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北との国境付近に広がる大湿地帯は、常に敵の侵入を阻んできた天然の砦でもあった。
颱軍は、この大湿地帯の手前に陣を構え、どのような挑発にも乗らず、悠然と敵が攻めてくるのを待ち、迎え撃つ。
そうして、攻めに転じた彼等は、湿地に脚を取られることもなく、縦横無尽に駆け巡るのだ。
不敗を誇る颱軍の戦史の中でも、この北の大湿地帯における戦略は奇をてらったものが多い。
一方、天然の要塞である大湿地帯が、交通、とりわけ商隊の悪路となるだろうと思われるが、北との交流は盛んで、その公路は悪路とも難所とも伝わってはいない。
交通網が発達している颱の街道を通る分においてはまったく問題ないが、それ以外の場合では、やっかいな場所なのだ。
しかも、この湿地帯は、地下水脈の関係で、季節によって、または年によって、湿地の広がる場所が異なるのだ。
細かい観察があって初めてこの場所を攻略できると言えるだろう。
地の利に悪い他国軍は、ことさら颱軍を煽って湿地帯の外で戦を行おうと試みるのだ。
奇術とも仙術とも言えそうな速さで湿地帯に到着した王太子軍は、天幕を張り、本陣を整え、敵軍の到来を待ち構えていた。
それぞれの大隊で陣形を整え、いつでも出撃できるように準備をする傍ら、将達は本陣の天幕で会議を行っている。
「またしても、巍の王陛下は穴蔵からのご観戦ですか」
斥候からの報告を受け、犀蒼瑛はうんざりしたようにボヤく。
「出てくる必要性など、まったく感じておらんからだろう。か弱き乙女を連れ去るだけなのだから」
不快な様子を隠そうともせず、嵐泰が険しい顔で応じる。
「そのか弱き乙女が雌虎の爪を隠しておられることをご存知ないと?」
からかうような口振りで、蒼瑛は肩をすくめる。
これまでの王太子軍の戦歴を見れば、彼女の実力はわかろうというものだ。
奇をてらっているようにも見えながら、しっかりと基礎を押さえた布陣を行い、そうして絶妙の機を計って兵を投入するやり方は、そこらへんのじゃじゃ馬ができることではないのだ。
兵法をしっかりと学び、そうして戦というものを肌で直接、何度も体験した者でなければ、こうも見事な采配を振るうことができるわけがない。
それを認めず、他の者から譲られた功績だと思い込み、軽んじようとする愚かな王を、王太子軍の将達は冷ややかな眼差しで眺めているだけだ。
前線に一度も立たず、兵の苦しみを知らず、労わぬ者など、王たり得ないと彼等は思っている。
王は、国の柱であると共に、民と歩む者だ。
高みから眺めるだけの者であっては、決して国は栄えない。
それゆえ、彼等は巍王を戴く巍を気の毒な国だと思っていたし、また過ちを犯そうとする王を諫めることもしない者達を赦しがたい怯懦だと唾棄していた。
「……雌虎……わたくしは、そこまで凶暴に思われていたのでしょうか……」
ほうっと切なげに溜息を吐いた翡翠が、何処か哀しげに呟く。
隣で思わず素直に頷いてしまった熾闇は、慌てて首を横に振って誤魔化そうとする。
「蒼瑛! それはあまりな例えだと思うぞ、俺も! 正鵠に的を射た例え……じゃない、あー……いや、もう少し、正確な例えを見つけるべきだと……」
「正鵠……もう少し? 何が仰りたいのでしょうか、我が君?」
にこやかに笑みを刻んだ翡翠は、その笑顔で総大将を凍りつかせると、犀蒼瑛に視線を向ける。
「蒼瑛殿。仰りたいことはわかりますが、なりませんよ?」
「おや。もうバレましたか? 軍師殿は聡くていらっしゃる」
「わたくしを怒らせようとしても、煽てようとしても、なりません。国境を越えることは、決して許されません」
きっぱりとした口調で副大将が告げると、将達はそれぞれ呻き声を上げて頭を抱える。
この、規格外の美丈夫は、巍王を直接討つために巍へ侵攻しようと己の主将達を唆そうとしていたのだとようやく理解できたからだ。
「では、私が単騎で」
「なりません」
「では、嵐泰を差し向けましょう」
「なりません」
「……仕方ありませんね。闇の者に頼みますか。好みではありませんが」
「意趣返しですか? 蒼瑛殿にしては、無粋ですね」
はらはらとする同僚達の視線を余所に、蒼瑛は見事な笑顔で言葉を続ける。
片端から討ち絶たれているというのに、彼の口許には笑みが漂ったままである。
言葉遊びをしているのか、本心なのか、まったく読めない男と、やはり聡すぎるゆえに近寄りがたい娘との会話に息を飲んで見守るしかない。
「痛い所を突かれましたな。まったくもって美しくない、無粋の極みですが……綺麗事では国は治まりませぬよ」
「確かに」
笑みを消した蒼瑛の言葉に、誰もがハッと息を殺す。
彼は戦闘中だろうが、主を見限ればその場で兵をまとめて主を見捨てる男なのだ。
この男の忠を預かれる者はそうそういないゆえに、同僚達はこのやり取りに気を揉む。
「颱は、開闢以来、決して他国へ侵略しないという誓いの下、四神国の名を許されています。天帝様との誓い、何があっても守らねばならぬ『綺麗事』でございますな。巍如きに、その神聖な誓いを破る価値はございますまい。ですが、蒼瑛殿がお考えの通り、みせしめは必要ですね」
にっこりと、蒼瑛とは対照的なまでに見事な笑顔で翡翠は告げる。
「外交ではすげなく追い返され、戦では無様な連敗……巍王は、己が民の不甲斐なさにさぞかし苦い思いをなさっておられることでしょう」
「それは……確かに。世間知らずの我儘者は、思い通りに事が進まないと癇癪起こして、我が身を振り返らずに、聞く耳持たず飛び出して、墓穴を掘り進み、帰らぬ人と……いう筋書きがよくお似合いの御仁のようで」
翡翠の言葉に楽しげな笑みを浮かべた蒼瑛は、つらつらと勝手な筋書きを作り上げ、同僚達に茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
この筋書きに一口乗らないかと言いたげなその表情に、将達もにやりと笑い、頷いて同意を示す。
「まずは、老獪を装った愚王をこちらへ誘き出さねばなりませんな」
難しそうな表情を作り、利南黄がもっともらしく発言する。
「それなら私によい案が。翡翠殿の婚約の儀が整ったと偽の噂を流すのはいかがでしょう? あれほど若年を理由に断った方の突然の婚約なれば、慌てふためきもしましょう」
将軍達の中では最年少の新参者である青牙が、うきうきと楽しげに王族とは思えない丁寧な口調で先達に問いかける。
身分でなく、経験を尊び、例え臣下であろうとも若輩者としての礼節を守る生真面目な青牙の態度に、兄王子によく似ていると、将達だけではなく兵達も彼を好ましく思っているようだ。
「では、お相手は何方になさいますか? 上将では、信憑性はございますが、いささか驚くという点では物足りなく思いますが」
莱公丙が笑いを噛み殺しながら問いかける。
その言葉に、一斉に皆が熾闇に視線を向けたが、その直後、さり気なく視線を逸らして同時に溜息を吐く。
「何だ!? なんで、皆、同じ反応なんだ!?」
それまで蚊帳の外にいた熾闇は、ぎょっとしたように彼等を眺めて問う。
「お赦しを。殿下、綜家の姫君に婚姻を申し込まれた方をご存知でございましょうか?」
笙成明が口調を改め、極秘情報を探る。
「あぁ。何だ、知らなかったのか? まぁ、幾つかは確かに噂になってるから聞き知っていると思うが、あれは驚いたな。北の坤の柳翅殿から申し込みがあったのは」
一瞬、虚を突かれ、きょとんとした熾闇だったが、すぐに大きく頷いてあっさりと秘を明かす。
「坤!?」
「柳翅殿とは……まさか、昇仙なさったという、現王の末子であられる……?」
「そう。その柳翅殿だ。昔っから、翡翠に何かとちょっかいかけたがる御仁だが、飛仙が妻を貰おうとするなど初耳だぞ」
部下達の反応など気にも止めずに、熾闇は参ったかと言いたげに告げる。
「……冗談じゃ……」
「いや。使える! 柳翅殿なら、仙とはいえ地に属するが縛られぬお立場」
「真偽を確かめようとしても、上位飛仙であられる柳翅殿の行方を突き止められるのは、この世において玄武様以外はおられぬし。実際、この噂が広まったところで、面白がるだけの御方であるし、何よりも坤王の嫡子であり、仙というお立場、巍王が意識せざるを得ないでしょうな」
「……皆様」
実に楽しげに企む武将達に、翡翠は頭痛を覚えたのか、軽く眉間に指先をあてて呼びかける。
「仙とは本来、俗世に交わることのない崇高な精神の高みを目指す者のことを呼ぶための号なのです。柳翅殿は坤にとっては森羅万象を司る大切な御方。颱の都合に巻き込んではなりません」
「あいつの都合で、迷惑事に巻き込まれた覚えなら、たくさんあるぞ、俺。少しぐらい、借りを返して貰っても罰は当たらぬと思うが」
かなり年長のはずだが、見た目にはそう年の差を感じさせなくなった飛仙に、散々迷惑をかけられた覚えがあると熾闇が即座に切り返す。
「白虎様にお尋ねになられてはいかがでしょうか。神界と仙界は異なるものですが、密接な関係にあるとお聞きしたことがございます。仙界の理に触れるかどうか、お尋ねして、お許しがいただければ、玄武様を通して柳翅殿にお知らせすればよろしいのでは?」
気遣わしげな表情を浮かべ、嵐泰が慎重に言葉を選ぶ。
どちらにも賛同しない中庸な発言とも取れるが、唯一翡翠側に立っていることはこの場にいる者には明白であった。
「嵐泰! おぬし、心が狭すぎるぞ。一時でも麗しの軍師殿が自分以外の男と噂になることが許せぬ等とは、器が小さいと暴露しているようなものだ。女性はな、懐の深い男が好みなのだぞ」
とてつもなく真面目な表情を作り、蒼瑛が親友をからかう。
「うつけが。話を茶化すな。青牙殿の案、まだ本決まりとなったわけではない。常に幾つかの案を用意して比較検討するのが我々の方針ではないか。一案として、確かに興味深いと思うが、先程軍師殿があげられた問題点も考慮すべきだろう」
どこまでも不真面目な親友に、生真面目な男は模範解答ともいうべき答えを返す。
面白くなさそうな蒼瑛を余所に、嵐泰は上段に立つ熾闇と翡翠に続けて言葉を紡ぐ。
「どのような案があげられようとも、某は上将と軍師殿の策に従いますが、加えてひとつ提案申し上げたい」
「言ってくれ、嵐泰」
どこかほっとしたような表情で、熾闇が大きく頷き、促す。
「巍王が王都を離れたら、巍の王太子へ和平の使者を送るべきかと。先の戦や度重なる颱への使者派遣により巍の国庫は枯れ、疲弊していることでございましょう。ただちに戦を止め、内政に務められるなら、颱より援助を行う用意があると申し入れをいたせば……」
朗々とした響きのよい声がゆったりと言葉を紡いでいく。
思わず引き込まれ、聞き入っていた将達は、その言葉の意味をよくよく考え、何とも言えない表情になった。
「王太子を唆して、政権交代させるか。ふむ……悪くないな」
彼の言葉をじっくり吟味した熾闇は、頬杖を付きながら何度も頷く。
「悪くないが……おまえがそれを言うとは思わなかったな、嵐泰。どちらかというと、蒼瑛が考えつきそうな案だぞ。朱に交わったか、友を呼んだか……いずれにしても、考えようによっては悪辣だぞ」
「そう受け取る方の方が余程悪辣だと申し上げましょう。嵐泰殿はお優しい。わかりました。そのご提案、確かにお預かりいたします」
ちくりと彼を差した翡翠は、全面的に嵐泰の意見を支持する。
「青牙殿の御意見も、確かに承りました。考慮すべき、面白い案だと思います。時期を見るのが微妙に難しいとは思いますが、前向きに考えましょう。他にも何か御意見がございましたら、何なりと仰って下さいませ」
男装の娘がそう告げたときのことだった。
慌てた様子で伝令の任に就いていた小姓が、会議の間へと駆け込んでくる。
「た、大変でございます! 巍より、使者が……」
肩で息をしていた少年は、それ以上は声にならずに大きく喘ぐ。
「……この場合、どう対応すべきなんでしょうかねぇ?」
どこか、呆れたように蒼瑛が周囲を見回し、一同に問いかける。
「会うしかないだろう」
「……だな」
将軍達も肩をすくめて、頷き合う。
「通せ」
仕方なさそうに熾闇が告げ、戦友達を見渡す。
「……絶対に、吹き出すなよ」
この場合、適切ではないような言葉を投げかけた彼に、一同は神妙な表情で頷いたのであった。