38
ざしゅりと肉を断つ音。
生温い液体が頬にかかる。
それから遅れて生臭い香りが漂う。
時間が止まったような気がした──
すべての時間が凍りつき、風すらも止まる……。
異様に響く心音に、青牙は視線を落とした。
手を染める赤。
柄を握る手がぬるりと滑る。
それが何なのか、理解するのに時間が掛かった。
そうして柄の先──剣が埋没しているものが何であるのか。
茫然とする第五王子の肩に大きな手が置かれる。
のろのろとした動作で顔を上げると、間近に慈愛を湛えた兄の顔があった。
大好きな父の顔とよく似た男らしい顔。
その顔が柔らかな笑みを浮かべ、青牙を真っ直ぐに見つめていた。
「──あ……」
「よく、やった……」
わずかにひび割れた声が、そう告げる。
優しげな笑みが少しばかり苦笑に変わる。
「──と、言いたいが、鍛錬が足らぬな。急所を外してるぞ」
そう言えば、初陣はまだだったなと、嘯くように呟いた青年は、弟の肩を掴んでいた手に力を入れる。
ぐっと肩を後ろに押され、青牙はたたらを踏む。
──からん。
乾いた音を立てて、彼の手から剣が落ちる。
芝草が血に染まる。
「……ごふっ」
胸元を鷲掴んだ莱軌が咳き込み、鮮血を吐く。
「従兄上様!?」
緩やかに上体を揺らし、ゆっくりと倒れ込む青年を、両手を広げた少女が血に濡れるのもかまわずに抱き留める。
だが力の抜けた男性の身体を少女が自分ひとりの力で支えることは不可能である。
莱軌の頭を胸に抱き締めた翡翠は、ゆっくりと芝生に膝をついた。
「兄上……何故? 何故、死を選ばれた!?」
駆け寄り、傍らに片膝をついた熾闇が、莱軌の顔を覗き込んで訴える。
「自分で、死ねぬ……から、だ」
ごふりと咳き込み、血を吐いた青年は鮮やかな笑みを浮かべ、答える。
「何故、あと数年、お待ちいただけなかったのでございますか!? さすればわたくしは……」
悲壮な表情で莱軌の手を握り締め、翡翠が問いかける。
「おまえ、が、俺を慕って……くれてい、る、ことは、知っている。だ、が……そ、れは……兄に対す、る……もの……俺が欲しい気持ちではない」
荒かった呼吸が収まり、落ち着いてきたのか、途切れがちだった言葉もゆっくりとした口調ではあるが元に戻る。
「手に入れられねば、心が壊れる。母と同じ道を選ぶ。俺は、それが嫌だった」
視線を彷徨わせながら、柔らかな笑みを浮かべ、莱軌は言葉を綴る。
「母に意志を封じられ、何一つ己の自由にできなかった。兄上が、間際の言霊で母の呪詛を封じてくださった……ようやく自由になり、考えた。俺ができることを。だが、母は己の死と引き換えに、新たな呪詛を俺にかけた。成就させるわけにはいかぬ呪詛だ。抗うことが、俺に残された、たったひとつの誇りだった」
ゆっくりと肩で息をしながら、穏やかな声で告げた青年は笑みを深くした。
「……俺のために誰かが泣いてくれるというのは、存外の幸せだな。美人が台無しだぞ、翡翠」
「お願いでございます。翡翠の我儘を聞いて下さいませぬか、従兄上様」
「聞けぬ」
白い頬を伝う雫を嬉しそうに眺めながら、莱軌は即座に答える。
「従兄上様」
「……父に頼んだ。母が死んだとき、俺も死んだことにしてくれと。だから、ここで死ぬのは二番目の王子ではなく、ただの無頼漢だ。だから、気に病むな」
その言葉は青牙に向けられたものだった。
「あ、にうえ……」
「采女・藍美が病死した折り、同じ病で第二王子も夭折した。おまえばかりに負担をかけてすまぬ、熾闇」
「兄上方のお望みであれば、従いもしましょう」
「おまえが、羨ましくてならなかった。そう妬む自分が嫌だった。もう、そんな想いから解放される」
何よりも強い執着に、初めて己ひとりの力で抗い打ち勝った青年は、満足そうな表情を浮かべる。
「おまえは、間違えるな。執着は、歪みを生む。母のように……だが、強い想いは、力を生む」
兄の言葉に熾闇は言葉なく頷く。
「……あぁ、空が高い……いい風だ……」
掠れた声がそう囁くと、莱軌は目を閉じた。
「…………」
青年の頭を抱き締めていた翡翠は、声もなく涙に濡れた頬を彼に寄せる。
「……莱軌従兄上様」
「蒼瑛、嵐泰、すまぬが手を貸してくれ。二の兄上を人目につかぬように部屋へ運びたい」
「御意」
恭しく一礼した武将ふたりは、莱軌の許へと歩み寄る。
「紅牙、青牙を連れ、衣服を改めさせよ。後宮は人目につく。俺の部屋で俺の服を使え」
「はい、兄上」
頷いた紅牙は、片割れの方へ近付く。
「三の兄上、何故……」
血が乾きかけた手を茫然と見つめていた青牙が乾いた声で呟く。
「おまえは、まんまと二の兄上に誘導されたんだ。本当は俺の手にかかりたかったのだろうが、無理だと知っていたからな。辛いか? いや、恐ろしいか? それが、人の命の重さだ。その重さを背負って、武将は生きているんだ。耐えきれなければ、己が死ぬ。おまえは剣を持つには向かない」
背負うにはあまりにも重すぎる肉親の死。
それゆえに、熾闇は弟を戦場から遠ざけようと言葉を紡ぐ。
辛い想いをするのは、少なければ少ないほどいい。
翡翠がどう思うにせよ、自分が手を汚すべきだったかと、半ば後悔しながらそう告げる。
「兄上……兄上はお辛くないのですか?」
「それよりも大切なものがあるからな」
青牙の言葉に笑って答える。
何よりも護りたいものがあるから、どんな辛さも耐えられると言えることが誇らしいと、しっかりとした笑顔で答えながら熾闇は思う。
「行こう、翡翠」
「はい。我が君」
涙を拭い、立ち上がった少女は、いつもの穏やかな笑みを湛えた表情で頷く。
従兄の死を切り捨てたのではなく、その痛みを抱えたまま、それでも前を見つめて歩くことを選んだ者のしなやかな強さに、青牙は圧倒される。
ほんの数ヶ月しか違わないはずなのに、確かに同じ歳のはずなのに、この違いは何なのだろうかと、少年は先を歩くふたりを見送りながら、そう心の中で呟いた。