36
王の側室──しかも最下位の采女とあっては、民が喪に服す必要はない。
それでなくとも第一王子の訃報により、嘆きの最中にいる民にこれ以上暗い知らせを伝える必要はないと、王は文官達に伝え、そうして陵墓の一画に王の妻のひとりとして藍美を葬るように命じた。
死因は病気と発表され、王と第二王子のみ、一年の喪に服すと告げられた。
「……ご自害なさるとは、短慮なことを」
梅の枝に結びつけられた文に目を通した少女は、ポツリと呟く。
溜息混じりの言葉は、幼さから発せられたものだった。
「莱軌従兄上様の目の前で、自らの胸を懐剣で突かれるなど、惨いことを……」
理由は何であれ、母親が子の前で自らの命を断つなどと、親としてしてはならぬ行為を犯した藍美に翡翠は眉をひそめる。
兄を失い、母を失った莱軌は、どれほどまでに傷付いたことだろう。
何故、彼がこれほど辛い目に合わなければならないのだろうか。
元はと言えば、藍美の奸計が熾闇を幼い頃から戦場へ送り出し、莱軌の資質を歪めてしまったのだ。
ふたりの王子の人生を狂わせてしまった側室に、翡翠はやるせない怒りを覚える。
それでも峰雅は藍美は悪くないのだと彼女に告げた。
すべては『恋』ゆえのこと。激情が人を狂わせたのだと、切なくなるほど澄んだ眼差しで告げた彼もまた、『恋』を知っていたのだろう、彼女以上の激情を。
ただ、彼は己の感情を律するように育てられており、藍美はその術を知らなかったのだ。
だが人は、己が起こした行動に対して、責任を負わなければならない。しかし藍美は、最後の最後まで、己のやって来たことに対しての責任を取らなかった。
彼女の自害の理由は、淙から第三正妃を迎えるという噂に対してのあてつけであると結び文には書かれてある。
少し考えれば、わかることだろう。第二正妃を失ってから、颱王は正妃どころか側室すら迎えてはおらず、しかも現在は第一王子の喪に服しているのだ。喪中の人間が慶事を受け入れることなど有り得ない。
有り得ない話を信じ、王の心の抜けない棘となるために、自らの命を断ち切ったのだと、その一部始終を冷静に見つめていた者は、子細を書き記している。
たったひとつの大切な想い。
その想いの見返りを求め、そうしてそれが戻らないことに絶望し、藍美は王の心を自分が奪い占める方法を見付け出したのだ。
正妃が死亡したとき、王は深く嘆き悲しんだ。
そして今も正妃達は王の心に生き、そうしてその心を占めている。
ならば、自分も王の記憶を鮮烈に塗り替える方法で命を絶ち、かの君の心に住み続けようと思い至ったのだろう。
己の死すら呪詛とした采女は、その望みの一部を見事に果たしたのだ。
「陛下の妻のひとりであると同時に、第二王子の母君であるべき方が、何と愚かしいことを……」
その他大勢では許せなかった矜持の高さは見事と言えようが、その死が与える影響を知りながらその道を選んだ気性の激しさは、愚かしいと断じる他はない。
それよりも、翡翠は藍美の死により国内外へ与える影響を冷静に判断し、そうしてそれを颱国、熾闇が有利に動けるようにと策を練る自分が醜いと感じた。
ねじられた糸が元に戻ろうと、勢い良く戻るが如く、歪みがさらに大きな歪みを生み出していく。
「どう、乗り切るべきか……」
稀代の軍師は、ぽつりと呟き、思考の深淵を辿る。
その数日後、自室に籠もり、喪に服していた第二王子・莱軌が王太子府参謀資料室へと姿を現した。
「翡翠、少し話に付き合ってくれ」
そう告げた若者は、綜家の末姫を誘い、王太子府から後宮の中庭へと歩き出す。
昔話を懐かしそうな表情で告げる青年の横顔には、呪詛の香りが漂っていた──
見事に整えられた東宮の中庭をゆったりと歩き、懐かしそうに昔話に興じる青年。
その男らしい横顔に女官達が立ち止まり、少しばかり見惚れると、やや頬を染め、急ぎ足で立ち去っていく。
それらの反応を眺めた男装の美少女は、青年に気付かれぬようにこっそりと溜息を吐くと、すぐに穏やかな微笑みをその整った顔に貼り付ける。
凡庸で、上と下の天賦の才を持った嫡子達に挟まれ、取り柄のない庶子の王子として扱われてきた莱軌だが、峰雅の死により蟄居を解かれ王宮に戻ってからはまるで別人のように大人びた振る舞いをし、愚昧でも凡庸でもない賢い王子であると、ようやく人々は理解した。
そうして王と瓜二つと言っていいほどの容姿。
以前は似ていないと思われていたが、落ち着きを取り戻した今では、若い頃の王と面差しが似ていることが強く目を惹いてしまう。
女官達が頬を染めるのも無理はない。
だが、それ以上に──莱軌が身の内から放つ強烈な魅縛の芳香にうら若き女性達は酔いしれるのだ。
庭をそぞろ歩きながら、ひとつひとつの物に目を止め、それにまつわる想い出を語る莱軌は、まったくそのことに気付いた様子もない。
「……あぁ、この樹は」
腰掛けるに丁度良い高さに太い枝が張りだしている樹を見つめた青年は、くすりと小さく笑う。
「こんなに低い枝だったのだな」
「覚えておいででしたか」
立ち止まった莱軌の視線の先にある背の低い樹に目を止めた翡翠が、苦笑を浮かべてそう告げる。
どこかばつが悪そうな表情にも見える。
「もちろんだとも。おまえの姿が見えぬと、女官達が心配していたから、俺も後宮から抜け出して捜していた」
「人の気配が多すぎて、息抜きをしていただけです」
「幼いとはいえ姫君が、まさか木登りをして、降りられなくなっていたとは……」
弁解を試みる翡翠を余所に、莱軌はくつくつと笑う。
幼い頃、やんちゃな熾闇以上にお転婆な翡翠は、実におとなしそうなふりをしながら、人目につかぬ処ではかなりとんでもないことをやってのけた。
そのひとつが、木登りである。
あまりにも幼いため、身分というものを理解していなかった幼女は、自分に付き従う大勢の女官達に辟易し、彼女達がやって来れない東宮の王太子府までやって来て、そうして人目につきにくい木の枝に登り、ひと休みしていたのだ。
もちろん、白虎神という共犯者がいなければ、こんな無謀なことは出来なかったということを、幼い翡翠もよくわかっていたのだが。
ほんの少しのつもりで眠りについた翡翠は、目覚めて困惑した。
木に登ったはいいが、降りれないことに気付いたのだ。
いつもであれば、白虎がその背に乗せて降ろしてくれたのだが、その日に限ってどこにもいない。
呼べば来てくれるだろうが、混乱状態に陥った翡翠はそのことに気付かなかった。
ぐずりたいところだが、幼いながらも矜持高い翡翠はそれを自分に赦すことはできず、困惑したまま木の枝に座り続けたその時に、思わぬ助け手が現れた。
呆れた顔ひとつ見せずに手を差し伸べたのは、五歳年長の従兄であった。
何も言わずに翡翠を樹から抱き下ろすと、後宮へ連れ戻り、女官達に自分が連れ出して遊んでいたと謝罪したのだ。
庶子とは言え、王子の言葉にさしたる疑問を持たなかった女官達は、次からは一言、言い置いて欲しいとそう告げて、不問にしてくれたのだ。
翡翠は、このさり気ない優しさを見せてくれる従兄が大好きだった。
太い木の枝に腕を乗せ、懐かしげに木の肌を撫でる莱軌の隣で、翡翠はその枝に腰掛ける。
「翡翠」
「また、降りれなくなりましたら、助けてくださいますでしょう?」
にっこりと笑って言う少女に、青年は肩をすくめる。
「そう言って、俺の部屋によく遊びに来ていたな」
味を占めたわけではないだろうが、それ以来、莱軌の部屋へ遊びに来る翡翠に藍美とその女官達は大喜びで幼女を迎えたことを思い出した青年は、苦笑する。
王の寵愛を失ったと気を鬱いでいた藍美は、王が溺愛する妹の愛娘の来訪に、驚喜した。
家柄も血筋も申し分なく、そうして年頃から言っても間違いなく次代正妃であろう幼女が王子の許へと遊びに来る。
彼女の息子が次代王になる可能性がある。
莱軌が次代王になれば、王はきっと藍美を褒め、傍近くへと召し抱えてくれるに違いないと、彼女は夢想した。
それが、歯車が狂った瞬間だった。
だが、あまりにも幼すぎる子供達は、そのことにまったく気付かなかった。
ただ、気鬱で鬱ぎ込む母が、従妹が来る度に明るさを取り戻すことが、少年は嬉しかったし、また、嫌いな勉強も中断してもらえるため、その来訪を望んでいたのは確かだ。
「翡翠は、莱軌従兄上様のお膝の上で書を読んでいただくのが一等好きでございました」
「……それで樹の代わりに俺の膝によじ登っていたのか」
「はい。従兄上様のお声がとても好きでしたから」
にこやかに答える従妹の言葉に、莱軌はわずかに頬を染め、少女から目を逸らす。
純粋なまでに素直な思慕を寄せてくれる従妹に対し、母の呪に捉えられていたとはいえ、毒矢で傷付けてしまうなど愚かなことをしてしまったことは否めない。
許し難いことであろうはずなのに、彼女は微笑って彼を責めない。
そのことが何より心苦しい。
言葉で詫びて、許して貰えるほど、彼の罪は浅くはないのだ。
だが、と、莱軌は思う。
罪は償わなければならない。
そして、その機会を与えられたのだ。
今度こそ、間違わずに、大切な者達を守り通すのだと、誓ったのだ。
「さすがに、今はもうお膝に登ることはできませぬから、こうやって樹に腰掛けております」
「九年前とあまり進歩がないと言ってやるぞ」
「何とでも仰ってくださいまし。多少、我儘を申したところで、罰は当たらぬと、白虎様が仰ってくださいましたから」
「白虎殿のせいにするか」
その年齢に似合わず聞き分けのよすぎる子供に対し、年相応でよいと諭す白虎の言葉に同意したい気もするが、そう素直に応じられる性格ではない莱軌は、呆れたような口調を作る。
「いけませぬか?」
小首を傾げ、少しばかり心配そうな表情で問いかける少女。
甘えることに不器用な子供の姿に、莱軌は笑みを浮かべ、少女の頭を優しく撫でる。
戦場で頼るべきは自分自身。守るべきものが多すぎる少女は、人に甘えるということが苦手になってしまった。
実の兄姉にすら甘えることができない状況下にいる翡翠が、唯一無条件に甘えることができたのは自分だったことに気付いた莱軌は、唇を噛む。
「いや、いい」
短く答えた莱軌は手を下ろし、軽く首を振る。
もっと従妹や弟を甘えさせてやればよかったと思ってみても、時すでに遅しである。
「従兄上様」
翡翠が何かを言いかけたときだった。
幾方向からか足音が響き、翡翠を求める声がする。
思わず眉を顰めた少女のすぐ傍で、莱軌が溜息を吐いた。
「すまんな、翡翠」
「はい?」
「最後までおまえに迷惑をかける……少しばかり茶番に付き合ってくれ」
そう言った青年は、指先で少女の頬をそっと撫でると足音の方へと視線を流した。