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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
52/201

52

 じゃらんと、琵琶が艶やかに掻き鳴らされる。

 板張りの舞台に立つ若者に圧倒されながら、鳴り物を得意とする太夫達は、己の楽器を合わせ始める。

 舞を得意とするだけで、華やかな名声を得ることができた桔梗太夫を彼女達はあまり好んではいなかった。鳴り物師達がいて、はじめて彼女の舞が披露できるというのに、彼女は囃子方を労うこともなく、ただ自分の舞の添え物としか考えていなかったからだ。


「良い音だ。鳴り方も響きも、王宮の楽師達よりも艶がある。うん。おぬし達、存分に楽器を鳴らしてくれ」

 嬉しそうに目を細めた若者は、太夫達を手放しで褒める。

 その言葉に気を良くした妓達は、望まれるままに心地良い音を作り出していく。

 そうして、それは唐突に始まった。


 同じ演目を舞っているはずだった。

 曲も、振り付けもまったく同じはずだった。

 なのに、誰が見てもまったく違う舞に見えた。

 舞手が男女の性差があったからではない。

 舞う者の手捌き、脚捌きの余裕であった。

 難曲のひとつにもあげられる曲で、非常に曲調が早いのが特徴なのだが、それでも熾闇には充分な余裕があった。

 所作から所作への素速い移行、力強く、だが優美さを失わない手の繊細な表情。

 その大胆さを感じさせる振り付けに、快い驚きを覚える内に惹き込まれ、魅入ってしまう。

 そうして、楽しそうに舞う若者の周りに初夏の草原が広がっているような錯覚に捕らわれる。

 否、確かに草原が広がっていた。

 熾闇が手を打ち振るう度に、風が若草を薙ぎ倒し、煽る情景が目に焼き付く。

 健やかに草原を渡る風を頬に感じる。

 今、楼閣にいるのではなく、草原の直中に座っている気さえした。


 ──天賦の才


 天帝が人に託したあらゆる恵み。

 あらゆる美点。

 努力だけでは到底敵わない刹那の夢。


 これほどまでに見事な舞を見たのは、楼閣の者達は初めてであった。

 それでもこの若者は、綜家の末姫より下手だという。

 ならば、この若者にして上手と言わしめる綜家の姫の技量とは一体どれほどのものであろうかと、我知らず身震いをしてしまう。

 彼の若者の供としてやって来た美丈夫達は、見慣れているのか、それとも他の理由があるのか、些か反応が鈍い。

 桔梗太夫に至っては、蒼白になり、膝の上で拳を握り締め、食い入るようにその舞を魅入っている。

 無理もないことだろう。

 今まで、己の才能を信じ、努力をしてきたその矜持が、この一瞬の舞にすべてを打ち砕かれてしまったのだから。

 その衝撃から立ち直り、一層の精進ができれば、彼女の技は本物になることだろう。

 見事な舞に魂を絡め取られる反面、冷静に女将はそう考えていた。


 緩やかに、穏やかに曲調が変化し、風の勢いが弱まっていく。

 さやさやとさやめく風の余韻を残し、初夏の草原から楼閣へと戻ってきた。

 舞終わった若者は、あれほど激しく動いていたにもかかわらず、息ひとつ乱さず、そうして汗ひとつ浮かせていない。

 実に涼しい顔で舞台から降りると、先程まで自分が座っていた上座へと腰を下ろす。

「長いこと舞っていなかったから、少し腕が鈍ったか。翡翠がいなくて良かった。また嘆かれるところだった」

 屈託なく笑った若者は、舞姫に視線を向ける。

「ちゃんと、その目で確かめられたか?」

 そう告げる表情は、とても柔らかい。

「……とても、口惜しゅうございました」

 巾を握り締め、桔梗太夫は答える。

「そうか」

 ひとつ頷いた熾闇は、脇息に肘をつき、頬杖をつく。

「翡翠の舞は、草原に立ち、風を頬に感じ、夏草の芳しき香りを嗅ぐ気がするぞ。俺など、足元にも及ばん。口惜しいとも、感じる気力も湧かん」

 実にあっさりと答えた若者は、小さく笑う。

「綜家の姫が公で舞わぬのには、理由がある。己の舞を、誓いで封じているのだ。剣を手に取り、血を流す以上、女舞は舞わぬ、とな。唯一舞うのは、戦の勲を誓う剣舞だけだ。それでも、陛下と武官の前でのみだ。誓いが破られることはないだろうな」

 何処か遠い目をした若者は、ポツリと呟くように告げる。

 その表情は、己の無力さを嘆いているようにも見えた。


「……若君」

 主の無防備な表情に、美丈夫達は思わず呼びかける。

「あぁ、悪い。蒼瑛」

 見せてはならぬ醜態を見せてしまったと、一瞬唇を噛み締めた熾闇は、誤魔化すように蒼瑛を促す。

「さあ、若君が舞と楽を所望されておられる。次は何を見せてくれるのかな?」

 くすりと小さく笑った蒼瑛が、場を変えるように明るい声で問いかける。

「桔梗太夫、さぁ」

 女将も場を盛り上げようと、舞姫に声をかけたが、艶やかな美貌の太夫は硬い表情のまま首を横に振った。

「舞えませぬ。妾よりも上手な方の前では、舞えませぬ。花街随一の技を誇る桔梗は、常に一番でなければなりませぬ。妾よりも上手な方がいらっしゃるなら、その方よりも上の技を磨くまでは、ご披露できませぬ」

 きっぱりとした口調で告げた桔梗太夫は、熾闇に真っ直ぐな視線を向ける。

「若様にお願い申しあげます」

「……あ?」

 まさか、自分に話が戻ってくるとは思わなかった若者は、きょとんとした表情で舞姫を見た。

「どうぞ、妾に舞をお教え下さいませ」

 膝前に両手をつき、髪飾りをしゃらしゃらと鳴らしながら頭を下げる桔梗太夫に、熾闇は目を瞠った。


 先程は酔った勢いで大言を吐き、調子に乗って舞差したが、人に教えることができるほどの技量を持ち合わせていないことは、彼自身が良く知っている。それ以前に、人にものを教える器でないと、哀しいことに従妹と自分を見比べて、しっかりと理解していた。

 一方、武将達も意外な展開に手にしていた盃をぽとりと取り落とすほど、非常に驚いていた。

 太夫の号は伊達ではない。

 最高級と認められて初めて貰うことができるものだけに、己に対する矜持は生半可なものではない。

 絶対的な自信を自分に持つ者が、こうも潔く人に頭を下げることなど、普通は有り得ない。

 それができるのは、相手の技量に己が到底及ばないと認め、だが、どんな思いをしても追いつきたいと誓ったときのみだ。


 艶麗な美女に縋られては、普通の男であればやに下がり、一も二もなく頷くところだろうが、この若者は情緒面においては些か過ぎるほどに不備がある。

「断る」

 部下達の予想通り、きっぱりとした口調で速攻の返答だった。

「俺は、人に教える性格でもなく、技量もない。それに、長期に渡って都を空ける身だ。戻れるとも限らぬ身で人と約束はできぬ」

 熾闇らしい、率直で誠実な答え。

「若様のお時間があるときでかまいませぬ。何時まででもお待ち申し上げます」

「約束できぬ事は言えぬ」

「諾と仰っていただけるまで、ここからお返し致しませぬ、と、申し上げても?」

「それは、無理だな。俺を止めることができるのは、俺の他には白虎神と王と、翡翠だけだ。力尽くや情では俺を止められぬぞ。俺を動かせるのは、理だけだ。太夫に理はない」

 必死の面持ちで告げる桔梗太夫に対し、熾闇は表情ひとつ変えない。

 そこにいたのは、第三王子熾闇ではなく、王太子府軍総大将熾闇であった。

 端整な顔立ちに鋭利な雰囲気を漂わせる熾闇は、若年とは言いながらも、思わず息を飲み込むほどの艶があった。

「それでも、お待ちいたします!」

 きっぱりと告げた太夫の耳に、若者の溜息が聞こえた。

 承諾して貰えるのだと思い、喜び勇んで顔を上げると、そこには何の感情も浮かべていない静かな顔があった。

「嵐泰、蒼瑛、すまぬが、先に戻る」

 すっと立ち上がり、配下の将軍に詫びを入れると、剣を片手に出口へと向かう。

「お待ちを! 若様!」

 縋り付く声に、熾闇は嫌そうに振り返った。

「蒼瑛!」

「はっ」

「ここは夢を売る場所だと言ったな?」

 闇色の瞳には、あからさまに不快の色が滲んでいる。

「はい」

「望まぬ夢も押し売りするのか?」

 熾闇にしては珍しい当てこすりだった。

 それを承知で蒼瑛は、小さく肩をすくめてみせる。

「無理を言って悪かったが、俺には向かぬ場所のようだ」

 二度と来ないと、言外に匂わせて、しなやかな身のこなしで去っていく。

「それでは、私も失礼しましょう。蒼瑛殿、後はよろしく」

 にっこりと笑った成明が、熾闇の後を追い駆けていく。


 成明に任せれば、主は大丈夫だろうと踏んだ嵐泰と莱公丙は、犀蒼瑛に視線を向ける。

 まさか、こんな展開になるとは思わなかったが、事態を収拾しなければ、主と舞姫にどんな噂が立つか、考えるだけでも恐ろしい。

 すべては、ここへ連れてきた蒼瑛が悪いと、黙したまま視線で物言う嵐泰が、親友を睨め付ける。

「はいはい、わかりましたよ」

 それなりには責任らしきものを感じている蒼瑛は、仕方なさそうに事態の収拾を図るべく、重い腰を上げたのであった。

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