46
戦場での使者は、それこそ決死の覚悟を持って敵陣へ単騎赴く。
軍装をすべて解き、寸鉄ひとつ帯びず、文官の装いで大将の文を懐に、名だたる武将の前でその文を読み上げなければならない。
その勇気と度量に敬意を表し、迎え入れた陣は使者を丁重にもてなす。
それが戦場における暗黙の了解である──建前上は。
小太刀すら帯びぬ使者は、その文の内容次第ではその場で斬り捨てられてしまう可能性すら少なくはない。
それゆえ、使者に選ばれた者は、二度と祖国の地は踏めぬ覚悟で敵陣へ行かねばならないのだ。
己の失態が祖国への評価となる。
内容も知らぬ文を持たされた使者は、まず己の中の恐怖心と戦わなければならないのだ。
もちろん、その恐怖心ゆえに使者となったものの敵陣を前に逃亡してしまった者も数多くいる。
だからこそ、その恐怖に打ち勝ち、敵陣深く単騎で乗り込んだ使者にはそれ相応の敬意が表されるのだ。
四神国の誉れを一番とする颱国は、どのような場合でも使者を斬り捨てることはしない。
巍からの使者は、実に丁重なもてなしを受け、本陣へと案内された。
本陣の位置、規模を知られるわけにはいかぬ為、使者は天幕へ案内される途中、目隠しをされる。
それでも、耳で、肌で、残された五感のすべてで使者はあらゆる情報を得ようと、神経を張り巡らせている。
使者の証である白い旗を掲げていた男は、案内役の小姓の手により目隠しを外され、武将達の前に導かれた。
中央の床几に腰掛けた若者、その右斜め前の床几に座る黒髪の娘が、まず使者の目を奪った。
そのどちらも驚くほど整った顔立ちをしている。
そして何よりも澄んだ真っ直ぐな瞳をしており、覇気に満ちあふれ、その場に膝をつきたくなるほどの畏敬の念を抱かせる存在感の持ち主であった。
その左右から入口へと並んで座る武将達も非常に若く、だがその誰もが独特の気配を放っている。
歴戦の武将と、確かに感じさせる重圧感が漂っていた。
静かな、静かすぎるほどの沈黙で使者を迎え入れた彼等は、驚くことに皆武装を解いていた。
巍の使者が名乗ると、柔らかな声が床几を勧めた。
まさか、床几を勧められるとは思わなかった使者は、呆気に取られてその声の主を無礼だとは知りつつも真っ直ぐに見つめてしまった。
「王太子府軍副大将兼軍師、綜翡翠です。使者殿を歓迎いたします。どうぞ、お気を楽に」
女性にしてはやや低めの、だがしっとりとした声音で柔らかく話しかけてくる娘が、とうてい成人前の少女とは思えず、使者はぎこちなく目礼する。
巍で噂されているような王族の血脈であることを嵩に剣を握り、軍を操ろうとするじゃじゃ馬姫には思えず、困惑を隠しきれない表情で、言われるままに床几に腰掛けた。
その間、使者から視線を逸らさず、落ち着いた様子で彼の動きを見つめる彼女は、老練な武将そのものの穏やかで理知的な雰囲気を漂わせている。
「軍師殿にお尋ね申す。何故、皆様方は戦場において軍装を解かれておられる? 巍を愚弄なさるおつもりか」
「使者殿に敬意を表して。寸鉄帯びず、単騎で敵陣へと赴かれた使者殿に対し、何故我らが鎧を纏い、剣を手にせねばなりませぬのか。この陣内で、使者殿に危害を加える者は何人たりともおりませぬ。それゆえ、そのことをこうして態度に示したまで」
にこやかに告げる軍師の言葉と、悠然とした将達の態度で、例え使者が暗器を隠し持っていたとしても、己が身ひとつ守ることなど実に容易いことだという自信が感じ取られた。
「取るに足りぬ身に対し、ありがたき仰せ、痛み入り申す。先程の言葉、平にご容赦を。そして、我が王よりの申し入れ、寛大なお心を持ってお聞き届け下さるよう、お願い申しあげる」
床几から降り、地に膝をついた使者は、伏して上段に座る若者達に奏上する。
「手を上げられよ、使者殿。王太子府軍大将、熾闇である。そなたが王の言葉、申してみよ。返答はその後で、だ」
尊大で傲慢な態度と取られかねない仕種も、澄んだ瞳と柔らかい笑みで品のよい鷹揚な態度に代わってしまう。
日頃、上司のやんちゃぶりをよく知っている武将達は、僅かに頬を歪めたものの、沈黙は守った。
「は。では、失礼して……」
立ち上がった使者は、王から預かった書を広げ、緊張した面持ちでその内容を読み始めた。
巍王からの書状は、実に長いものだった。
用件はただひとつ、翡翠が巍王に嫁ぐことだけだが、その正当性を訴える内容が実に馬鹿馬鹿しいと思えるものだ。
王家の血を引く娘が父母の命に背き、女だてらに剣を取り、戦場を駆るなどと言うじゃじゃ馬ぶりとその浅はかさを非難し、良家の娘は花を愛で、楽に親しみ、父と夫たる者の言うことに素直に従い、そうして子を産めばよいと語り、その夫たる者の資格を問い、巍王である己が相応しいと、そう記してあった。
颱の者が知る綜翡翠とはまったく異なる人物像に、笑いを堪えるのに必死である者、翡翠が怒り出すのではないかとはらはらする者、どうしてそこまで曲解できるのかと呆れ果てる者と、反応は様々であったが、無表情を装うと必死になっていた点においては、皆同じであった。
使者が書状を読み終えたとき、一同は妙に疲れた顔をしていた。
「さて、使者殿。そなたが主の言葉、確かに受けた。だが、返答するに困ったことがある」
無表情を装う部下達とは対照的に、実に表情豊かに困惑した様子を浮かべた熾闇は、使者に言葉をかけた。
「……と、申されますと……?」
「そなたが言う、綜翡翠と申す者、一体誰のことか、わかりかねるのだ」
これが演技なら、大した役者だといわれることだろうが、実のところ、彼は素のままの反応だった。
「何を仰られますのやら。綜家の姫君は、殿下のお側におられる御方でございましょう」
「確かに、な。これが、俺の綜翡翠だ。だが、使者殿が申す綜翡翠という者は、この者ではない別人のようだ。翡翠が従軍いたすは、父君である大臣の命あってこそ。幼き頃、翡翠は俺の従者であった。主が戦場へ赴くとき、従わぬ者は従者ではないと、そう大臣は言ったそうだ。母君は、星が語るまま、遠き道を目指すようにと仰られた。つまり、翡翠は父母の命に従い、従軍しており、決して己から望んでここに立っておるわけではないと言うことがひとつ。そして、我が従妹は、世に言うじゃじゃ馬ではない。己の使命を果たそうとする武人だ」
どうやら総大将である第三王子は、従妹に対する巍王の評価にいたく腹を立てているらしい。
激昂する相手がこの場にいないため、感情を抑えているらしいが、大切な親友を侮り、低く評価した巍王を許し難く思っているのは、誰の目にも明らかであった。
「我が従妹にして親友が、誇り高き武人か、己の感情を優先するじゃじゃ馬か、果たしてそのどちらか、使者殿の目にはおわかりであろう? 違う誰かと勘違いしておるならよし、そうでないと申すなら、我が従妹を侮辱した罪は購って貰わねばならぬぞ」
ひたひたと押し寄せる圧迫感に、使者は冷や汗を拭うこともできない。
「さらに、俺と違って翡翠は、颱どころか四神国に名を轟かせておる趣味人だ。筆に親しみ、楽に秀でる者、並ぶ者無しとまで言われておる。実際、翡翠以上の博識は、翡翠の兄である偲芳殿しかおられぬと思うが」
闇色の瞳を真っ直ぐに見据え、熾闇は言葉を紡ぐ。
「そなたが王は、勘違いをなさっておいでだろう?」
声に出さないその圧力は、使者を追い詰めていく。
巍よりの使者は、言葉を失い、喘ぐのみ。
「……熾闇様」
柔らかな声が不意に使者を救った。
「使者殿に罪はございませぬ。その様に責めてはなりませぬよ」
「したが、翡翠!」
「我が君。お収め下さいませ」
穏やかで優しげな笑顔で窘められた熾闇は、一度肩をすくめて、そのまま黙り込んでしまう。
本当は子供のように拗ねてしまいたかったようだが、目の前に巍の使者がいるため、いつものようにはいかなかったらしい。
「失礼を、使者殿。ですが、先程の書状、わたくしとしても納得しかねます。わたくしは、剣を握り、兵を動かす立場におりますが、本来、戦などなければよいと考えております。好んで戦場へ立ったことなど、ただの一度たりともございませぬ。我が主に従い、国を守ることが、わたくしの役目であると思っておりますゆえ、必要となれば剣を握りましょう。使者殿ともこの様な場所ではなく、王宮にてお会いしたかったと思うておりますよ」
見事な装飾が施された軍配を返し、軍装姿も凛々しい娘は、柔らかな声で静かに告げる。
「巍王陛下には、わたくしは未だ成人を果たさぬ若輩者で、学ぶべきことが多い身ですので、今暫くお返事をする時間をいただきたいと正式に書状をお送りしております。お返事をお断りしたのではなく、お返事をする時間をいただきたいと申し上げておりますのに、兵を挙げるという暴挙、わたくしは納得しかねます。どの方にも、同じお返事をしております。なのに、なぜ陛下のみがこの様な暴挙に出られたのでしょうか」
仔細を聞かされていなかった使者は、翡翠の言葉に顔を赤く染める。
彼女の言葉通りなら──おそらく、それは真実なのだろうが──大変な失態を巍は犯したことになるのだ。
未成年に婚姻を申し込み、保留という回答を得たのなら、それは前向きに検討するという意味にも取れる。
子供に対し、大の大人が喉元に剣を突きつけ、今すぐ頷けと脅すやり方は、愚かしいと言うより他に言葉はない。
「今日はこれでお引き取り下さいませ、使者殿。今、案内させますので」
「……はい。これにて」
使者は俯きながら一礼すると、呼び寄せられた小姓の後に続いて天幕を離れていく。
「人の好い使者殿のようですが、あの方が止めたくらいで諦めるような愚王ではないと思いますがねぇ」
呆れたような口調を装い、冷めた視線を翡翠に向けた犀蒼瑛がそう呟く。
「勿論ですとも。このくらいで諦めてもらっては困ります」
あっさりと同意した翡翠が、にっこりと微笑む。
「さて、皆様。先程の続きをお話しいたしましょう。わたくしという人間が、どのような人間なのか、是非とも巍王陛下に知っていただきとうございますからね」
「わざわざ知って貰わなくてもいいぞ、翡翠。むしろ、知らせなくていい! 俺の親友に対し、非礼極まる態度、許し難い。あんなの、温情かける必要ないからな。あの首、おまえにやると言ったが、俺が斬る。おまえの手を汚す価値もない」
怒りを隠そうともせず、吐き捨てるように言った熾闇は、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「翡翠殿も同じことをお考えのようですよ、兄上。あの者は兄上の手を煩わせる価値もないと、ね。私はそのどちらの意見にも賛成です。兄上と翡翠殿の手を汚す価値もないと、思います。秦に、王の死の真相をお知らせし、巍の王太子殿下に書状をお送りいたしましょう」
王が暗殺された秦では、今でもその王位を巡って身内同士が争っている。
誰もが己の正当性を主張し、疑心暗戯にかられてお互いの言動に耳をそばだてている状況が続いているのだ。
そこへ、真相を知らせる者がいたとしたら、即座にその話に飛びつき、兵を挙げることだろう。
前王の無念を晴らした者こそが、正当な世継ぎ、次代王であると主張して。
秦は、四神国にこそ及ばないが、それでも充分に国力がある国である。
もし秦に攻め込まれたとしたら、これまでのことで圧制を強いられてきた巍は持ちこたえることはできないだろう。
主力を颱へ派遣しており、守りは手薄になっているはずだ。
「共倒れになってくれると、ありがたい話ですよねぇ」
呑気に相槌を打った蒼瑛の一言で、話は決まった。
「目先のことに捕らわれて、手許を留守にした方が悪いんですよ」
にやりと笑い、そう冷たく断言した男は、率先して話をまとめていく。
「……皆、同じ考えのようだな。偶には任せてみるのもいいだろう」
その光景を笑いながら見つめていた大将が、その片腕に柔らかな声で告げる。
その言葉に、綜家の娘は微笑んで頷くしかなかった。