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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
54/201

54

 大通りに面した東の街が、彼等が足繁く通う市がある。

 南北に長く伸び、北側は日用の商品を、南側は食料品を扱っている。

 この市を歩けば、王都の様子が一目瞭然だと聞き、様々なことを学ぶために、ふたりはここに足を運ぶようになった。

 王都にいる間は、暇を見つけてはこの東の市を歩いているのだ。


「今日は、どうしようかな」

 いつにも増して賑やかな市の北端に辿り着いた熾闇は、隣を歩く男装の娘に問いかける。

「あ。道具屋へ寄っていただいてもよろしいですか? 墨を見たいのですが……それと、音無屋にも」

「音無屋か? あの偏屈親父の楽器屋! 楽器を作って売ってるのに、音が無いなんて、絶対に変だよな。まぁ、あれだけの名品を作れる腕前だから、多少偏屈でも納得できるけど……って、その楽器屋に何の用だ?」

 筆記用具専門の道具屋を覗くのは、翡翠にとって多大なる楽しみのひとつだと知っている熾闇は、そこに行くことにさしたる疑問も浮かばなかったようだが、楽器を取り扱う店に寄ると聞き、不思議そうに尋ねる。

「店名の『音無屋』というのは、楽器は演奏者の手に渡って──演奏者が奏でて初めて完成するという御店主の持論からつけられた名ですから、とても良い名だと思いますけど? 音無屋には、笛を見に行こうかと思いまして……槐の誕生日に贈ろうかと」

「槐姫か? 芙蓉殿の娘御の……おまえには姪御になるな。今度、ふたつか?」

「はい」

 おっとりした笑顔で答える翡翠に、熾闇は晴れやかな表情で問いかける。

「そうか。もうふたつになるか」

「今年の冬、もうひとり、生まれる予定だとか……槐には、みっつになれば楽を教えると約束いたしましたゆえ、今の内に良い品を作ってもらえるよう頼もうかと」

「そうか。では、俺からは琴を贈ろう。大陸に名を馳せる風流人の伯父と叔母を持つ姫だ、きっと楽の才能を開花させることだろう。今から楽しみだな」

 くすくすと楽しげに笑う熾闇に、翡翠も柔らかく微笑む。

 義兄である稜貴には、感謝してもしきれないほどである。

 峰雅が亡き後、芙蓉を傍で支え続けてくれた穏やかな青年がいてこそ、姉も立ち直れたのだから。

 そのことを良く知る翡翠は、義兄や姪にできる限りのことをしようと思っていた。

 傍にいて、支えることができなかった不肖の妹の精一杯の礼をしたかったのだ。

「道具屋で良い紙と、顔料があったら、おまえに買ってやろう。そろそろ絵を描きたいんじゃないか?」

 悪戯っ子の様な表情で彼女を見やる若者に、翡翠は笑って頷いた。

「おねだりしてもよろしいのですか? わたくしへの俸禄は、墨と紙であればどんなに良いかと、いつも思っておりました。こんな事を言っては、兄上達にいつも笑われておりますが」

「翡翠らしい。本当におまえは、学ぶことが好きだな」

「えぇ、もちろんです。学問も楽も絵も、すべて、心を豊かにしてくれます。先達の智恵を学び、新しいものを作り出すことほど、楽しいことはございません。この様に恵まれたことを、すべてのものに感謝しているほどです」

 嬉しげに答える翡翠に、熾闇も笑みを返す。

 勉強と名が付くものは嫌いだが、学ぶこと自体は嫌いではない熾闇は、乳兄弟の晴れやかな表情に満足する。


 武で名を馳せるより、文で名を挙げた方が、人としてどれほど社会に役に立てるだろうか。

 彼の従妹ほど、そう思える人間はいない。

 文官として、学者として、文化人として、後世に名を残すだろうことは、熾闇にでもわかる。

 だが、今のままでは、彼女の肩書きは王太子府軍副将軍兼参謀に留まり、参謀資料室にある戦史に名を残すのみで、歴史の中に埋もれてしまう。


 時折、熾闇の中で鎌首をもたげる焦燥。

 誰よりも、何よりも大切な乳兄弟で従妹である翡翠を失いたくないと、空虚な焦りが彼を支配する。

 このままでは、戦で彼女が死に至る大怪我を負うかもしれない。暗殺という闇の手の者にかかってしまうかもしれない。

 若者にとって、翡翠は唯一身近な家族なのだ。

 腹違いの弟妹達は、確かに半分だけは血の繋がりを持っているだろうが、殆ど会ったこともなく、親しみを感じることすらない。

 本来家族であるべき肉親は、あまりにも遠いところにいた。

 親である前に王である父、病弱で記憶に残ることもなく儚くなった母。

 母とは呼べない父の妻達と、その子供達。

 敬意を持って接することはあっても、それ以上でもそれ以下でもない存在。

 彼が必要としていたものは、すべて翡翠が与えてくれた。

 だからこそ、その翡翠を失うことは、熾闇の世界が崩れ去るということに繋がる。

 己の死については、恐れもせず、ある程度納得できるものだが、翡翠が失われるということだけは赦せないのだ。

 もしもという仮定に過ぎないことですら、衝動的に周囲のものを破壊し尽くさねばならないほどの焦燥と恐怖を感じてしまう。

 一日も早い平和の到来か、翡翠を文官として任じ、朝廷に出仕させる以外に、彼の精神の平穏はないように思われた。

 不思議なことに、熾闇の頭の中には翡翠の婚姻という文字はない。

 いずれすることもあるとは、わかっていても、実感として湧かないらしい。

 突発的に吹き出す不安を消し去ることが、彼の内面的な日常になりつつあった。


 翡翠の望むままに、道具屋で墨を眺め、質の良い紙と様々な色彩の顔料を買い、音無屋で笛と琴を頼んだふたりは、のんびりとした様子で市を散策する。

「おおっ! 美味そうな匂いだな。何か買っていくか?」

 市の中央より南側へ達したとき、熾闇の表情が一転した。

 まさしく年相応の若者のそれだった。

「今の時間に買って食べては、夕餉が入らなくなりますよ、我が君」

 いかにも食欲をそそる美味しそうな良い薫りに、気もそぞろになっている主に対し、臣は少々呆れ顔だ。

 それでも、店で買うこと自体には反対しない。

 これが、他の従者と翡翠との違うところであった。

 毒味役が食したものでなければ食べては駄目だとも、得体の知れない料理に手を出すなとも、一切否定の言葉を口にしない。ただ言うのは、料理人が心を込めて作った料理を粗末にするな、の一言である。

 戦場では、一握りの米や麦、一口の水が生死を分ける。

 命を繋ぐ、大切な食料を無駄にすることなど、戦場で生きる者にはできないことだ。

 生き延び、勝利を手にするためには、どんなものでも食べなければならない。

 街の者が想像するより、戦場は過酷で容赦ない場所だった。

 そんな場所を生きる処と決めたふたりだからこそ、その様な言葉にもなるのだろう。

 到底良家の子女らしからぬ発想から放たれた言葉だが、幸いにも誰が聞いても至極尤もな意見に、その言葉を聞き咎めた者はいない。

「う~ん、でもなぁ……夕餉の量、足りないし」

「は?」

 困ったようにぼやいた熾闇の言葉に、翡翠は目を丸くする。

「足りない、のですか?」

 あれだけ食べて、という言葉が聞こえそうな表情である。

「ああ。まだ、背が伸びてるし、筋力もついてきてるみたいで、食べてもすぐにお腹空くし」

 しゅんっと肩を狭めて、困り切ったように答える熾闇は、とても颱軍を率いる将には見えない。

 遊びたい盛りの若者が、しっかり者の学友かもしくは従者に叱られている図に見えることだろう。

「では、おかわりを仰れば、料理長も喜びましょうに」

「でも、俺がゆっくり食事をすると、小者達の夕餉が遅れてしまうだろうし」

「………………」

 今度こそ、本当に呆れてしまった翡翠は、深い溜息をつく。

 どこの世界に、自分に仕える小姓達の食事の心配をする主がいるだろうか。

 しかも、小者達のために、主がひもじい思いを堪えているとあっては、本末転倒も良いところだ。

「翡翠?」

 おそるおそる声をかけてくる熾闇に、翡翠はもう一度溜息をつく。

「紅牙様や青牙様とご一緒なさればよろしいでしょう? 六の君様も、熾闇様とご一緒したいと何度もお申し出下さっているそうではありませんか」

「う~ん……あ、いや。あいつは、俺と一緒じゃなくて、おまえと一緒に食べたいらしいぞ?」

 珍しく、正しい認識をしている熾闇は、きっちりと訂正をしたあと、困ったように微笑う。

「どうせ、一過性のことだろうし。眠れないというほどでもないし。王宮にいるときだけのことだから」

 甚だ的外れなことを言いながら、どう言い繕うかと考えていた若者の表情が一変した。

 年相応の若者から、歴戦の将軍へと、纏う空気すら変わる。

「翡翠」

 囁くような低い声が警告を発する。

「十二人ほど。生業の者ではなく、私兵のようですね」

 何気なさを装って、周囲の気配を探った娘は、落ち着いた様子で答える。

 穏やかな表情のまま、彼女は熾闇に小首を傾げてみせる。

「移動しますか?」

「そうだな。奴等もここでは襲ってくるまい。剣の手合わせの相手ができて、良かったな、翡翠」

 にやりと笑った若者は、楽しげに嘯く。

「わたくしが良かったのではなく、我が君が良かったのでございましょう? 手加減してくれぬからと言って、短慮なさいませんように」

 呆れた素振りで答えながらも、人気のない場所を探し、移動する先を視線で示した翡翠は、熾闇を促し、人混みの中を歩き出した。

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