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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
40/201

40

 心地良い西からの風。

 白虎神が彼の民のために紡ぐ安らぎの調べに、しばし翡翠は心を預ける。

 艶やかな黒髪を風が優しくたなびかせる。

 それを双子の少年達は眩しげに見つめていた。

「紅牙様、青牙様、お二方が剣を手に取られたのは、お幾つの時でございますか?」

 内庭に設えられた東屋の椅子に腰掛けた翡翠が、柔らかな口調で問いかける。

「あぁ、それは、確か七歳の時でした。学問は五歳、武術は七歳を始めとすると典礼でなっていたと聞いております」

 少女の問い掛けに、紅牙が穏やかに答える。

「わたくしと熾闇様は三歳の時でした。第二正妃様が亡くなられた直後、必要に応じて」

「指南役の者が、兄上の剣の才能を見出してと聞いていたが?」

 驚いた様に青牙は言うが、翡翠は苦笑し、首を緩やかに横に振る。

「正妃様はご病気でお亡くなりになったと公式に発表されておりますが、実は表向きのことで、真実は隠されております。そうして、その頃より熾闇様は、お命を狙われるようになりました。頼るべき母親を失い、身を護るべき術も持たない幼子が生き残るには、その身分を捨てるか、母親に代わる庇護を得ることでございました」

 第一、第二王子が失われた今、第三王子である主を守るためには、下の王子達の協力が必要だと、彼女はそう判断していた。

 峰雅がいた頃は、彼が影になり日向になり、熾闇を支え、守ってくれた。

 だが、王の長子となってしまった熾闇を護るためには、弟王子達が必要なのだ。

「王はすべての民に対して平等でなくてはなりませぬ。それは、子も同じ。それゆえ、表立って動くことはできず、陛下はわたくしを熾闇様にお付けになりました。正確には、わたくしを従者とすることにより、綜翡翠の生家である右大臣家の庇護を三の君様にお与えになられたのです。第二正妃様とわたくしの母桔梗は、従姉妹同士で仲も良く、また、王と母は同腹の兄妹。誰もが納得できる理由でございました」

 静かに、静かに語る翡翠の言葉に、双子の王子はそれが表向きのことであるということに気付かされる。

「互いが、互いを守ることで、わたくし達は生き残る術を手にすることができました。力無き幼子でも、正しい対処法と運さえあれば生き延びることができると知りました。ですが、送られてくる刺客は日を追うごとに増し、衛士だけでは対応しきれなくなり、王は決断なされました。最も危険で、最も安全な場所へ、三の君様をお送りすることを。わたくし達が、七歳の時でした」

「まさか、それが、父上が三の兄上を戦場へ向かわせた理由ですか?」

 父の真意に気付いた紅牙が、確認を取るように翡翠に問いかける。

 その言葉に、翡翠は静かに頷いた。

「身元が確かで腕が立つ一個師団の護衛を正当に周囲に配置できるとなれば、戦場以外にございますまい。そして、わたくし達を囮とし、確実に刺客を根絶やしにするには、これほど適した場所もございませぬゆえ」

「命を狙われながら、あの成果ですか……まさしく」

「化け物、でございますか?」

 刺客達に言われ続けた言葉を口にした少女は、うっすらと微笑む。

 華々しい戦果を上げながら、その陰でどれだけの激闘を繰り広げたのだろうか。

 他者の独り善がりな正義のために、命を狙われ続けた彼等が言われ続けた謂われのない評価。

「いえ。軍神が愛されておられるとの噂は誠だったのかと、そう思いました」

「神は気紛れなもの。ましてや、天帝様の命により、地上への介入は禁止されておられるとか……見守るほかない方々のご加護を願うは浅ましきこと。何よりも、努力をせず、人に頼むことを己に許してはならぬと、言い聞かせております。化け物という評価が、わたくしには相応しい評価かと」

 そうあっさりと笑った少女は、真顔に戻る。

「少々乱暴な話ではございますが、戦に勝ち、生き残った方の主張が正義として通ります。それゆえ、わたくし達は、この命、むざと散らすわけには参りませんでした。紅牙様、青牙様、わたくしが恐ろしいですか?」

 真っ直ぐに彼等を見据え、挑むように問いかける少女。

 どのような答えを返すにしろ、彼女はそれを淡々と受け入れるだろう。表面上は。

 それがわかっているからこそ、彼等は答える言葉に迷う。

「正直、恐ろしくないとは言えません。ですが、故なきことにより命を狙われ、それに抗おうというのは、生を受け、天命に従い、生きる者の正当な権利だと思います。ですから、翡翠殿や兄上がなされたことは正しいと、僕は思います」

「紅牙の言う通り、三の兄上や翡翠殿は正しい。剣を握る理由はいつだって守るため、攻め込むための剣は一度として握らなかった。だから、怖くない」

 紅牙の言葉に青牙は頷く。


 幼い頃より剣の才能を認められ、戦場へ向かう彼等は、王宮内で一度も実剣を手にしたことはない。

 稽古のための剣は、木で作られたものか、もしくは刃を潰したものだけであった。

 公式の武術大会でも、決して参加せず、主催者側として試合を見守るだけ。

 特に翡翠に関しては、穏やかで物静かな性格をしているために、剣を取るようにはまったく見えない。

 それでも、一度だけ目にした彼等の稽古は、背筋が粟立つほど凄まじいものだった。

 殺気を放つこともなく、それどころか、動き回っているのに気配ひとつ感じさせない。

 砂を喰む音ひとつ、足音ひとつ立てず、剣戟の音だけが響く、不可思議な空間。

 まるで天上の舞姫が舞う剣の舞のように、しなやかで優美なその姿に目が離せず、そうして魂が絡め取られるような想いを感じたことを少年は覚えている。

 手練れになればなる程、殺気だけで相手を威圧することができるようになると、剣の師匠が話していたことがあった。

 無闇に力に頼らず、戦いを避けることこそが、真の強者だと。

 気合いだけで相手を制し、戦意を殺いで戦わずして勝つことが最上であるが、それが叶わぬ時、すべての気配を消し去り、最小の損害で戦いを勝利する。

 そして、その技術を体得した者は、この颱に五本の指には足らぬが、確かにいると。

 そのうちの二人が兄と、この目の前にいる少女であることを、彼等は知っていた。

 真っ直ぐに、宝玉のような瞳を見つめ、青牙は真摯な表情になる。

 その表情に、翡翠は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「では、稽古を始めましょうか」

 大丈夫なのかとも、吹っ切れたのかとも聞かないその優しさが、青牙にはありがたかった。

 自分のことを理解してくれるその安心感に、青牙は笑みを浮かべる。

 その昔、熾闇と翡翠の関係が、とても羨ましかった。

 自分と紅牙よりももっと強い絆で結ばれている気がして、嫉妬に似た感情を抱いたこともある。

 同じ従兄弟なのに、兄の傍ばかりいて、どうして自分たちと一緒にいてくれないのかと、母親に駄々をこねたこともある。

 兄に対するのとは違う、だが同じ憧れの眼差しで、いつも彼女を追っていた。

 振り返っては貰えない相手だと思っていたが、翡翠は自分が思っているよりも自分のことをわかっていてくれるということを知り、青牙は嬉しくなって頷いた。

「手加減無しで、お願いする」

 翡翠が用意していた木刀を受け取り、青牙は東屋の階段を降り、草地に立つ。

 何度も戦場から生還している相手に勝てるとは思わない。

 だが、自分がこれから前に進むために、絶対に必要な通過点なのだと、少年は王太子軍副将を前に剣を構えた。


 いつもは賑やかなはずの中庭は、時が止まったかのように静まり返っている。

 静寂がこれほど恐ろしいものだとは、青牙は今まで知らなかった。

 目の前に立つ同じ年の男装の美少女は、木剣を片手で掲げたまま、彫像のように微動だにしない。

 どこからでの打ち込めそうなのに、まったく隙がない。

 緊張した素振りもない自然体。

 少年が師事していた師匠は、これほどまでにくつろいだ姿を彼の前に晒したりはしなかった。

 取り敢えず打ち込んでみようと、剣を握り直した青牙は勢い良く走り出した。

 だが、少女は相変わらず動かない。

 これなら打ち合えるかもしれないと、剣を上段に構えた瞬間、底知れぬ恐怖感に身を貫かれ、木剣を取り落とした。

「……どうなさいました?」

 目の前の少女は、何事もなかったかのように見事な笑みを浮かべている。

 何があったのか、考えてもわからない。

 しかし、指先まで細かく震えるこの現状は、彼女に対して恐怖心を持ったということなのだろう。

 落とした剣を拾わなければと、頭では考えているというのに、身体が動かない。

 小さく笑った少女が身を屈め、転がっていた剣を拾い上げ、青牙に差し出す。

 差し出された瞬間、青牙は弾かれたようにその場から飛び退いた。

「五の君様?」

 怪訝そうな愛らしい顔。

 その表情に騙されそうになった青牙だが、ようやく悟った。

「青牙様、良い師匠につかれましたな」

 おっとりと微笑んだ翡翠の言葉の意味。

 それは、あのまま打ち合おうとしていたら、青牙は間違いなく一撃で死んでいたということだ。

 頭よりも身体の方が先にそのことを感じ取り、安全な場所へと逃げを打った。

 普段、まったく感じない翡翠の殺気に、身体が恐怖したのだ。

 底冷えするような、痛みすら伴う本物の殺気に、彼は耐えられなかった。

 最初からあれほどの殺気を撒き散らしていれば、ある程度力量のある者は近づこうとは思わないだろう。だが、あの殺気がなければ、年端もいかぬ子供と侮るだろう。

 労せずに相手を屠ることができる。

 あの殺気を感じた瞬間、その場から逃げた自分を、翡翠は良い師匠についたと褒めたのは、相手の力量を読めて、尚かつ生き延びようと咄嗟に動けるように鍛えられたせいなのだとわかった。

「試させていただきました。失礼を」

 あっさりとした口調で謝罪する翡翠に怒る気力も湧かない。

 それどころか、戦場に出たことがない師匠と侮りを隠せずにいた剣の師に感謝したいほどだ。

「では、改めてお相手を」

 剣を差し出す翡翠に、青牙は呼吸を整えて頷いた。



「生きてるか? 青牙」

 芝生の上に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった双子の弟に、兄は呑気な声を掛けた。

「死んでる」

「──だろうな」

 他者に対して丁寧な口調で話す紅牙だが、双子の片割れ相手だと容赦がない。

 それは喜ぶべきか、哀しむべきかと考えながらも、青牙は身動きひとつできない己に歯噛みする。

 現状を言葉で表すなら、疲労困憊の一言に限る。

 師匠となった翡翠は、もう随分前に王太子府へ戻っている。

 疲れた様子ひとつ見せず、軽やかな足取りで歩き去る姿を見送った双子は、先程とは別の意味で化け物だと心底思った。

「しかし、思った以上に歯が立たなかったな」

 どこか呆れたような紅牙の言葉に、青牙は頷くほかない。

「無駄な剣は使わない、か。相手を屠るのは一撃でよい……等とは、師匠は教えてくれなかったな」

 喋る気力すら最早ない青牙の代わりに、紅牙は淡々とした口調で呟く。

「まず僕には無理だ。剣を握るより、民の声を聞く方が性に合っている。青牙はどう思った?」

 来年、帯刀を迎える彼等は、その時に自分たちの将来をある程度自分自身の考えで決めなければならない。

 武人となるか文人となるか、白虎神の前で宣言するのだ。

「……わからない」

 正直に、第五王子は答える。

 幼い頃より戦場に立ち、武勲を上げ、名を馳せる三番目の兄に憧れ、彼の傍で片腕として役に立ちたいと願ってきた。

 だが、現実はそう甘くはない。

 唯一無二の片腕である翡翠を前に、赤子のようにあしらわれてしまった。

 しかも、彼女は本気を出してはいない。

 手を抜いていたわけではないが、全力を出させるほどの実力を青牙が持ち合わせていなかったということだけは、はっきりと彼自身、わかっていた。

 口惜しいというより、情けなかった。

 足元にも及ばない上に、片腕になろうなどとは思い上がりも甚だしいと、自己嫌悪に陥ってしまう。

 このまま逃げ出すわけにもいかないが、この程度の実力で軍を率いては兵士達に申し訳が立たない。

 無能な将は、颱国にはいらないのだ。

「翡翠殿に、剣の師事をお願いする。それから、戦略史や地理の授業を増やして貰う。今までの自分に欠けたものをすべて補ってから、じっくり考える。二の兄上の命の分、それだけの責任をこの国に負わなければならないのだから」

 翡翠に聞かされた昔話、そうして紅牙が色々と調べて教えてくれた話を受け入れた少年は、前に進むことを決めた。

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