39
秘やかに行われる野辺送り。
第一王子の時とは異なり、見送る者はほんの僅かでしかない。
それ以前に、彼の者が彼岸へ渡ったことを知る者は王宮の中でも一握りしかいないのだ。
王墓の中でも真新しい、まだ主が入っていない王の墓へ妃や側室、そして未婚の王子や王女達の遺体が収められる。
家族が再び逢えるようにとの願いを込めて葬るのだ。
それを遠くから見つめる者がいた。
「そこからではなく、もっと近くに行けばどうだ? 翡翠」
樹の陰からひそやかに見送る綜家の末姫に、労りを込めた優しい声がかかる。
「我が君……」
「二の兄上はおまえを好いていた。近くで見送れば、なお喜ぼうに」
「いえ……翡翠はここからで充分でございますれば」
主に短く答えた少女は、遠くなる棺に視線を向ける。
「兄上も母上も同じ呪詛で亡くなられた。藍美殿だったのだな」
「御意」
翡翠と並び立ち、兄を見送る熾闇は、ぽつりと呟く。
「それほどまでに、藍美殿は父上に執着されていたのか」
溜息混じりの言葉には、困惑が多分に含まれている。
いまだ恋を知らぬ子供であれば、致し方ないことかもしれない。
「わからぬな。我が子を殺そうとする母がいるとは」
「いえ。正妃様への呪詛は、確かに彼の御方を死に至らしめるためのものでございましたが、二の君様への呪詛は、まったく違うものでございます。あれは……あれは、莱軌様を王位に就けるための呪いでございました。邪魔な王族を排除し、女性の心を虜にする媚薬のようなもの……それゆえ、二の君様は自らの命を絶つことができなかったのでございます。ですが、藍美様はご存知なかったのです。王族の血を持つ御子は、皆等しく白虎様のご加護を得ております。それは、どんな呪詛よりも強いもの。心弱き幼き頃の莱軌様ならいざ知らず、今の従兄上様では呪が完全に支配できなかったのでしょう」
哀しげな表情のまま、翡翠はそう説明する。
「莱軌様が王位に就けば、陛下の御心が藍美様へ向くと彼の方は思われたのでございましょう。あまりにも哀しいことでございます」
「まったくだな。呪詛で立った王に、国民を幸せにできるとは思えぬ。だが、一と二の兄上が亡くなられたことは、国にとってあまりにも痛い。一の兄上は勿論だが、二の兄上もその心意気は王に相応しい方であった」
肩を落とし、悄然と呟く熾闇に、翡翠は痛ましげな視線を送る。
成人した二人の王子が亡くなった今、嫡子として、また三番目の王子として、熾闇が王の御子達の中で上に立つことになる。
当然のことながら、文官、武官達から次期王──王太子としての地位に立つことを勧められるだろう。本人が望まなくとも。
熾闇はたったひとりですべての重責を負わなければならないのだ。
「王の御子は、何もお二方のみではございませぬ。弟君様方も皆様、素晴らしい資質をお持ちでございましょう。何も案ずることはございません。熾闇様とて、王に相応しくないとは申せませんゆえ」
「言ったな!」
茶目っ気たっぷりの様子で告げる翡翠に、熾闇は怒ったふりをする。
沈みがちな彼のために、彼の乳兄弟がわざと茶化しているとわかったからだ。
「兄上の部屋に遺言が残されてあった。一の兄上の日記、おまえに託すと。受け取ってくれるか?」
ふと、思い出した熾闇は、故人の願いを従妹に告げる。
「わたくしでよろしいのでしたら、慎んでお受け取りいたします」
「すまぬな。だが、中を開けるのは、おまえが成人の儀を迎えて二年が経ってからだということだった。何やら意図があるらしいな」
「成人から二年──二十歳ですね。随分と先のことのようですが、それがご意志ということであれば従いましょう。翡翠に否やはございません」
「あぁ、それと……青牙のこと、頼めるか?」
何も知らなかったとはいえ、実の兄を手にかけてしまった第五王子は、すっかり鬱ぎ込んでしまっている。
双子の兄の言葉も届かぬと、紅牙が苦笑しながら兄に訴えてきたのだ。
「承知いたしました。青牙様とは剣の指南のお約束をしておりましたゆえ」
「頼む」
王の長子としての自覚と共に、弟たちへの気配りを覚えはじめた少年は、誰よりも信頼する乳兄弟に託す。
その想いに応えるように、目礼を返した翡翠は、その場を後にし、後宮へと向かった。
王の執務宮の北側に位置する場所が、いわゆる後宮である。
そこへ、非常に珍しい人物が訪れたのは、半時もしない内であった。
「これは、綜家の姫君──ようこそお出で下さいました。凝華宮には何用でございましょうや?」
「貴妃様、御無沙汰しております。御気色麗しいご様子、お慶び申し上げます。本日は、五の君様とのお約束を果たしたくまかりこしました」
四妃の中でも位の高い貴妃自らので迎えに、官服姿の翡翠は恭しく頭を垂れる。
「息子のために? それは嬉しいこと。誰ぞ、青牙をお呼びなさい。あの子ったら、何を拗ねているのやら、部屋に閉じこもって……。熾闇様のお役に立つため武将になるだの、常日頃申しておるくせに、この様なときに鬱屈して」
苦笑を浮かべて言う貴妃は、詳細まではわからぬにしても母としての勘か、大まかなところは把握しているらしい。
「──貴妃様」
「殿方は、華のように散り急ぎ、生き急ぐことを潔しと思われている節がありますゆえ、女子は樹のように大地に根を張り、風にそよぎ、ゆるりと愉しみ生きねばなりませぬなぁ、翡翠殿」
客人をもてなすために、女官達に茶の用意を促しながら、貴妃はゆっくりと言葉を選ぶ。
「峰雅様も莱軌様もみまかり、熾闇様には大変なご苦労がおありでしょう。何もできず、見守るしかない無力な妾達をお赦し下さいませね、翡翠殿」
「その様なことは……」
「殿方のように、政もできず、剣にて国を護ることもできず、堅固な王宮の中で時を過ごす身の歯痒いこと。せめて熾闇様に母の温もりを差し上げたいと思っても、決してこちらには足を向けては下さらない。本来なら、吾子達と同じ年で初陣も済まさず、後宮で健やかにお育ちあそばされてもおかしくないと言うのに……」
少しばかり哀しげに呟いた貴妃は、翡翠に慈愛に満ちた視線を向ける。
「いえ。四妃様や九嬪様方が、負傷した兵士や死した兵士の家族へお心を砕いて下さいますゆえ、わたくし達は戦場で無事、任務を果たせるというものです。熾闇様におかれては、四妃様方に感謝申し上げていらっしゃるものの、武将ゆえ、こちらに足を運ぶことを躊躇われておいでなのでございます」
淡い笑みを浮かべた翡翠は、主の気持ちを代弁する。
あの照れ屋の少年が、父の妻達に素直に礼を言い、甘えることなど無理というものだ。
それ以前に、有能すぎる武将の常として、刺客に命を狙われ続ける彼等が常春の後宮に嵐を持ち込むことは、やはり憚られた。
懐かしく平穏な子供時代の記憶の眠る後宮に、足を踏み入れるのは躊躇われたのだ。
「母上! 翡翠殿」
書物を手に地味な官服姿の少年が、貴妃の部屋に入るなり、足を止めた。
「お邪魔でしたか。出直して参ります」
「お気になさらず、紅牙様。翡翠が出直しますゆえ」
柔らかい口調で告げた翡翠は、紅牙に一礼すると貴妃に向きなおり、目礼する。
「お待ちなさいな。青牙もそろそろ来る頃でしょうし、紅牙はここに住んでいるのですから、いつでも会えますわ。用事はいつでもかまわないでしょう? 紅牙」
「はい。此度は弟の件で、翡翠殿にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。僕から青牙には説明していますから、今は落ち着いてます」
母の言葉に頷いた紅牙は、翡翠に弟の様子を伝える。
「紅牙、翡翠殿を案内して差し上げて。碧軍師をお待たせするような非礼を許すわけにもいきませぬゆえな」
にっこりと、実に魅力的な笑みを浮かべた貴妃は、双子の息子に命じる。
その晴れやかな笑みに、何故か翡翠は背筋が凍るような感じを受ける。
「貴妃様! わたくしが急に思い立ち、五の君様のご都合も考えずにやってきたのでございますから、その様なことを仰いませぬよう。わたくしがお待ちするのが筋でございますゆえ」
「大夫の君……いえ、副将軍位にあらせられる御方が、無位のものを? それはなりませぬよ、翡翠殿。我が国を護って下さる大切な方を、血筋だけが良いただの子供がお待たせしてしまうような理不尽が許されて良いわけがございません。物事の道理は、きちんと通さねばならぬのです」
にこやかな笑顔のまま断言されてしまった翡翠は、返す言葉を失ってしまう。
王子を『血筋の良いただの子供』扱いするような乱暴な思考の持ち主は、少なくともこの後宮には四人はいる。
つまり、四妃だ。
王家に縁のある身分の高い者ほど、血筋に拘らない傾向があるらしいと、呆気に取られた翡翠は、貴妃と紅牙に促されるまま、青牙の部屋へと向かったのである。
目当ての人物とは簡単に遭遇した。
迷路のように入り組んだ後宮の廊下だが、女官の好む道順があるのだと説明し、進む紅牙の言う通りに、女官に連れられた青牙が彼等の前に姿を現す。
「……翡翠殿」
複雑そうな表情を浮かべた青牙が立ち止まると、翡翠に視線を止めた女官が愛らしい笑みを浮かべて彼女に一礼し、その場を静かに立ち去る。
上品で優雅なその仕種に、翡翠は彼女が有能な女官であることを感じ取り、会釈を返して青牙に視線を向ける。
「あの、翡翠殿」
「以前のお約束を果たしに参りました、五の君様」
おずおずと声をかけようとした青牙は、翡翠の言葉に目を瞠る。
「約束」
「はい。剣のお相手を致しますと」
「覚えていて下さったのですか」
今にも泣き出しそうな表情で呟いた少年は、俯いて肩を震わせる。
「先日は無様な姿をお見せし、申し訳ないことを致した。許されよ、翡翠殿」
嗚咽を堪え、謝罪する王子に、翡翠は笑みを浮かべる。
「お顔をおあげ下さいませ、五の君様。お約束を果たす前に、少々お話を致しませんか? よろしければ、四の君様も」
「僕もご一緒してよろしいのですか?」
「えぇ、勿論でございます。お庭へいかがでございます? 風が心地良いようですよ」
にこやかに告げる少女の言葉に、少年達は対照的な表情で頷く。
「では、どうぞこちらへ」
優しい笑顔に促され、少年達は少女の後に従い、庭へと出た。