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草原に風が吹き渡る。
緩やかに、時に激しく草を押し倒しながら、高く低く歌い上げる。
その風に身を委ね、黒髪が宙を舞うのを見つめていた翡翠は、愛馬の首を軽く叩き、鞍から降りる。
鹿毛の馬は、その足許に大きな白い獣がいることにまったく動じた様子を見せず、穏やかに草をはむ。
「今頃、大騒ぎだぞ。坊主に言わなくて良かったのか?」
この国を守護する至高の存在──と言われている白虎は、男装の少女の足に尻尾をぴたぴたと寄せながら、のんびりと問いかける。
「ご冗談を。せっかくの羽根伸ばしと仰ったのは白虎様にございましょう。わたくしを連れ出した方の、何と無体な仰りよう……我が君からお叱りを受けましたときには、全て白虎様の仰るままに従いましたと申し上げますわ」
悪戯っぽい光を浮かべた翡翠の瞳が、白い獣の姿を捉え、楽しそうに輝く。
線上にて受けた矢傷も癒え、そろそろ登城すべき頃かと思っていた彼女が街を抜け出し、こんなところにいるのも訳がある。
羌国女帝との一騎打ちの折り、見事彼の女傑を討ち果たし、颱に勝利をもたらしたと各国へと知れ渡り、その少女を一目見ようと、あるいは妻に娶ろうと、綜家、及び王宮へ訪れるものが絶えず、居場所を失った少女は、馬を駆り、草原へとやって来たのだ。
その途中、彼女の気配を追ってやってきた白虎は、ちゃっかりと同伴を望み、しかも舞を所望していたりする。
これを知った熾闇が地団駄を踏んで口惜しがったとしても、しようがないことかもしれない。
窮屈な日々を暮らしていた翡翠は、久々の自由にのんびりと背伸びをしている。
その姿を眺め、白虎はそっと溜息を吐く。
今のこの姿こそが、本来の翡翠なのだ。
実年齢よりも数段に落ち着いているが、まだ十代半ばの少女に過ぎない。
その細い肩にのし掛かるのは、大軍の軍師としての責任ばかりではない。
王家に並ぶ名家の嫡流としての責任、そして、白虎自らが述べた彼女の宿命。
それらから逃げることなく真っ直ぐに歩くその素直で強い眼差しを快く思う。
それと同時に、彼女が歩む修羅の道を痛ましく思う。
「いい風。今日も颱の民が健やかに暮らせるのも、白虎様のお陰ですね」
穏やかな声に白虎が顔を上げれば、こちらを真っ直ぐに見つめてくる少女の姿があった。
「拙き手ではございますが、我らが民の気持ち、一差し舞わせていただきます」
にこっと小さく笑った少女は、鞘から剣を抜き放つ。
白刃が光を弾き、きらりと輝く。
緩やかな動きで剣を構える少女のために、白虎は少女の周囲を取巻く風を止める。
草原を渡る風はそのままに、そうして艶やかな髪を乱すことなく立つ少女。
それは不思議な光景であった。
白虎の好意に気付いた少女は、うっすらと微笑む。
何よりも舞を好む神は、その見事な舞手のためには最高の舞台を用意するのだ。
すうっと息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐く。
呼気を整え、気を巡らせる。
剱の切っ先までも己の一部となるように、そうして周囲の空気までも染め変えるように、気を巡らせ、整える。
そうして、それが充分になったとき、唐突に始まった。
ゆるやかにひそやかに、白々と夜が明けるようなそんな静かな気配が、一転して切り裂かれる。陽が昇り、あたりを赤光が眩く照らし出すような、鋭い輝き。
ひゅんっと空を切る鋭い音。
柄の握りに施された滑り止めの綾紐と同じ色で飾られた飾り房が、大きく揺れる。
躍動感溢れる剣舞──男舞。
命の輝きを表わすその剣と指先。
未来への歓びを示す視線。
大地を踏みしめ、苦難に屈せず己の道を歩むことを約する脚捌き。
その爪先にまで、神経が張り詰め、そうして繊細かつ大胆にその感情を表現する。
人の魂が光に満ち溢れ、輝きを放っている。
恵みを与えてくれる神への素直な感謝を表わした素朴で原始的な情熱に溢れた舞を、その肢体すべてで舞い続ける。
宙に舞い、乱れるその髪の一筋までも、生きる歓び、舞う楽しさを体現している。
剣を握り、手を血に染めることで、女舞を止め、風舞を封じた少女が唯一舞う剣舞。
天性の才を惜しげもなく注ぎ込んで舞うその姿を目にする白虎は、満足げな笑みを浮かべる。
この見事な舞を並ぶことができるのは、朱雀神の対と呼ばれる燁の李一族の舞姫達だけだろう。
あまりにも見事であった。
舞は神のために捧げるものであるが、この見事な舞手を己のものに欲する者達が、今、王都へと集まっている。
翡翠の才は、舞を舞うことだけには留まらない。
楽を奏することも、詩歌を読み、画を描くことも、そうして地の利を知り、一軍を率い、歴史を刻むことも、すべて翡翠という器があってこそなのだ。
颱はこれから激動の時代を迎える。
その時の王が誰であれ、その傍らには翡翠が立つ。
翡翠を得たものが、颱の王となる。
現在、王位に近き者は、彼女の乳兄弟であり、彼女を片腕とし、また従者としている熾闇だろう。
亡き第二正妃の遺言に縛られた翡翠は、熾闇の傍近くに仕えることを今現在の己の使命としている。
だが、その遺言がなければどうなることか。
病弱だが公正で慈愛溢れる第一王子には、並々ならぬ尊敬の念を抱いている。だが、彼の王子の命運も、あと半年と区切られてしまった。翡翠がその手を取れば、奇跡は起こるかもしれない。
熾闇の庶子の弟たちもいる。
彼等は、戦場に身を置く熾闇を尊敬し、そうしてその傍らに控える翡翠に憧憬を持っている。そうして彼等は兄に劣らず真っ直ぐな気性をしており、翡翠が好意を抱く可能性は充分にあるだろう。
翡翠の兄達も、王位に就く可能性はある。
末妹を溺愛する彼等は、その地位に相応しく、そうして己の出自と身分に驕ることなくやるべき仕事を確実にこなしている。
だが、誰が王になろうとも、翡翠が歩む道は決して穏やかでは有り得ない。
だからこそ、誰よりも幸せになって欲しいと、そう願わずにはいられないのだ。
吹きすさぶ風に流されず、蹴爪の音が近付いてくる。
一直線に、ただ半身を求めて駆け寄る馬に、白虎は道を示した。
楽を必要とすらしない完璧な舞を見せる舞姫に続く道。
それに気付いた少年は、迷わず手綱を取る。
「白虎殿! 翡翠!」
向かい風に負けまいと、声を張り上げ、名を呼ばわる少年は、颱随一の舞を目にした。
「俺だけ除け者にするとは、ずるいぞっ!!」
馬を飛び降りた少年は、草を蹴り散らし白虎の許へと駆け寄ると、大音声で喚き散らした。
昔からの習慣で、少女の舞や楽を楽しむために彼女を城から連れだして、この草原へやって来る白虎神を追い駆けてきた少年は、捜し疲れ、そうして拗ねた心そのままに白虎神に甘える。
「俺が出かけるときに傍にいなかったおまえが悪い」
しれっとそっぽを向いて答えた白虎は、驚いて舞を止めた翡翠に続けるように促す。
「弟たちが白虎殿と遊んでいたから、遠慮したんだ、俺はっ!!」
王族は白虎に最大の敬愛の念を抱く。
成人した者は、守護神への畏敬の念を持ち、王族としての使命を果たしながら、民の声を伝え、彼の心を慰めようとするが、子供達は純粋な『好き』という念のみで、彼にまとわりつくのだ。
まだ成人とは呼べないが、戦場に立つ身ゆえに子供扱いされない少年は、同じ年の異母弟や年少の異母弟達とは一線を画して、白虎に接しなければいけないと、自分に言い聞かせているようだ。
それゆえに、彼が普通の少年王族として白虎に接するのは、翡翠がいるときだけなのだ。
「遠慮するのは謙虚でいいが、弟たちは公人としてしか会えないおまえに、物足りなく思っているぞ。たまには兄として、弟たちと遊んでやれ」
「あ……」
困惑したような表情で、熾闇は白虎と翡翠を見比べる。
性格的にかなり不器用な少年は、困り切って溜息を吐く。
自分を慕ってくれる弟たちが愛しくて、とても嬉しいのだが、何を言ってやればいいのか、よくわからないのだ。
「あらあら、困った兄君ですね」
苦笑を浮かべた翡翠が、そう呟く。
「俺は話し下手なんだ。遊ぼうと思って泣かせるのがオチだぞ」
自慢にもならないようなことをぼやく少年に、翡翠は肩を竦める。
「わたくしよりも先にお生まれになられたのに、弟のようですものね、我が君は」
「────おまえがしっかり者過ぎるんだ」
がっくりと肩を落として告げる王子に、白虎は呆れた眼差しを向ける。
「情けないヤツ」
「白虎殿に言われたくないっ!」
速攻で返した熾闇は、もう一度溜息を吐くと、翡翠を見た。
「翡翠。傷の具合はどうだ?」
「傷のことなど忘れておりました。昨日、一手交え、お確かめになられましたでしょう」
にこりと笑った少女は、手にしていた剣を鞘に収め、示してみせる。
「あぁ。そうだったな……」
鷹揚に頷いた少年は、少しばかり顔を曇らせる。
「傷が癒えたばかりで済まぬが、奏が動いた。共に来てくれようか?」
その言葉に居住まいを正した少女は、即座に軍師の顔になる。
柔らかな笑みを湛えたまま、すっと片膝をつき、頭を垂れる。
「何時如何なる時も、我が君のお側に」
「すまぬ」
できることなら戦は避けたいと思っていながら、ままならぬ状況で兵を挙げねばならないほろ苦さを味わいながら、少年は小さく頷く。
「白虎殿も済まぬ。なるべく血で風を汚さぬようにしたいが……」
「時を動かすのは、俺達ではなく、おまえたち『人』だ。悔いなきようすれば、歩めばそれでいい。その時にできる、精一杯のことをやれば、必ず道は開ける」
花が散るように短い人生を歩む者達に、不死であるものは、それ以上の言葉を持たない。
ただ、その潔い一生に敬意を払うだけである。
「先に戻る。おまえ達はゆっくりと帰ってこい」
そう告げると、白虎神は空気に溶け込むように姿を消した。