50
颯州の南西部は、南東部の市と並んで賑やかな街である。
お忍びと称して翡翠と遊びに行く東は、熾闇にとって見慣れた場所であるが、西は生まれて初めて足を踏み入れる場所であった。
「はあぁ……何だか、王宮よりも派手な建物だな」
格子窓の向こうに並ぶ、煌びやかな衣装を身に纏う女達と、女達に声を掛ける陽気な男達。
この手の街にありがちな荒んだ空気は一切ない。
それこそ風のような気質と詠われる颱の民の特長だろう。
しげしげと物珍しそうに辺りを見回す熾闇は、実はそこがどういう街なのか、よくわかっていなかった。
「それはまぁ、夢を売る街ですから、派手にもなるでしょうな。架空の夢に溺れさえしなければ、面白いところですよ、ここは」
「何で夢に溺れるんだ? 現実でないものに溺れたところで、どうにもならないだろうに」
飄々とした表情で語る男に、熾闇は不思議そうに問う。
まだ子供であるがゆえに無邪気なことを言うのだと、何も知らぬ者ならそう評すだろう。
だが、熾闇は戦場で悪夢を見続ける将軍であることを彼等は知っている。
世間を知らぬ子供だから言う言葉なのではなく、夢を見ることすらできない厳しい現実に晒され、逃げることもできない立場にいる彼だから、夢に溺れる愚かさを承知しての言葉だと彼等は知っている。
「人は弱い生き物なのですよ。わかっていても、心地良い夢に溺れたいのです」
成明が苦笑を浮かべ、そう諭す。
「ふん。溺れて、大切なものを守れず後悔することがわかっていても、そうしたいと願う者の気持ちなど、俺にはわからんがな。それで、この派手な建物はどんな夢を売っているんだ?」
あっさりとした口調で告げた若者の言葉に、一同はがっくりと肩を落としたのであった。
蒼瑛が案内した店は、花街の中でも一、二を争う上質な店であった。
客が店を選ぶのではなく、店が客を選ぶことが許される格付けの店。
そこにいる女達は、春をひさぐのではなく、芸を売る者達だ。
見目はもちろん、立ち振る舞いや教養、その芸も一流に相応しく、極上の者達ばかりだ。
それゆえに花代も、他の店とは桁違いである。
そんな特殊な店であるにもかかわらず、否、そういう店であるからこそ、蒼瑛は女将の歓待を受けた。
「まぁ、お久しゅうございますこと、犀様。ずいぶんお見限りでございましたわねぇ」
「はははは……相変わらずだな、女将。北に美しい華が咲いていると聞いて、蜜を味わいに行ってたんだよ」
「浮気な蜜蜂さんですこと。さぞかし散った華も多いことでしょうね」
くすくすと笑いながら答えた女将は、心得たように客を上げる。
そうして案内役の小物を呼ぼうとして熾闇に目を止めた。
「おやまあ。いらせられませ。蒼瑛様、こちらの良いお顔立ちをなさった若君は?」
「あぁ。白の若君だ。街をご覧になりたいとのことでお連れした」
口許で人差し指を立てて見せた蒼瑛は、にっこりと笑う。
その合図で女将は笑みを深くする。
「この店の女将にございます。どうぞお遊び下さいませ」
「世話になる」
何だかよくわからない会話のあとで、少しばかり戸惑いながらも熾闇は女将に声を掛ける。
「では、奥へ。御酒を用意いたしましょう」
「あぁ、それから、今評判の舞姫を。都一の華やぎを見せてもらわなければね」
にっこりとそれは見事な笑みを浮かべた蒼瑛が、さり気なく注文をかける。
「勿論でございますとも。すぐに仕度をさせますわ」
てきぱきと店の者達に指示を与えた女将は、大切な客人達を最上級の部屋へと案内した。
花街の楼閣は、格式が高いほど周囲の見晴らしがよい場所にある。
熾闇が案内された部屋は、その最上階であり、調度の揃えも極上のものばかりであった。
「すごいな。翡翠や偲芳殿の部屋もここまではないぞ……おい。何で俺が上座なんだ? 下座に回らないとおかしいだろう?」
部屋の中をぐるりと見回して感心したように肩をすくめていた熾闇は、ふとある事に気付き、不思議そうに問いかける。
「しかし、上将」
「それも止め。どう見ても、俺が一番格下の若造だろうが。あからさまに不審な真似はしない方が目立たないと思うぞ」
ごく普通の表情でそう告げる熾闇に、武将達は一瞬絶句する。
「格下だの、若造だのと……妙に世慣れたことを仰いますね、若君。さては、もうお一方とお忍びをされたことがございますね?」
他の王子達は、王宮の外に出たことはあっても、街に足を伸ばしたことがないのは間違いないが、この若者はそうではないらしいと悟った蒼瑛は、苦笑を浮かべて問いかける。
他者と比べ、規格外な性格が、他の者よりも数段も衝撃からの立ち直りを早くしているらしい。
「あぁ。翡翠と、私学の学生を装って、東によく行くぞ。国の様子を知るには、市場へ行くのが一番良いと翡翠が教えてくれたからな。多少なりと問題を抱えているものの、颱は良い民に恵まれているとわかった。まぁ、そこで、多少の身分の上下があろうとも、年長者を敬い、年下の者が下座に回るのだと教わったが、違うのか?」
実に正直な性格の若者は、素直にお忍びを認めて、堂々と告げる。
「いえ、間違いではありませんが……」
成明と公丙が困ったように顔を見合わせる。
言っていることは非常に正しい。
彼の身分からして、その様な言葉が出ること自体、ある意味非常識とも言えた。
生まれながら至高の座に最も近い者が、王以外の者の下座に回ることは有り得ない。
通常、その様なことに気付かず、常に上座にいるのが当たり前だと思い込んでいることの方が普通なのだ。
本来、傅かれる立場の者が、目下の者の位置を考える方がおかしい。
「なら、俺が下座だな。ほら、おまえ達、遠慮せずに上座へ回れ」
実に楽しげに熾闇は部下達をけしかける。
「恐れながら上将、それはまかりなりません」
王太子府軍随一の堅物男と噂される嵐泰が、少しばかり諦めたような表情で告げる。
「俺は、今、王子でもおまえ達の上司でも何でもないぞ。ただの一兵卒だろうが」
「いえ。そういうわけではなく……蒼瑛はこの店の女将に、上将をとある貴族の若君だと告げております。そして、我々はそのお供でこちらに参ったと……」
親友と女将のやり取りをしっかりと理解している嵐泰は、面白がっている親友に溜息をつきながら、上司が理解しやすいようにと説明をする。
「つまり、上将がこの場で一番身分が上だと、そう女将に説明したわけです、この男は。そして、こういう場所では、初めて遊ぶ者は、身分がどうであれ、上座を譲られることになっております。ですから、上座は上将の位置でございます」
「……つまり、例え、俺が身分が最下位だとしても、初めて来たわけだから、特別に上座を皆に譲られるというわけか?」
「左様にございます」
「……わかった」
面白くなさそうに頷いた熾闇は、仕方なく上座へと向かう。
どうやら、下座に座ってみたかったようである。
「上座は、仕方ないから我慢するが、上将と呼ぶのは禁止。おまえ達が王太子府軍の者だと広く知られているからな。俺の身分がすぐにバレてしまう。名で呼ぶか、『若君』でいい。不本意だが」
「……では、若君と。何かございましたら、すべて蒼瑛にお尋ね下さい。この者が一番詳しゅうございますから」
若君と呼ばれるのは、性に合わないと思い込んでいる王子は、実に不本意そうに告げ、それに頷き返した嵐泰は、すべての責任を親友へと押し付けた。
「おい! 嵐泰──」
「失礼いたします」
蒼瑛が文句をつけようと口を開きかけたとき、板戸の外から声が掛かる。
「御酒と肴をお持ちいたしました」
「あぁ。入ってくれ」
親友を無視した男がすまして答え、端女を招き入れる。
反駁する機会を失った美丈夫は、あからさまな溜息をついて、円座に座り込む。
それぞれが円座に座り、その前に懸盤が並ぶ。
御酒を注ぐ蕾子が彼等の隣に控えると、囃子方と呼ばれる鳴り物師が、それぞれの楽器を手に部屋の端に座する。
鳴り物師とは言っても、彼女達もまた一流の華姫である。
この妓楼は、華を売るのではなく芸を売る店なのだ。
華姫達はどれも皆、一流の技を誇る芸妓であり、彼女達の教養深さは一国の姫君並だと言われている。
それゆえ、彼女達の矜持は非常に高い。
己の弛まぬ鍛錬で手に入れた技を華を売るだけの天神と一緒にされては堪らないと、彼女達は自分の目で確かめた相手だけにしか、その手を委ねないのだ。
「皆様方、当店の舞姫、桔梗太夫にございます。まずはごゆるりとご覧下さいませ」
艶やかな衣装を纏った芸妓を伴った女将が、彼等の正面に座り、最高位の太夫である舞姫を紹介すると脇へと下がる。
その色鮮やかな衣装に引けを取らない美貌の太夫は、婉然と微笑んだあと、手にした舞扇で顔を隠す。
それが合図であった。
しゃんっと鈴が鳴り響き、月琴や二胡、鞨鼓が音を合わせる。
華やかな曲と共に、舞姫は舞を始めた。