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白虎の宝玉  作者: 西都涼
芽吹の章
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48

 穏やかな風が草原を吹き渡る。

 青草を倒し、煽りながら、空に向かい駆け抜ける。


 草原に立つ娘の漆黒の髪が艶やかに光を弾いてうねる。

 鮮やかに虹色の光を放ち、風になびく。

 眼下に広がる草原の緑をそのまま映し込んだような瞳が、まっすぐに前を見つめる。

 静かな眼差しは、一体何を映し出しているのかと、誰もが彼女の姿を目で追い駆ける。

 颱国の軍師は、風に身を任せ、そうして柔らかな笑みを浮かべた。


「風の言葉に耳を傾けておいでですか? 軍師殿」

 風の中にあって、毛一筋ほども乱さずに流れるままに任せていた翡翠に、落ち着いた、だが明るく爽やかな声がかけられた。

「笙成明殿」

「御無礼、お許しを」

 にこっと笑った男は、おどけて一礼してみせる。

 武官としては名門である笙家の嫡子である成明は、跡継ぎの座を庶子である兄に譲り、王太子府に身を寄せている。

 正室である母と側室達との確執を目の当たりにして育った彼は、家に帰りたくないために出兵率が高い王太子府軍に勤めているのだと、以前、蒼瑛が翡翠に語ったことがあった。

 それを裏付けるものはないが、人当たりのよい笑顔を浮かべる成明は、女官の受けが非常によい。

「いえ。お気になさらず……風の言葉とは、成明殿は詩人ですね」

 くすっと笑った翡翠は、目を細め、成明を見つめる。

「詩人などではなく、ただの疑問です。白虎殿が愛し子と呼ばれる方ですから、風の中に彼の神の言伝があって、それをお聞きになられておられるのかと思いました」

「その様なことはありませんよ。ただ、天幕にいるよりは風に吹かれている方が好きなので、こうしてあたっていただけです」

「……そうでしたか」

 納得したように頷いた成明は、翡翠から視線をずらして首を傾げる。

「今回のこと、お気を悪くなされておられなければよいと思いまして……その」

 少しばかり言葉に詰まりながら、青年と呼べる年頃の男は娘の顔色を窺う。

「何をです?」

「我らの勝手な振る舞いについて、です。翡翠殿のお怒りは尤もと承知しております。ですが、我らにも赦せぬ事がございました。翡翠殿は軍師として、武将として、我らにはなくてはならない方。その大切な方にあの様な無礼極まる態度をなす下司──あ、いや。失礼──巍王を翡翠殿自ら手を下す価値はないと……」

「ありがたいことです」

 成明の言葉に、翡翠は素直に礼を言う。

 国中、大陸中の者が彼女を『綜家の姫君』として扱う中、王太子府軍の武将達だけが、彼女をただの綜翡翠として扱ってくれる。彼女自身を見つめてくれることに、素直に感謝する。

「いえ。出過ぎた真似をしているとは、皆、承知しているのですが……軍師殿には誰よりも幸せになって欲しいと、そう願っております。もちろん、幸せというものは、人それぞれ感じ方が違うということは承知しておりますが、我らには、軍師殿が颱を離れることが幸せだと思えず……女性としての幸せ云々というより、綜翡翠という名を持つひとりの人間としての幸せになっていただきたいのです」

「ひとりの人間として、ですか……?」

 思いもかけない言葉を聞いて、虚を突かれた翡翠は言葉を返す。

 幸せになれと皆が言うその言葉の意味を、初めて理解したような気がした。

 軍師としての幸せは、護るべき者を守り抜くことができることだ。

 王族の血を引く王子の従者は、王子の傍にいることがその幸せだと感じている。

 綜家の末姫としては、家族が幸せであることだろう。

 翡翠自身の幸せを問われると、途端に言葉に詰まり、答えが出なくなる。

 聡明すぎるがゆえに、常に周囲に目を向け、己を省みなかった彼女は、『自分』が何を欲しているのか考えたこともなかったのだ。

「わたくしは、もしかしなくとも他者に依存しすぎていたのでしょうか……」

 目を瞠り、ぽつりと呟いた翡翠の言葉に、成明は慌てる。

「翡翠殿、その様な意味で申し上げたのではなくっ……」

「わかっております、成明殿。わたくしが本当に子供だと言うことが、よくわかりました。幸せになれと言われるのは、純粋なお心遣いであると同時に、幸せには見えないということなのですね」

 そう冷静に告げる翡翠の前で、成明はしまったとばかりに目を覆い、天を仰いでいる。

「申し訳ございません、翡翠殿。私の言葉が足りずに」

「いいえ。成明殿のお気遣い、充分に届きました。そうではなく、その言葉の反面として、幸せには見えないこともあるのだということに気付いただけです。わたくしが、幸せになって欲しいと願った方も表面上はどうであれ、そうは見えなかったものですから」

 姉も従兄達も、その華やかな立場とは裏腹に、誰にも見せぬ内面は深い傷を負っていた。

 だからこそ、その傷が癒えることを願ったのだ。

 彼等とは違い傷を負ってなどいない翡翠だが、他の者から見れば空虚すぎる存在なのだと、初めて思い当たった。

 誠実な性格ゆえに困まり果て、戸惑っている成明に、翡翠は笑みを浮かべる。

「幸せになるということは、存外難しいことですね。この件が片付き次第、ゆっくり考えてみたいと思います。ですから、時間を作るためにも、目の前にある障害を全力で叩き潰してしまいましょう」

「軍師殿の仰せの通りに」

 話題が変わったことにほっとした成明は大きく頷き、そうしてようやく敵軍が到着したことに気が付いた。

 なぜ、翡翠がここに立っていたのかということにも、遅まきながら悟る。

 翡翠は待っていたのだ。

 この場所に立てば、かなり遠くまで周囲を見渡すことができる。

 巍軍がどのような陣形で、この場所へ到着するのか。

 そうして、その規模と、軍備を直接目で確かめようとしていたのだと。

 やはりただの深窓の令嬢とは比べるまでもなく違いすぎる存在なのだと、改めて思った武将は、同僚達に招集をかけるとだけ彼女に告げ、その場を足早に立ち去った。


 巍軍来襲の報を受け、俄に颱軍が活気づく。

 私怨では動かぬはずの彼等だが、今、義憤にも似た想いを抱え、己が役目を果たすべく武器の手入れに余念がない。

「さて、まずはお手並み拝見と参りますか」

 莱公丙が、半月形の大刀を手に取り、にやりと笑う。

「青牙殿。遠慮なさらず、遊んで差し上げるとよろしいでしょう」

 武将の中では最年長の利南黄が、最年少である第五王子に兵の動かし方を要点をまとめて話す。

「生かさず殺さず、獲物を捕らえた猫のように……少しずつ力を削ぎ落としていく作戦ですか」

 怖い怖いと怯えた振りをして戯ける蒼瑛に嵐泰と熾闇が呆れたような視線を向ける。

 さしずめ、その作戦を言い出したのはおまえだろうと内心で突っ込んでいるような表情だ。

「巍は、目先に捕らわれやすい。我らが後方へ退却すれば、組み易しと追ってくるでしょうな」

 これまでの戦でも同じ戦法を何度も使ったにもかかわらず、巍はそれらを学習することなく自滅している。

 今回も途中まで同じ戦法を取ることを提案した笙成明が、青牙を落ち着かせるためにそう話す。

「遊軍を指揮する蒼瑛殿が敵陣後方に回り込み、退路を断つ。右翼の南黄殿と左翼の公丙殿が道を開け、再び青牙殿の先鋒が前に出る。今回、前衛、本陣、後衛は高みの見物です」

「成明殿はわたしと一緒に本陣に立たれよ。上将と軍師殿をお守り申す」

 嵐泰が、短く告げる。

「おぬし達に任せる。それこそ、おとなしく見物しているさ。翡翠、おまえもだぞ」

「御意」

 部下を信頼する総大将は、鷹揚に頷き、そうして傍らに立つ片腕にものんびりと言う。

 一度懐に入れた者の行動には全面的に信頼を置く彼ならではの大らかさに、任された武将達は柔らかな笑みを浮かべる。


 一軍全体も、活気づいているが緊張した様子はまったく見られない。

 相手を侮っているわけではなく、自分たちが万全を期していることを承知しているが為の余裕である。

 気力が充実しているからこそ、負ける気がしないというのが、王太子府軍の総意だろう。

「おや。軍師殿の御髪は、また伸びましたね」

 遊軍を率いることになった蒼瑛は、大任の緊張感の欠片も感じさせないのんびりとした声で、お気に入りの娘に声をかける。

「えぇ。来年の髪結いの儀式まで切るなと母と姉に随分前から言われましたので、揃える以外に髪に刃を入れていないものですから」

 三年前、腰近くまであった翡翠の髪は、現在膝裏近くまでの長さがある。

 成人した女性の大半は複雑に髪を結い上げるため、相当量の髪の長さが必要となる。

 それゆえ、邪魔だからと言って切るなと、母と姉に言われては、翡翠もその言葉を守るしかない。

 成人の儀が済めば、短く切ることも許されるのだから。

 とは言っても、長い髪は首筋を刃物から守る役目をするため、肩より短くはできないのだ。

「裳儀では虚を突かれましたので、髪結いでは是非、お役目を戴きたいものです」

「さて。わたくしの判断ではご返事できかねます。父か母へ仰って下さいませ」

 懲りずに毎回のように告げる蒼瑛に、翡翠も慣れた様子で応じる。

 お互い見事なまでに麗しい笑顔付きで交わされる会話の空々しさに、すでに慣れてしまった一同は苦笑するだけに留める。

 我ながらいい性格になったものだと、何人の者が思ったことだろう。

「さて、皆様。我が君のご命令通り、今回は高みの見物をさせていただきます。どうぞ、御武運を」

 にこやかに笑って告げた翡翠の言葉を受けた武将達は、熾闇に一礼して天幕を出て行く。

「青牙。おまえの手腕、見せてもらうぞ」

 その背中に声をかけた熾闇は、面白そうに笑う。

「……は。兄上のご期待に添えるよう、全力を尽くします」

 思いがけない言葉に、緊張した面持ちで答えた青牙は、勢い良く身を翻して駆け出す。

「緊張を解かねばならないのに、兄君が緊張させてどうなさるおつもりですか? 我が君」

 くすっと小さく笑った翡翠が、熾闇を窘める。

「このくらいで緊張してどうするんだ? 敵は大した数ではないぞ。あのジジイの首級を上げるためにも必ず勝たねばならぬ戦だ。そのくらい、あいつもわかっているだろう」

「左様でございますな」

 青牙の緊張が緩まぬようにわざと声をかけたのだと知っている翡翠は、揶揄するように追従するとくすくすと声を上げて笑う。

「では、我らも参りますか。成明殿、嵐泰殿、お願いいたします」

 柔らかな笑みで告げた少女は、采配を手に、小姓から外套を取り上げるとゆったりとした足取りで、天幕から戦場へと向かったのであった。

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