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西から風が吹く。
風の神の愛し子が、馬上にて風を受け、くつろいだ表情を浮かべる。
それが嬉しくて、かの神は心地よい風を愛し子達のために送るのだ。
誰よりも恵まれた立場にいながら、たったひとつしか満たされなかった王子と、たったひとつのためにすべてを手放した綜家の姫。
王都を遠く離れた草原でしか、穏やかに過ごせぬ若者達は、己を不幸だとは思わず、神が贈る恩恵に柔らかな表情で微笑む。
「いつもながら、良い風だな、翡翠」
馬を止め、野営の準備を告げた若者は、傍らに立つ片腕に穏やかな笑みで声を掛ける。
「はい、我が君。白虎様の御心が穏やかであられるお陰でございましょう」
「だといいな。短い命で争いを絶やさぬ人間に、よくもまあ、呆れずに見守って下さる神とは実に寛大なものだな。俺なら、呆れ果てて世界を滅ぼしてしまいそうになるぞ」
くしゃりと癖のある髪を掻き混ぜ、第三王子は肩をすくめてぼやく。
「それは……神々の世界にも決まり事がございますゆえ、呆れ果てたところで天帝様の思し召しに背くわけには参らないのでは?」
にこやかな笑顔で応じる娘の言葉は、意外にも物騒である。
「おまえ……その物騒な笑顔、どうにかしろ。穏やかそうな顔をして、おまえが一番苛烈だな」
分かってはいたが、誰もが穏やかと思い込んでいる娘の過激すぎる一面に、熾闇は肩を落とす。
彼女の身分と肩書きから連想されるじゃじゃ馬な印象はまったくの誤解に過ぎず、かといって、穏やかで清艶な姿もまた表面上のことに過ぎないことをよく知っている彼女の従兄は、時折見せる彼女の冷ややかで苛烈な表情を頼もしくもあり、不安にも思う。
「申し訳ございません。なにしろ、これが地ですので」
にこやかな表情を崩さず、翡翠は穏やかに応じる。
「おまえ、実は、物凄く不機嫌だろう?」
自分が引き起こした不手際ではなく、別の要因で翡翠が怒っているのだと察した熾闇は、直球勝負で乳兄弟に問いかける。
「えぇ。実は、物凄く」
にっこりと満面の笑みで答える翡翠に、熾闇は頭を抱えたくなる。
いかにも上機嫌な表情で、不機嫌にならないで欲しいと、複雑怪奇な思考を持つ片腕に心で訴えたところでその思いが届くはずもない。
「もしかして、まだ根に持ってるとか……?」
滅多に怒ることのない彼女の態度から、これまでのことを瞬時に思い返した若者は、ひとつだけ思い当たることに気付いて問いかける。
「勿論ですとも。わたくし、これでも執念深いんですよ」
無邪気すぎるほど無邪気な笑みで答える翡翠が告げることは、三年前のことである。
誇り高い翡翠が、己を権力の道具としかみなさずに執拗に狙う巍王を許し難く思っているのも無理はない。
翡翠を側室、あるいは正妃に迎えたのち、颱国王族を根絶やしにした巍王は、彼女を颱国の女王に据えて共同統治を宣言した後、彼女自身も殺してしまおうと思っていることなど、わかりきっているからだ。
「わかった。あやつの首級、おまえの好きなようにいたせ。それが約束だからな」
「ありがたき幸せ」
もちろん、むざとやられるつもりはない熾闇だが、翡翠の怒りもよくわかるため、敢えてこの件については口を挟まないことにしている。
彼にしては賢明な判断と言えるだろう。
そして、熾闇は年老いた巍王を哀れに思う。
彼は翡翠の逆鱗に触れることばかりしているのだ。触れると言うよりも踏みにじっていると言うことが正しいだろう。
彼女の大切なものを、尽く粗末に考え、扱い、奪い去ろうとしているのだ。
価値観というものは、人それぞれ違うものだ。
だからこそ、相手のそれを尊重しなければならないのだと言うことを、熾闇はよく理解している。
だが、人生においての先輩である巍王は、それを取るに足らないものだと考えている。
王である彼は、何においても優れており、そうして人は彼に平伏し、従うものだと思いこんでいるのだ。
哀れな老王は、誰よりも何よりも優しい翡翠の大切なものを尽く踏みにじり、奪い去ろうとしており、そうして彼女はそれを護るために真っ向から立ち向かうと決めたのだ。
この勝負、必ず翡翠が勝つだろう。
人は、大切なものを護るためなら、どんな不利な状況でも鮮やかに時ならぬ力を発揮して勝利を手にするのだから。
それでなくとも、天才軍師といわれる碧軍師──綜家の末子なのだから。
「この戦、長くなるな」
決して前線に出てこない巍王を相手に、颱軍は常に勝利している。
だが、頭がある限り、手足は何度なく再生されるため、巍との戦はこの三年間、幾度となく起こっている。
「望むところ。足掻くなら、根絶やしにするまで」
季籐と同じ兄妹でありながら、即決で物事を解決してしまう兄とは裏腹に、末子はじわじわと追い詰めていく戦法を取るつもりのようだ。
決して穏やかさを失わず、柔らかな笑みを浮かべているはずの翡翠の瞳に過ぎる冷たい光に、熾闇は正直に思った。
女は怒らせると怖い。
いささか、見当違いの感想だが、的を得ているようだった。