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犀家は、市からさほど遠くない、だが、市の喧噪が嘘のように閑静な場所にあった。
名門ではあるが、敷地はさほど広くはない。
おそらく、綜家の半分もないだろう。
貴族の邸宅と言えば、つい身近にある綜家の家を思い浮かべてしまう熾闇には、意外なまでに小さく感じられた。
だが、庭の設えの趣味の良さ、手入れが隅々まで行き届いていることなどは、さすが蒼瑛だと根が素直な若者は正直に感心してしまう。
「先代が亡くなりましたときに、屋敷をこちらに移したのですよ」
のんびりとした口調で告げる蒼瑛に、翡翠がゆったりと頷く。
「新しい御当主殿はお若く、戦場へお出掛けになられて長く屋敷を空けられますゆえ、お留守を預かるご婦人方には広いお屋敷は危のうございますからね」
「えぇ、まあ……」
珍しく言葉を濁した美丈夫は、軽く肩をすくめる。
「初めはそのつもりだったんですがね……」
「お帰りなさいませ、蒼瑛様」
どこか慌てた様子で主を迎えた侍女は、まだ幼さを多分に残すあどけない少女であった。
「西の御方様より、お客様をお館に案内するよう申しつかりました」
「西の御方が?」
思いがけないことだったのか、蒼瑛は軽く目を瞠る。
「はい。実は、つい先程、東の御方様がお戻りあそばされて……お客様がいらっしゃるとお聞きになり、悋気を起こされて……」
「なるほど。東の御方は当分別荘からお戻りになられないとお伺いしていたが、また虫が騒ぎ出したか」
困惑したように呟いた青年は、縋るように見上げる侍女に頷く。
「おまえは西へお客様を案内するように。東へは私が御機嫌伺いに行こう」
「畏まりました」
あからさまにほっとした様子を浮かべた侍女は、主人の客を案内しようと視線を送り、頬を染めた。
美丈夫と詠われる主人に劣らぬ美貌の客人ふたりに、陶然と見惚れかけたその時、屋敷の方から人の気配と共に騒ぎが近付いてきた。
「蒼瑛! どういうことなのですか!? わたくしがおらぬ時にお客様をお招きするなど……ッ!」
揃いの衣装を身に纏った少女達に留まるよう口々に言われながらも、それらを無視し、傲然とした態度で彼女達を押し退け、きつい口調で犀家の当主を詰ったのは、艶やかな美貌の女性だった。
品良く、上質な襲を見事に着こなしたその女性は、蒼瑛の姉と言っても違和感を感じないだろう。
東の御方と呼ばれる女性は、先代の正妻──つまり、蒼瑛の実の母親である。
あまりにも若々しすぎるその外見からは、到底、蒼瑛のような息子がいるとは思えない。
「確かに客人ではありますが、これは仕事に関することで、東の御方がお気になさるようなことではございませんが」
対する蒼瑛の態度は、実母に向けるとは思えない冷ややかなものであった。
「嘘を仰い! 着替えなぞ、必要ないものを何故手配させるのですか」
激した女性は、険しい表情で息子を睨み上げる。
まるで俗に言う痴話喧嘩のような様相である。
少しばかり呆れた熾闇は、先程侍女が『悋気』と言ったことを思い出した。
悋気とは、いわゆるヤキモチのことである。
己の留守中に息子が恋人を連れてきたと思い込み、ヤキモチを焼いたのだと熾闇は理解した。
物心ついたときには母親が傍にいなかった熾闇には、よくわからないことなのだが、それはよくあることなのだと部下達の言葉から聞いたことはある。
ならば、ここで翡翠の存在が明らかになれば、さらに事態は悪化するかもしれない。
今の翡翠は、どこをどう見ても少年のようにしか見えないが、万が一と言うこともあるのだ。
自分に注意を引かせる方がいいと判断した彼は、不機嫌そうな声を出した。
「蒼瑛、いつまで俺を待たせる気だ?」
「……殿下」
まさかここで割り込んでくるとは思わなかった蒼瑛は、虚をつかれ、熾闇を振り返ると思わず呟く。
「これはどういうことだ!? 何故、おまえの上司である俺がこの様な場所で待たされ、諍いを目にさせられる?」
何か俺に含むところでもあるのかと、きつい眼差しで部下を睨む熾闇の姿を、犀家の先代の妻は息を飲んで見つめた。
「申し訳ございませぬ。お見苦しいところをお見せいたしました。この御無礼は平にご容赦を。家の者が少しばかり誤解をしておりまして……母上、こちらは私の属する王太子府軍の総大将、第三王子熾闇様にございます」
熾闇の態度が下手な芝居だと苦笑を浮かべそうになりながらも、蒼瑛は生真面目そうな態度を作り優雅に一礼すると、実母に王子を紹介する。
「三の君様……まぁ、まぁ! では、お客様というのは……わたくし、とんだところを……御無礼を致しました、三の君様。お許し下さいませ。わたくし、先代当主の妻にございます」
見目良い若者の姿に気付いた東の正室は、さながら鬼女のような姿から一変して虫も殺せぬような可憐な女性のように振る舞う。
「ほう、先代の……これはまた、蒼瑛の姉上か、恋人かと思ったぞ。おまえの母君に免じて、先程のことは不問にする。だが、このままでは王宮に戻れぬのでな、着替えを貸してくれ」
わざとらしく皮肉った熾闇に、蒼瑛は恭しく一礼する。
「畏まりまして、若君。すでに用意させております。どうぞ、奥へ」
「……着替え」
ふたりの会話から、ようやく着替えが必要なのは王子なのだと気付いた女性は、王子とその連れの服に飛び散る染みに絶句する。
「あぁ、紹介しよう。これは俺のいとこで名を綜碧という。ふたりで街へ遊びに出たはいいが、少々問題が起こってな、ご婦人に聞かせるようなことではないので、何もなかったと忘れるように」
「綜碧と言う。厄介をかける……」
端的に言葉を紡ぐその声は、性別不詳の響きを放ち、東の御方と呼ばれる女性は柔らかく目許を和ませた。
「こちらこそ、至らず申し訳ございませぬ。お怪我はございませぬか? 医師が必要ならば、ただちに手配させますが」
うって変わった対応に、熾闇は肩をすくめ、翡翠は目を伏せるだけだが、蒼瑛は盛大に顔を顰める。
「お気になさらず、東の御方。すでに手筈は整っておりますゆえ。では、失礼」
侍女達に素早く目配せをした青年は、上司達を屋敷へと案内する。
「予想外の展開で、私も驚きましたが……助かりましたよ、殿下」
声が届かぬ処まで離れた蒼瑛は、熾闇に礼を言う。
「いや。俺は別に……だが、あの女性がおまえの母君だとは、意外だな」
元来素直な若者は、思ったことをポロリと口にする。
「熾闇様!」
「ははははは……良いのですよ、軍師殿。えぇ、一応、私を産んだ方ですよ、あの女性は。母親だと思ったことは一度もありませんし、育てられたこともありませんがね」
制止する翡翠の声と、爽やかにある意味怖いことをさらりと告げる蒼瑛に、熾闇はぱちくりと瞬きを繰り返す。
「複雑なのだな、おまえの家も」
「貴族という身分に生まれた者は、少なからず複雑な生い立ちを持つものですよ。さて、嵐泰が到着する前に着替えた方がよろしいでしょう?」
話題を変えた男は、西の館へと彼等を連れていくと、侍女達に着替えの手伝いをするように命じる。
少女達の手を借り、着替えをすませた頃、嵐泰が犀家へと辿り着いたという知らせが彼等に届いた。