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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
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 長い長い話の後、峰雅は囁きにも似た吐息を漏らした。

 風の神の、声なき咆吼も、彼の毛一筋すら揺らさない。

 理から外れた青年は、生前の面差しそのままに健康そうに見えた。

 知性溢れる理知的で秀麗な顔立ちが、銀光に包まれ際だっている。

 芙蓉を初めとする王都の娘達が彼に焦がれたのも納得できる麗しい容姿であった。

『哀れな呪詛は、もう間もなく終焉の時を迎えます。それゆえに、そなたは死せる者の言霊に縛られることはないのです』

 静かな、葉を揺らすこともない静かな声が、これから幕を開ける演目を告げる。

「二の君様は、どうなるのです? これまでのこと、あの方のせいではございませんのに……糸を違えられ、目を乱され、なにひとつ、正しい織り布を見れぬ間に今度は糸を絶たれてしまうのですか? 母君でございましょう!? 我が子を慈しむべき母君が、何故、我が子を陥れるのです? 莱軌従兄上様は、心優しい方でございました! それなのに、何故、母君御自身が、我が子に」

 はっきりとした内容を伝えない峰雅の言葉に、それだけでこれから先起こる事態を悟った少女は激昂する。

 穏やかな性格の翡翠がやるせない怒りを抱くほど、これから先起こりうる事態は凄惨なものであった。

『恋ゆえに……人は時として狂うのだろうね』

「……恋?」

 どこかしら切なそうな表情を浮かべ、ポツリと呟いた峰雅の言葉に、翡翠は戸惑う。

『王の心は常に国にあります。ひとりの人間に捕らわれることはないと知りつつ、焦がれた者はその心を独り占めしたいと願うものなのです。永遠に叶うことのない願いは歪み、そうして闇に捕らえられるのでしょう。藍美殿は、父上をただ愛おしんでいただけなのです。我が子が立太子となれば、その母に心を傾けてくださると、そう思い込んでしまわれたのです』

「陛下は、側室の皆様方を平等に想われていらっしゃると……」

『それは、愛と呼ばれるもの。恋ではないのですよ、翡翠。恋は激情です。己自身を制御できぬ想いは、本来、持たぬ方が幸せなのかもしれません。甘美な毒のようなものでしょう』

 囁くように告げた青年は、諦めにも似た笑みを浮かべ、首を横に振る。

『歪みは、正さねばなりません。ですが、急いで戻せば、反動が大きくなり、再び歪みを生じてしまいます。そなた達の助けになればと、少しばかり手を打っておきました。後はそなたの好いようになさい』

 そこで言葉を切った峰雅は、風に揺れる下草に目を向ける。

『そろそろ……行かねば。私の小さな従妹姫、そなたは風のように生きなさい。何者にも捕らわれず、思うままに自由に行きなさい。それが星を抱いて生まれた者の宿命』

「……星?」

 不思議そうに小首を傾げ、翡翠は問いかけたが、峰雅は微笑むばかりで答えはない。

「峰雅従兄上様」

『己が生きる意義は、己が定めるもの。誰よりも幸せになりなさい。そなたは颱なのですから』

 微笑む峰雅の姿が燐光に輝き、端からうっすらと消えかけていく。

「従兄上様!」

『そなたを愛していますよ』

 柔らかな微笑みと優しい声を残し、峰雅の姿は消え去った。

 最後まで伸ばさずにいた手を握り締め、少女は唇を噛み締める。

 泣かぬと約束したからには、守らなくてはいけない。

 十年年長の青年の一生は、彼女から見れば充分に長いような気もするが、他の大人達から見ればとても短いものなのだろう。

 そうして、例えようもない長い時間を生きる白虎神にとっては、瞬きほどの時間でしかない一生に散った第一王子は、とても哀れなのだろう。

 だが、再びこの地に生まれることのできる輪廻に戻った彼は、幸せなのだということを翡翠は知っている。

 だから、哀れだとは思わない。

 悲しいとも思わない。

 再び、巡り逢う時間がやってくるのだから。

 目を閉じ、そうして天を仰いだ少女は、ゆっくりと双眸を開き、天幕へと視線を戻した。


 ざわざわと、風が啼く音がする。

 風に揺られ、倒れる草たち。

 何事もなかったように時間が流れる。

「よく、我慢なさいましたね、熾闇様」

 天幕の掛け布をあげ、戸口脇に隠れるように座っていた少年に翡翠は優しい声をかける。

「胸騒ぎがしていたのは、このせいだったんだな」

 青ざめた顔で、震える手を胸元に抱き締めるようにして、熾闇は湿った声で呟く。

「兄上は、逝かれたのだな」

 俯いて告げた少年の頬に手を添え、翡翠は小さく頷く。

「もう、泣かれてもよろしいですよ。ここには翡翠しかおりません。我慢する必要はどこにもないのですから」

「…………ッ!」

 膝立ちになった少年は、乳兄弟の背に腕を回すと、ほっそりとした彼女を力一杯抱き締める。

「……っくぅ……」

 それでも声を殺し、泣くまいと我慢する少年の頭を自分の胸に引き寄せ、翡翠はその癖毛を優しく指で梳いてやる。

「もう、良いのですよ」

「兄、上ぇ……」

 優しい言葉に、少年は堪えていた涙を零した。


 病と闘いながら、それでも屈することなく、民を思いやり、その持てる力をすべて投げ出し、政に従事していた長兄を、彼は尊敬と憧憬の念を持っていつも見つめていた。

 兄の負担が軽くなるためなら、この手をいくら血に染めたところで後悔はしないと、幼い頃より戦場に出て剣を振るっていた。

 峰雅が王となり、その傍で翡翠と共に兄のために働くのだと、そう思って今まで頑張ってきたのだ。

 滅多に逢えないが、兄がとても好きだった。

 肉親の情に薄い熾闇が、心から慕えるたったひとりの兄だったのだ。

 目標が突然消え去り、道に迷った子供のように、熾闇は途方に暮れる。

 嫡子として、常に前に立って導いてくれた兄を失うことは、何よりも辛かった。

 そんな熾闇を慰めるように、翡翠がゆったりと彼の髪を梳いてくれる。

 母親のように優しい仕種が、ささくれ立っていた心を癒していく。

 そうして少年は、自分を慰めてくれる少女もまた自分と同じように嘆いていることに気付く。

 嘆き方は様々だろう。

 泣くことでそれを表す者もいれば、すべてを内に抱え込んで収めてしまう者もいる。

 目に見えないからといって、嘆いていないわけではないのだ。

 どんなときでもふたり一緒にいたから、熾闇にはわかる。

 熾闇を慰めることで、翡翠は自分を癒しているのだ。

 この世界で、無条件に信じられるのはお互いだけだ。

 そういう修羅の道を歩んできたのだ。

 今、峰雅を失ったふたりは、もう信じられるのはお互いしか残ってはいない。

 それだけで充分だと、熾闇は目を閉じた。


 どれだけ時間が経ったのか。

 倦怠感にも似た疲労を覚えた熾闇は、腕を解き、立ち上がる。

「……熾闇様」

「寝台に戻ろう。こんな所にいては風邪を引く。おまえに風邪を引かせては、白虎殿が煩い」

 子供っぽい口調で告げた少年は、乳兄弟の腕を引き、奥へと誘う。

「我が君?」

「今から都に引き返したところで、兄上は旅立たれた後だ、もう遅い。ならば、吉報を持って墓前に伺う方がいいだろう。敵を目の前にして、それを投げ出したとあっては、兄上に顔向けができぬ。俺は、武人として己に恥じぬ姿を兄上に見ていただき、褒めていただきたい」

 瞼は少し腫れていたが、それでもきっぱりとした口調はすでに兄の死を吹っ切っていることを伝えている。

「俺は、自分がすべき事を、全力でやる!」

 己への誓いにも似た宣言が、ひとつの時代が終わりに近付いていることを告げていた。

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