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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
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「翡翠!」

 嵐泰に案内され、本陣に戻って来た翡翠を迎えたのは、彼女の主たる少年の声だった。

 天幕から姿を現し、少女が馬から降りるのをただ待っている。

 本当は駆け寄って、彼女の無事を確かめたいだろうに、平常を装い、泰然とした態度を保ちつづける少年は、安堵の色さえその瞳に浮かべず、乳兄弟を見つめる。

「……我が君」

 馬から降り、近くの者へ手綱を預けた少女は、彼の許へ近付くと、優雅な身のこなしで片膝をつく。

「ただいま戻りました」

 柔らかな声がそっと告げる。

「首尾は?」

 低く問い掛ける少年に、翡翠はただ穏やかに微笑むだけ。

「そうか。ご苦労だった」

 ひとつ頷いた熾闇は、翡翠に手を差し伸べる。

 その手を取った少女は、力強い手に引き寄せられ、立ち上がる。

「我が君」

「よく戻った」

 首に回された腕が彼女を抱きしめ、そうしてその腕はそのまま肩へと下ろされる。

「仔細は中で聞こう。まずはゆるりと休め」

「ありがたき幸せ」

 労をねぎらい、細やかな気配りを見せる主に、嬉しげに微笑んだ翡翠は、素直に従う。

 天幕の中へ入る前、ちらりと肩越しに振り返り、将軍たちに視線を送ると、彼女は姿を消した。


 扉代わりの掛け布が下ろされ、外と隔離される。

 それだけで、周囲の喧騒が途絶えた。

「怪我はなかったか?」

 何よりもそれを心配していたらしい少年は、まっすぐに乳兄弟の瞳を覗き込み、そう尋ねる。

「はい。捕虜としての扱いは、まぁ、悪いものではございませんでしたよ。眠り香の薫りが髪に染み付いてしまったのは、少々困りましたが」

 穏やかに微笑むと、今度こそ、熾闇の瞳にほっとした色が浮かぶ。

 この目で確かめるまで、不安だったのだろう。

「湯を使うか? 茜に言って、奥に湯浴みの用意をさせている。薬湯はいらぬか? 必要なものがあったらすぐにでも用意させるが」

「……我が君」

 やけにまめまめしく告げる熾闇に、翡翠はわずかに顔を顰めた。

 物心つく頃から戦場にいる少年は、心優しき少年であることは確かであるが、こういったことに心配りできるような性格ではない。

 何者かが示唆し、そうするように仕向けたのだろう。

 それが誰なのか、考えなくてもわかるが。

「……蒼瑛殿が……?」

「あぁ、うん。どういう扱いを受けていたかわからない上に、ひとりで状況把握して片付けてくるんだから、絶対疲れてるはずだし、女は身だしなみ整えることで落ち着くものだって言ってたから……湯浴みが一番効果的だって」

 疑うことなく素直に頷いた少年は、実に正直に仔細を話す。

 その様子に、翡翠はその話題が出た状況まで手に取るようにわかった。

 彼女の不在で煮詰まり、癇癪を起こし始めた熾闇に、気を逸らすために犀蒼瑛が言ったのだろう。

 必ず戻ると約束した軍師の労を、癇癪ごときで無にしてしまうのかと、そう詰められれば、素直すぎる少年は罪悪感を覚えることだろう。

 女性に関しては百戦錬磨の蒼瑛の言葉に、間違いないと思うことも計算内だ。

 何かを期待する純真な瞳が、彼女をじいっと見つめている。

「お心遣い、嬉しゅうございます、我が君。このような所で汚れを落とせるのは、大変嬉しく思いますもの。湯浴みは疲れを取るのに、最適でございますし」

「そうか」

 ふわりと微笑んで翡翠が言うと、闇色の瞳が嬉しそうに輝く。

 蒼瑛が何を考えているのかはわからないが、熾闇が他人に対する気遣いを態度で示せるようになることに否やはない。

 それにしても、ここまで無邪気に喜ばれるのも、何やら問題のような気もしないではない翡翠は、苦笑を浮かべて乳兄弟を見上げる。

「折角のお心遣いですから、湯が冷めないうちに頂いてまいります。後ほど、お伺いいたしますので」

「あぁ。ゆっくりでいいぞ」

 上機嫌の少年は、自分の部屋へと向かって歩き出す。

 もう一度苦笑を浮かべた少女は、示されたほうへと足を向けた。


 王宮ほどは広くないが、それでも天幕としてはかなり大きな本陣の中を歩いていた美貌の軍師は、見慣れた顔を見つけ、立ち止まった。

「将軍方……ごきげんよう」

「お帰りなさいませ、軍師殿。いつもながらに美しい容を拝見し、この取るに足りない身も、安堵の念で震えております」

 にっこりと極上の笑みを浮かべて答えた蒼瑛が、恭しく軍師に一礼してみせる。

 王都にいる貴公子達もここまで洗練された礼はできないだろうほど、優雅な仕種。

「ご無事で……」

 無骨な笑みを浮かべ、ほっとしたように告げたのは利南黄である。

 その隣に立つ嵐泰は、目礼をしただけである。

「留守中、迷惑をおかけしたようですね、蒼瑛殿。殿下におかれましては、大変麗しい気色でございましたよ」

「それもこれも、軍師殿の無事のご帰還のおかげでございましょう。めでたきことにございますな」

 にこやかで友好的な会話を繰り広げているというのに、何故か極寒の地にいるような寒さを感じる会話である。

 当人たちはそんな寒さを一向に気にせず、極上な笑みを浮かべたままだ。

「蒼瑛殿のお心遣い、大変嬉しく思います」

「お気に召しましたか? それはそれは……」

 得たりと笑う青年に、利南黄が青くなる。

「蒼瑛……」

「……蒼瑛? 何やった!」

「南黄殿、嵐泰殿。お気になさるようなことではありません。殿下に『気の遣い方』をご伝授なさっただけですから」

 にこりと告げる翡翠の言葉に、青年たちは色を失う。

「おまえ……何という事を!!」

 仮にも上司に対し、女性の扱い方を伝授したなど、不心得者の王道を歩んでいるようなものである。

 いかに、彼らの上司たちが成人を迎えぬ若者だといえ、許されるような非礼ではない。

「咎められるほどのことではないと思うぞ。大将は、軍師殿をお迎えするにあたって何かよい方法はないかとお尋ねになられたから、答えたまでだ」

「だからと言って、そのようなことっ!!」

 激昂し、親友とも言えるべき友を頭ごなしに叱り付けたのは嵐泰であった。

「無礼にもほどがある! 殿下だけでなく、軍師殿に対しても」

「嵐泰殿……我らは戦場しか知らぬ無骨な若輩者。示唆いただけるのは、ありがたいことです」

 さりげなく蒼瑛を庇っているような発言をしながら、その実、深く静かな怒りに身を任せている少女は、蒼瑛をまっすぐに見つめる。

「お気に召しませんでしたかな?」

「わたくしに対して、と、限定されることが。熾闇様は嫡子でございます。王位を受けるかどうかは、白虎様のお心ひとつではございますが、王家を支え、国を支える義務を負っておられます。そのために方々にお気を配られるということは、大切なことだと存じます。それゆえ、蒼瑛殿のご見識は、彼の君にとって得がたい財産と申せましょう。それをわたくしにお向けになられるのは、ご遠慮くださいませ。わたくしは、駒でございます」

「もったいなきことを。華となれば、栄華栄達思いのままのお方が」

 肩をすくめた美丈夫は、翡翠の視線の前に表情を改める。

「承知。続きは王都にてということで、お許しいただけますかな?」

「よろしくお願いいたします」

 あっさりと引いた軍師はひとつ頷くと、奥へと歩き出す。

 艶やかな黒髪がその動きに合わせ、ついっとたなびく。

 それを見送った利南黄が胃を押さえる。

「……だからやめろと言ったのに……」

「何とかしろとも言っただろうに? 矛盾したことを言うな」

 平然とする蒼瑛に、嵐泰が深い溜息を吐く。

「事態を軽んずるおまえの悪癖が悪いんだろうが!」

 いっそ、役目を取り替えたほうが良かったのではないかと、一瞬思ってしまった青年は、同僚と顔を見合わせ、深すぎる溜息をもう一度吐いた。

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