翡翠とふたりで路地に入って……あの展開になった」
行儀悪く長椅子に座り、ふたりの男の視線から逃れるように天井を眺めて応じる。
「俺達の命を狙う奴なんか、それこそ掃いて捨てるほどいる。いちいち気にしてられるか」
「……そういうわけにはいかないことくらい、承知しておられるはずですがねぇ?」
わざとらしく溜息を吐いた蒼瑛は、胡乱な視線を遠慮なく上司に向ける。
「事実は事実だ。それ以外、俺は知らん。俺と翡翠は生き残る。それだけでいいだろう?」
「それは、そうですが……あのねぇ、少しは自覚して下さいよ、殿下。今、あなたが一番玉座に近い存在なんですよ? いくら白虎様が選ぶといっても、現存する王子の中で唯一の嫡子であり、最年長は第三王子のあなたなんですからね。それに、翡翠殿も、そのご身分、年齢からも、正妃の有力候補なんですよ。右大臣家の姫で、母君は王族──しかも、現王と同腹の王妹殿下であらせられる。美貌、教養においてもどんな姫よりも優れておいでだ。どこから狙われるか、本当にわかったものじゃないんですよ」
呆れたように告げる青年は、溜息ひとつ吐いて、同僚に目を向ける。
「その、軍師殿はどちらに?」
「西の母上の玩具にされているんじゃないかな、今頃は」
「は?」
「あの人、娘を欲しがってたからなぁ……翡翠殿は、理想そのものみたいだから」
肩をすくめ、嵐泰の言葉に答えた蒼瑛は、戸口に視線を向けた。
「蒼瑛様、御支度が整いました」
幼い声が、扉の向こうからかけられる。
「あぁ。お通しなさい」
そう応じた青年は、苦笑を浮かべる。
「翡翠殿の御支度が終わられたようですよ」
不思議そうな表情を浮かべる嵐泰と熾闇は、扉の向こうに現れた翡翠の姿に目を丸くした。
色鮮やかな緋の地に大輪の牡丹や花々が見事に咲き誇る衣装を身に纏い、その豪華さに気圧されることなく難なく着こなす艶やかな美女──普段の彼女を知るだけに、その艶やかさに驚く嵐泰と蒼瑛とは裏腹に、僅かに青ざめた熾闇は、長椅子から立ち上がり、翡翠を避けるように嵐泰の陰に隠れようとする。
「殿下?」
「上将?」
蒼瑛と嵐泰は、主の不可思議な行動に訝しげに首を傾げる。
「何故、嵐泰の後ろに隠れようとしてるんです?」
「……だって、怖いだろ、あれ?」
こそこそと小声で言う熾闇が示すのは、当然の事ながら翡翠である。
「怖い? まぁ、怖いくらいに綺麗というのなら、確かに怖いかもしれませんが……」
「誰がそんなことを言ってる!? おまえ達、わからないのか!? すっげぇ、怖いぞ、あれ」
訝しげな蒼瑛にギョッとしたように首をすくめた熾闇は、びくびくと翡翠から視線を逸らし、逃げようともがいている。
「は?」
「…………何でかわかんないけど、すんげぇ怒ってるぞ、あいつ。頼むから、絶対に刺激すんな。爆発したら、とんでもないことになるぞ」
「あの……殿下? 翡翠殿が美しく着飾っていることに関して、何も感じてない、とか?」
「何を着てようが翡翠は翡翠だろ? 俺の親友で、いとこで、乳兄弟だ。見た目がどうだろうが、翡翠が翡翠なら、それでいいだろうに」
呆れたように問いかける蒼瑛の言葉に、怯えていたことを忘れた熾闇が不思議そうに反論する。
「普通、男というものは見た目に踊らされるものなんですがねぇ」
朴念仁ふたりが翡翠の姿に驚いたのは、まったく正反対の理由であることを悟った男は、若者の態度に呆れる。
「蒼瑛殿」
凛と響く声が、ひとりの青年の名を呼ぶ。
「はい?」
無視することを許さない響きに、蒼瑛は素直に返事する。
「突然の来訪にも関わらず、このように手厚いもてなしをしていただき、感謝いたします」
ごく当たり前の礼儀としての謝辞のはずが、何故か空々しく感じられる。
穏やかな笑みを湛え、翡翠が可愛らしく首を傾げると軽く結い上げられた髪を留める簪などがしゃらしゃらと澄んだ音を響かせる。
どんなに望んだ処で、決して叶うことはないと思われてきた綜家の姫としての姿に、ただただ陶然と見惚れる青年がひとり、最上級の目の保養だと内心歓ぶ青年がひとり、実に動きにくそうな姿だと同情しつつも彼女の怒りに怯える若者がひとり。
「後ほど、西の御婦人にはお礼を差し上げたいと思います」
「いえ、お気遣いなく。母も、本望でございましょうから。それにしても、良くお似合いです」
如才なく答える蒼瑛は、表面上はにこやかだが、内心では養母の辣腕ぶりに驚いている。
「それより、お茶をいかがですか? 是非、お話をお聴かせいただきたい」
「わたくしに尋ねられるより、浅黄の姫にお尋ね下さい。楽しいお話を聞かせて下さるでしょう」
そう答えた翡翠は、中庭に視線を向ける。
ごく自然に整えられた花樹に、この館の主人の趣味の良さを感じ取る。
無造作なようでいて、細部にまで拘り、計算し尽くされた造園は、見る者の心を慰撫してくれる。
これほどまでに細やかな心配りと趣味の良さを持つ女性に育てられたのだから、蒼瑛の好みが半端でなく煩いのは納得いくものである。
「……浅黄の姫、ねぇ……確かに楽しい話が聞けそうですよ。ついでに、甘い夢でも見せますか?」
「お好きなように」
悪戯っぽい表情を浮かべた青年の問い掛けを気の乗らない様子で受け流した娘は、ふと視線を空へ転じた。
「翡翠、どうした?」
さすがに半身とも言うべき存在のかすかな変化にも敏感に察知する王子は、表情を改めて問いかける。
「風向きが変わりました。北から……熾闇様、急ぎ、王宮へお戻り下さい。白虎様が、いえ、陛下がお呼びなのだと思います」
「そうか。わかった、戻ろう。嵐泰、翡翠を頼む。行くぞ、蒼瑛」
蒼瑛の腕を掴み、促す間もなく歩き出した熾闇に引きづられ、不満げな表情の青年は渋々と従う。
「何故、私ではいけないのですかねぇ……」
「おまえの馬より、嵐泰の馬の方が力が強い。二人乗りするにはそちらの方がいいだろう」
「…………天然ですか、それ?」
至極真面目な表情で答える熾闇に、青年は眉間に皺を寄せ、ぼそりと呟く。
残されたふたりは茫然と彼等を見送り、そうして顔を見合わせる。
「綜家の方へ御案内してよろしいのですか?」
「え? あ、はい。わたくしのことなら、大丈夫ですから」
「失礼ですが、軍師殿。女性の衣装で馬にお乗りになられたことはございますか? 生憎、犀家には女性用の鞍はありませんし、その衣装ではいつもと同じ乗り方では無理が」
実に言いにくそうにぼそりと美丈夫が告げる。
「……そうですね。嵐泰殿の仰るとおりです。ご迷惑をおかけしてしまいますね」
自分の姿を見下ろし、溜息を吐きながら翡翠は答える。
先程まで着ていた袍は、返り血を洗い落とせないと処分されてしまったのだ。
おそらく、綜家の方へ処分した袍の代わりに新しい衣装を送り届けていることすら読めてしまう自分が虚しくて、つい蒼瑛に八つ当たりしてしまいたくなる自分に自己嫌悪し、少しばかり怒っていたというのが熾闇を怯えさせた真相であった。
だが、そんな年相応な反応も許されない状況に身を置く娘は、感情をすべて消し去り、穏やかな態度を保つ。
「いえ。この場合、迷惑ではなく、役得と申すものでしょう。こちらに」
悪友の屋敷に通い慣れた青年は、躊躇いもせず厩に向かう路を案内した。




