27
どこまでも広がる草原。
どこまでも続く空。
単純で複雑な色合いを馬上から見つめた美貌の軍師は、片手を挙げる。
津波のような勢いで草原を駆け抜けていた騎馬隊が、静かに動きを止める。
一糸乱れぬとは、このことだろうと思わせる統制力。
颱軍が、大陸随一と言われる所以がここにある。
しんと静まり返った草原には、風の音しか聞こえない。
「……さすがだな」
遠く見つめていた熾闇が、ぽつりと呟く。
「我が君?」
「いや。おまえの情報収集力は、さすがだと思っただけだ」
癖のある髪をぐしゃりと掻き混ぜた少年は、照れくさそうに笑いながら、そう告げる。
彼女の主は、他人の良いところを嫉まず素直に褒め称えるという美質を持っている。
それがどれだけ得がたいものであるか、知らないのは本人だけである。
「あー……それで、だ。これから、どうするんだ? 予定通り、派手に解散させるとしても」
くしゃくしゃと髪を掻き混ぜながら、言葉を探している少年は、困ったように視線を彷徨わせる。
「……我が君。弔辞の使者は、古来より文官の役目となっております。我ら武官が向かっては、故人の死を悼むことはできませぬ。我ら武官は、死の使い。死者の弔いには忌み嫌われる存在でございますよ」
「そっか。そうだよな……うん」
死と隣り合わせであるがゆえに、葬送の儀式に武官が出席するのは出棺のみとされている。
どこの国の者であろうと、どんな身分の者であろうと、死は平等に訪れる。
だからこそ、その死を悼む心優しい少年は、隣国の王の訃報に使者を送りたいと思っているようである。
訃報を手にしたと同時に、王都へと使者を放った翡翠が、主の気持ちに気付かぬわけがない。
「国葬にあわせて、陛下が使者を差し向けられます。そのとき、第三王子として、言伝なさればよろしいでしょう」
「あ。そーか。……相変わらず、頭いいな、おまえ」
妙に感心したような声音で答えた熾闇に、翡翠は悲しげな視線を向けた。
「熾闇様が、考えないからでございましょう? 戦ばかりが殿下のお仕事ではございませんでしょうに」
「うっ……否定できない。だがな、翡翠。その、武人馬鹿のような言い方はやめてくれ。少しは考えてるんだぞ、これでも!」
自慢にならないことを堂々と主張した少年は、部下たちの手前、声を落とすことを忘れない。
「わかりました。日々精進してくださいませ。もちろん、予定通り、こちらで様子見の野営を組んだあと、一路王都へ向かってくださいませ。途中、何が起ころうとも、進路を変えることはございませぬよう」
穏やかな笑みを浮かべた少女は、さりげなく話題を元へ戻す。
それに気付いたのか、気付かずにいるのか、少年は素直に頷く。
「でも、大丈夫か? おまえばかり無茶をさせる」
「大丈夫でございます。強力なお守りがいくつもありますゆえ」
くすくすと口元に繊手を当てながら、翡翠は茶目っ気たっぷりに笑う。
強力なお守りのひとつは、当然のことながら白虎である。
心配性な保護者が、実に強力な術を施していったのである。
残るお守りに関しては、翡翠は杳として口を割らない。
秘中の秘と言われれば、おとなしく黙って聞かないようにするほか、熾闇に手はない。
「俺にも何か手伝うことがあれば、遠慮なく言えよ? おまえは、俺の一番大切な親友なんだからな。臣下だからっていうのはナシだ。身分なんて、関係ない。俺は、一番の親友である翡翠だからこそ、名にかけて、守りたいと思うんだからな」
「わたくしもですよ、熾闇様。わたくしを親友と呼んでくださるその名誉にかけて、わたくしはこの颱を守ります」
にこやかな笑みを湛え、穏やかな声音で告げた翡翠に、熾闇は困ったような表情になる。
戸惑うような、そうしてうまく言葉が見つからないようなもどかしそうな表情で、翡翠から視線をはずす。
「熾闇様?」
「……とにかく! 俺の居ない所で、勝手に逝ったりするなよ!? 絶対に、俺を置いて逝くな。俺も、おまえも、次の王の、さらに次の王までも武将として仕えて、それから白虎殿に泰山まで道案内させるんだからな」
「御意」
天寿を全うするためにも、安易に命を捨てるなと言われ、苦笑を浮かべた翡翠は、しっかりと頷く。
天幕の準備が整ったと、報せに来た小姓の労をねぎらい、馬から降りた翡翠は、主の馬の手綱を取り、熾闇が愛馬の背から降りたあと、その轡を手に彼女は馬集めに向かい、歩き出した。
将達は、己の大隊で食事を済ませたあと、大将の天幕へと姿を現す。
そこで、酒を片手に、和やかな雰囲気を保ちながらも、軍議を始める。
巍の侵攻路を間諜が届けてきた情報から割り出し、颱への出現点を絞り出す。
何度も仮想行動を行い、体制は万全に整えた。
あとは、敵の出方を待つだけである。
正直なところ、それが一番堪えるのだ。
今すぐにでも動き出したいのに、待ったをかけられることほど、武官にとって耐えがたいことはない。
すべては、軍師の右手にある采配に委ねられている。
「さて、皆様方。そろそろお開きにいたしましょう」
ほろ酔い加減が濃くなり、未成年であるがゆえに素面をしいられている熾闇が、不機嫌そうな表情を浮かべ始めた頃を見計らって、翡翠が声をかける。
その言葉に瞳を輝かせたのは、犀蒼瑛であった。
「軍師殿。ぜひ、軍師殿の天幕まで、某がお送りいたしましょう。今宵の月はまた格別……月を肴に、雅樂を楽しみませぬか?」
「よさぬか、数寄者め! 軍師殿への無礼は許さぬぞ」
顔をしかめた嵐泰が、親友を睨みつける。
「風流を解さぬ無骨者めが、何を言う! 軍師殿、このような武将馬鹿を傍に寄せては、折角の極上の感性が穢れてしまいます。戦場では、確かに心強い味方ではありますが、闇に輝く月の美しさもわからぬ者の無粋な言葉、何卒、お聞き流しくださいませ」
真剣な表情で親友を一刀両断に切り捨てた蒼瑛が、翡翠に訴える。
呆気に取られていた少女は、不意に表情を崩すと、くつりと笑い出した。
「失礼……まことに、蒼瑛殿と嵐泰殿は仲がおよろしい……羨ましい限りです」
上品に手で口許を覆い隠しているが、笑いの発作はおさまらない。
「軍師殿……」
実に情けない表情の男たちは、溜息をこぼす。
「わたくしは、少々、所要を済まさねばなりませんので、月を愛でるのは王都で、と申し上げてもよろしいでしょうか」
「その言葉、承りましょう。月琴をお聴かせください」
「……確かに」
言質を取った蒼瑛が、楽しそうに願いを言うと、少女は静かに頷く。
「軍師殿、それはあまりにも軽率な……」
「嵐泰殿、白華様とご一緒に、我が屋敷へお越しくださいませ。蒼瑛殿も来てくださいますので、静かな庵も華やぎましょう」
難色を示す嵐泰に、にっこりと笑いかける翡翠。
言葉を失い、戸惑う彼の隣で、彼の親友が肩を落とす。
「……まことに、軍師殿は月よりつれない」
「白華も喜びましょう。謹んでお受けいたします」
親友の落胆振りを淡々とした表情で眺めやった男は、ゆったりと頷くと犀蒼瑛を連れ、三の王子に挨拶をすると、天幕を出て行く。
それに従い、他の武将たちも熾闇に就寝の挨拶をして、それぞれの天幕へと向かう。
小姓たちに片付けを命じた翡翠は、熾闇に寝台へ行くように促す。
乳兄弟の言葉に、素直に応じた少年は、当然彼女がついてくるものと、先に立って、布で仕切られた寝室へと向かう。
「なぁ、翡翠」
慣れた様子で寝台を整え、周囲を確認する片腕に、熾闇はのんびりとした声で話し掛ける。
「何でございましょうか、我が君」
「……なんでもない」
何か言いたげな様子だったが、言葉が見つからないらしく、首を横に振った少年は、寝台に腰掛ける。
「明日も早うございます。どうぞ、お休みくださいませ」
問いただすこともなく、穏やかな口調でそう告げた黒髪の少女は、そっと色鮮やかな被り布を熾闇の肩にかける。
「皆、総大将の声を待っております。明日の演技、期待しておりますよ」
「わかってる。せいぜい派手にやるさ。朝餉は共に食えるか?」
「是非」
「ん。待ってるからな」
鷹揚に頷く少年に、翡翠は丁寧に一礼する。
「それでは、お休みなさいませ」
「あぁ」
剣を手に、着衣のまま、簡易寝台に横になる少年に微笑みかけた少女は、灯りを消すと、静かに本陣天幕を出て行った。
軍師であり、副大将である翡翠の天幕は、本来ならば大将と共にあってもかまわないのだが、本陣とは離れた場所に立ててある。
煌煌と灯る見張り薪に照らされた本陣とは対照的に、彼女の天幕は闇に沈んでいる。
天幕の内は、明るく灯されているはずだが、その灯りも分厚い布に遮られ、まったく見えない。
その中を、躊躇いもせずにまっすぐ歩いていた翡翠は、珮刀していた剣をすらりと抜き放ち、振り向きざまに闇を斬りつけた。
「……っぐ!」
くぐもった声が、闇から漏れる。
姿は見えないが、手応えは確かにあった。
油断なく、身構えていた翡翠は、ぴくんと肩を揺らし、自分の背後から近づいたものを避けようとした。
「くっ!」
物音ひとつ立てず、側に急速に近づいたそれは、翡翠の鼻と口を覆い隠す。
つんと刺激のある不愉快な香り。
普通、手に入ることがない、量を間違えれば人の命を殺めてしまう香だと気付き、思わず目を瞠る。
血の匂いが、近づく。
「……小娘だと思って、ぬかったわ。すまん、兄者」
押し殺した声が、囁く。
それに応える声はない。
だが、それは確かに自分を拘束する者への言葉だと、翡翠は確信した。
「早いとこ、片付けようぜ」
それが何を意味するのか、わかりきっている。
抵抗するべきかどうかなど、考えるまでもない。
だが、翡翠の右手からするりと剣が滑り落ちる。
ずしゃりと剣の飾り球が、鈍い音を立てる。
「おい、兄者。さっさと離れよう。人が来る」
ひゅうひゅうと風が鳴るような声が、そう囁く。
不快な香りが染み込んだ布は、翡翠の口許から離れない。
「………………」
もがくように自分を拘束する手の甲を引っ掻いた少女は、ゆっくりと目を閉じた。