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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
30/201

30

 用意されていた湯は、最後まで湯が温かいようにと、湯盥の中に焼いた石が入れられていた。

 入った者──翡翠が火傷しないようにと、焼き石を竹籠に入れて沈めるほどの気合いの入れように、溜息すら零れてしまう。

 いくら何でも熾闇がそこまで気付くわけはない。

 ここまでしたのは、おそらく熾闇に命じられた自分付の侍女達であろう。

 熾闇の命で、主の帰還を知った彼女達が嬉々として用意したに違いない。

 女子軍を束ねる主だった将であるくせに、主を着飾らせる情熱は並々ならぬものを抱いている強者達は、翡翠の到着に満面の笑顔で平伏する。

 これは、彼女達の思うがままに人形になるしかないと諦めた翡翠は、肩に掛けていた巾を溜息混じりに取り去った。


 湯浴みを終え、総大将に仕入れた情報を伝えた軍師は、自分の天幕に下がる。

 主天幕で休んでいけと言い出しそうな第三王子をさらりと躱し、離れた場所にある軍師の天幕に戻った少女は、さすがに自身を襲う疲れに抵抗できなくなっていた。

 何があっても必ず主の許に戻らねばならないと、気を張っていたものが緩み、度重なる精神的な疲労に取って代わられる。

 いくら鬼才と詠われ、非凡な頭脳と行動力を持っていたとしても、生身は未だ成人も迎えぬ子供なのだ。体力的には他の兵士達にすら劣るし、主だった将達には到底敵わない。

 誰もが翡翠に人知を越えたものを求めるが、それに応えることが煩わしいと感じる瞬間がある。

 今がちょうどその時であった。

 自分の身は自分で守れるだけの力はまだ残っていると判断した彼女は、天幕付きの警備の者達をすべて追い払う。

 疲れ切った姿を人に見られるわけにはいかなかった。

 策を練った後、休息を取るため、全員下がるように言い付けた翡翠は、たったひとり残された天幕でようやく休むことができた。


 広さだけは充分な簡素な台の上に毛皮を敷いただけの寝台で、翡翠はゆっくりと目覚めた。

 王家に継ぐ血の古さを持つ名門の出自である姫が、草原で粗末な寝台で寝起きをしていることを嘆く者も多いが、彼女は一向に気にならない。それどころか、手枕で土の上に直接横になることの方が大地の薫りを間近に感じられてよほど好きだと思う変わり者だと、自覚している。

 風と大地は、心開く者には様々のことを教えてくれる。

 だが、そのことを知る者は少ない。

 頬を掠める風が冷気を含み、すでに夜の帳が降りていることを知る。

 掛布代わりの外套から抜け出し、絨毯の上に足を降ろす。

 わずかに乱れた髪をひとまとめに肩に流した少女は、風が草の香りを運んだことに気付いた。

「どなたですか?」

 人払いをしているとはいえ、王太子軍・軍師兼副将の天幕へこうもあっさりと侵入できる者などそうはいない。

 眠りについていた間片時も手放さずに握っていた剣の柄から手を放し、そう声を掛ける。

 内側から見れば、何の変哲もない天幕だが、外から入るには非常に難しい造りになっている。

 入口の垂れ幕を見つけるのも至難の業だが、それを開けることはさらに困難である。

 そうして、風は入口とはまったく別の場所から入り込んできた。

「……総大将が己の天幕を空けるとは、感心できませんね。熾闇様」

「何で、バレた?」

 するりと壁を作っていた布から滑り込んできた少年は、不思議そうに尋ねる。

 手に外套を抱き込んで、怪訝そうに首を傾げる姿は、ある意味、非常に可愛らしい。

「裏口からいらっしゃるのは、我が君以外におられませんから」

「さすがに見つかるとヤバいかと思って、裏から来たのが、文字通り裏目に出たか」

 しまったと、口惜しそうに顔を顰めるその姿は、年相応の少年らしさに溢れている。

 鎧を脱ぎ去った平服姿で、単身この様な場所に姿を現すなど、普通では考えられないことをしでかす少年は、口で言うほどことの重大さを理解していないようである。

「……我が君」

 呆れたように呟いた翡翠は、彼がここに来た用件に気付き、さらに溜息をついて呆れる。

「そのお姿から察しますと、お眠りになれないためにこちらへ足を運んだ、と?」

「正解♪ な? いいだろ」

「眠れないからといって、臣下の寝台に潜り込むとは……」

 形良い指先で眉間を揉みながら、ぼやいてみせる翡翠の言葉を聞き流した熾闇は、彼女の隣にちゃっかりと腰掛ける。

「臣下じゃないぞ、翡翠は。俺の乳兄弟で、親友で、大切な従姉妹だ。王位継承権だってある」

「臣にはございません」

「王家の血に連なる者、等しくこれを与える。王となる者、理を善くし、道を知る者。守護者より選ばれし者なり──って、これでも真面目に勉強したんだぞ。国を良くしようと思ってる奴を白虎殿が選ぶってな。おまえにだって、選ばれる可能性が充分ある。一の兄上や、季籐従兄上や偲芳従兄上が王に相応しい。俺は、兄上達の理想のための剣でありたい」

 自慢そうに威張って答えた少年は、一転して尊敬する年長者を支える夢を語る。

 だが、それも長くは続かなかった。

 闊達な少年らしからぬ不安と焦燥に駆られた表情を浮かべ、膝を抱える。

「何か、変なんだ。気が急く。ここにいては間に合わない、早く行かなければと、そればかり思って……大切な何かが失われそうな気がして……ここにおまえがいるし、王都には白虎殿がいるし、何も心配することはないって、わかっているのに……」

「我が君」

 どこから来るのかわからない不安に、無意識のうちに自分が安定できる場所を求めてやってきた熾闇に、翡翠は微笑む。

「仰るとおり、翡翠はここにおります。でも、今日だけですからね。明日、早いうちに誰にも気付かれぬようにご自分の天幕にお戻りくださいませ。見つかると、少々煩い方がいらっしゃいますからね」

 声をひそめ、茶目っ気たっぷりに告げる従姉妹に、熾闇は目を丸くする。

「……いいのか?」

「すでに来られておいて、何を仰います?」

「そうだな」

 ここに来て始めて安心したような笑みを浮かべた熾闇は、寝台に足を上げると、持参した外套の中に潜り込む。

「髪、伸びたな」

 艶やかに背を覆う真っ直ぐな髪に目を細め、少年は呟く。

「綺麗だな、おまえの髪」

 一房を掌に軽く握り込み、笑みを浮かべたまま目を閉じる。

 誰よりも信頼できる者の傍に来たせいか、安心したような幼い顔で不眠を訴えていた少年は眠りにつく。

 その肩口へ外套を引き上げてやった少女は、乳兄弟の寝息が安定していることに安堵の笑みを零す。

「おやすみなさいませ、熾闇様」

 優しい、とても優しい声で囁くと、少女もまた目を閉じた。


 翡翠が再び目覚めたのは、夜半過ぎであった。

 隣に目をやり、熾闇が安らかに眠っていることを確かめた少女は、柔らかな笑みを浮かべる。

 そうして寝台から音もなく滑り降りた少女は、天幕を抜け出した。


 風が音もなく吹き荒れる。

 常に起きているはずの見張り番も、今宵はどうしたことか、うたた寝をしている。

 すべての音が消え去り、だが、風が声なき咆吼をあげる。

 白虎神の嘆きが聞こえる。

『起こしてしまったようですね』

 優しげな声が鼓膜を震わせる。

 否、声ではない。

 空気が震え、そう感じるだけなのだと、翡翠は悟る。

「──……一の君様」

『峰雅とは、呼んで貰えないのですか、翡翠?』

 ふわりと銀色に輝く姿を現した第一王子は、柔らかな笑みを浮かべて囁く。

「峰雅従兄上様……」

 摂政公の姿の向こうに天幕が見える。

 実体でないのはわかりきっている。

 そうして、何故彼がそんな姿で目の前にいるのかも、翡翠にはわかっていた。

『生まれて初めて、己の国を目にすることができました。颱は美しい国ですね、翡翠』

 満足そうな笑みを浮かべて告げる嫡子に、少女は唇を噛み締める。

『そなた達が命を懸け、辛い思いをしながらも護ってくれているこの国は、こんなにも美しい国で、とても嬉しくなりました』

「従兄上が、お護りになられた国でございます。当然でございましょう」

 潤む瞳を輝かせ、最年少の軍師は笑顔を作る。

『白虎殿にご無理をお願いして良かった。わたしには本当に知らないことが多すぎたようです』

「……何故、昇仙なさいませんでしたか」

 最後の最後で知り得たことに、嬉しそうな笑みを浮かべる青年に、翡翠は声を震わせて問いかける。

「昇仙なされば、この様なことには……」

『そうですね。だが、わたしは、永い命を紡ぐより、何度でもこの地に生まれ、そしてこの風を受けて生きたいと思いましたから。そなた達の傍で、何度でも生を紡ぎたいと』

 穏やかな笑みで答える青年に、少女は俯く。

『仙として生きるより、人として死すほうが、わたしには重要でした。泣かないでください、そなたに触れて慰めることができないのですから』

 俯き加減に目を伏せる少女を気遣いながら、峰雅は、物体をすり抜けてしまう魂魄だけの姿に戸惑った様子も見せない。

「泣いてなど、おりませぬ。峰雅様は、もう、苦しくないのですから」

 溢れそうになる涙を黒髪で隠し、笑みを唇の端に刻もうとするが、なかなか上手くいかない。

『えぇ、もう苦しくはありません。不思議ですね。これほど晴れやかな気分になれるとは……器がないせいで、少々勝手が違いますが、早くこうなれば良かったとは、もちろん、思ってもいませんよ』

 すべては機織姫の心のままと、穏やかに告げる峰雅は、風にそよぐ草を愛しげに見つめる。

 初めて得た自由を存分に楽しんでいる様子の青年は、年下の従姉妹に視線を戻す。

『そなたには、迷惑ばかり掛けてしまいましたね』

 優しい声が、ゆったりと言葉を紡ぐ。

『弟たちも、そなたに迷惑を掛けて、本当に済まないと思います。せめて、最後くらい、年長者らしいことをしようかと思い、そなたを起こしてしまいました。亡き方の言霊をわたしが共に冥府へと案内して差し上げましょう』

「……ッ!? 従兄上様、ご存知でしたか」

 ビクッと肩を揺らした少女は、はっと顔を上げ、透き通る青年の顔を見上げる。

 何とも言えぬ複雑な笑みを浮かべた王子は、静かに頷いた。


 音をなくした風が、吹き通る。

 髪を揺らしながら、男装の少女は魂魄のみの姿となった一の王子の言葉を待つ。

『すべては、たったひとりの女性から始まったことです。守護神獣の何たるかを知らず、己の身分の低さを嘆き、そうして歪められたまま、すべてを憎んだ哀しい女性が今の颱王家の歪みを生み出しました。その際たる被害者は、そなたでしょう。そなたには知る権利がある。幼き日、無力なわたしが知り得たことをそなたに教えましょう』

 長い話になりますと、そう言い置いて、一瞬、何かに祈るように目を閉じた峰雅は、静かに語りだした。

 三の王子とその乳兄弟が生まれる前の、彼等にとっては遙か昔の話を。

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