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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
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「よく来ましたね、従妹姫」

 上質だが質素な袍に身を包んだ第一王子は、女官の案内で現れた少女に穏やかな笑みを浮かべて迎え入れた。

 第一正妃の第一子であり、摂政として務める文官第一の人でありながら、この王子は必要以上の華美を厭う。否、必要最低限度にしか、装わない。

 生まれつき病弱で、将として戦場に立つことが叶わないから、政治で民の暮らしを護ろうと、大学の博士達に教えを請い、そうしていくつもの難局を乗り越えてきた政治家である。

 翡翠の父、藍黄も、その博識振りと適切な采配に何度も舌を巻いたと言っていたのを、少女は聞いた覚えがある。

「お忙しいところ、突然の申し出を快諾していただき、ありがとう存じます」

 女官に礼を言い、退出したのを見届けた翡翠は、堅苦しい挨拶を口にする。

 彼女もまた、地味な官服を着用している。

 艶やかな髪をひとつに纏めている瞳と同じ綾紐が、唯一華やいだ雰囲気を醸し出している。

 王族の血を引く大臣家の娘だというのに、美しく装いもせず、まるで少年のような出立で、真っ直ぐに一の王子を見つめている。

「そう忙しい身でもないですよ。父君には優秀な文官がたくさん控えておられますしね。それに、そろそろこちらに来る頃かと思っておりました。怪我の具合はいかがですか? あまり無理をしてはいけませんよ、翡翠」

「おかげさまを持ちまして、すっかりと。大した傷ではございませんし」

 柔らかな口調、優しい眼差しで告げる青年に、翡翠は穏やかに返す。

「毒矢の傷は、大したことないとは言いませんよ。しかも、心の臓に近い背中に傷を負ったとのこと。処置が遅れれば、かなり危険だったと聞いております」

「どなたからそれを? わたくしの怪我は、内密のことになっております。報告が一の君様に行くことはないはずでございましょう。それに、三の君様は、この事を思い出したくもないご様子でございました」

 あの現場にいた者しか知らないことを告げた宰相の君に、少女は淡々とした声音で問いかける。

「白虎殿が仰いました。莱軌の仕業ですね? そなたには、本当に申し訳ないことをしてしまいました。莱軌は今、父君の仕置きを受けております。兄が戦場で、大将である弟の命を狙い、しかも卑怯にも刺客を放ち、毒矢で殺害せしめようとは……そなたに傷を負わせるなど言語道断。あまりにも罪が重すぎます。事は、単なる兄弟喧嘩で済むことではないのですよ、翡翠」

 椅子を勧め、用意されていた茶を促した第一王子は、嘆かわしいと言いたげに眉根を寄せる。

 もちろん、そのことは翡翠としても理解している。

 だが、それを表に出すのは憚られた。王族同士で命の奪い合いなど、外聞が悪いというどころの騒ぎではない。近隣諸国との外交上の弱みになる。

「その件は、どうぞ内々に……熾闇様はご無事でございましたし、莱軌様もこれに懲りられて莫迦な真似はなさらぬでしょうから」

「翡翠はそれでよいのですか? 莱軌はすでに心を病んでいます。そなたを傷付けたことには衝撃を受けているようですが、熾闇を害しようとしたことに反省などしておりませんよ」

「莱軌様が病まれていること、とうに承知しておりました。ですが、病はいつかは癒えるものでございましょう。気付いて下さればと、願うておりましたが……陛下のご判断のままに」

 仕方なさそうに俯き、頷いた翡翠は、表情を改める。

 凛とした武将の顔。

「一の君様に、お伺いしたいことがございました。我が姉のことでございます」

 いい加減な言葉では誤魔化されない歴戦の武将は、同じく歴戦の摂政を真っ直ぐに捉える。

「子細、お教えくださりませ。何故に、姉を遠ざけになりましたか? 大臣家の二の姫が一の君様に添えぬ理由をお教えくださいませ。どこに問題がございましたか」

「芙蓉に問題はない。従妹姫として、慕わしく思っていますよ。ひとりの女性としてはどうしても想えません。いえ、正直に申し上げましょう。わたしには、誰よりも愛しいと思える方がおります」

 深い湖を思わせるその翠の瞳に見つめられ、第一王子は正直に答えた。

「何方を、と、お尋ね申し上げてもよろしいでしょうか」

「名は明かせません。ですが、その方がお生まれになったとき、己の魂がその幼子に縛られるのを感じました。愛しいという言葉の意味を、初めて知り得たのです。その赤子が、この国の未来を左右する重き宿命を持つ者だと、白虎殿に教えられ、納得しました。そうして、この不甲斐なき我が身でも、その方に選ばれれば、少しなりともまともになるのではないかと、思いました。その方に選ばれることが、私にとって王位を得、少しでも長い時を生きる術になると、そう信じました」

 目を伏せ、そう告げた青年は、そのまま細く溜息をつく。

「身を病めば、心も病みます。浅ましくも、少しでも長く生きたいと足掻き続けるわたしは、もしかしたらその妄執と恋を履き間違えているのかもしれません」

「一の君様……」

「芙蓉の想い、嬉しいと思います。ですが、いつ消えるかわからぬ灯火のような命でありながら、他の女性に想いを寄せる夫が彼女に果たして相応しいでしょうか。従妹姫として大切だからこそ、幸せになってほしいと願います。ですが、わたしには彼女を幸せにすることはできないのです」

 穏やかだが決然とした表情で第一王子は呟くように言う。

「あの方が手に入らぬのなら、わたしの生に意味はない。王に非ず。それならば、このまま朽ちていきたいのですよ」

「何故、そのお相手の女性に御心を伝えようとはなさいませんのか?」

「わたしが年長で、そうして身分があるからですよ。望まなくとも、王族と言うだけで、皆が平伏し、特別に扱う。正妃の第一子……この身分ゆえに、それは形を変えた命令になってしまうのです。わたしが本当にほしい気持ちではないのです」

 少しばかり哀しそうな表情を浮かべ、青年は力無く首を横に振る。

 そうして何かを堪えるように目を閉じていた王子は、瞼を持ち上げ、翡翠を見つめた。

「この身に残された時間はあまりありません。彼女がわたしを選び、妃に迎える時間が……もう残されていないのです。翡翠、そなたは己が想う者の許へ嫁ぎなさい。決して国のためではなく、己の幸せのために生きなさい。それが、わたしの望みです」

 儚い笑みを湛え、そう告げる一の君に、翡翠は言葉を失った。

「馬を駆り、草原を走るそなたと弟が、わたしの唯一の憧憬でした。そなた達が後顧の憂い無きよう計ることが、わたしの誇りでした」

 穏やかに、優しい笑みで翡翠を見つめて告げる王子の言葉を聞きながら、翡翠は床に視線を落とした。

「一の君様、あといかほどなのでございましょう」

 握った拳に力を込め、男装の美少女は問いかける。

 その顔色は、とても悪い。

 蒼白といっていいほどである。

「半年ほどでしょう」

「……ッ!」

 静かに、だが穏やかに答えた青年の言葉に、翡翠はびくりと頬を引きつらせた。

「そなたが気にすることはない。わたしは自分の思うままに生きました。わたしの意志を継いでくれる者達もおります。充分すぎるほど幸せだと感じます。気掛かりなのは、そなたと弟たちのことだけです。幸せに、なりなさい」

 死期を前に、すでに己の生を悟った者のみが持つ、穏やかで澄みきった言葉。

「わたしが死した後、芙蓉の隣に稜貴殿がおられれば、心慰められることでしょう。政も少しずつ引継をし、その殆どを終えました」

 そうして翡翠は唐突に悟る。

 この王子は、すでに自分を死者として扱っているのだと。

 そうすることで、己が不帰の旅路につくときに、無用な混乱を避けようとしているのだと。

「一の君様、それではあまりにも……」

「これでよいのですよ、翡翠。人が生きた証は、必ずしも形で残るものではないのですから。今、この時にそなたに会えて良かった。もう逢うことはないでしょうが、そなたは生きなさい」

 青年の瞳がきらりと光る。

 透明な光が、瞳に輝きを添える。

 それが涙だということは、すぐにわかったが、それは頬を伝うことはない。

 誰よりも誇り高い人は、人前でなく事をよしとはしないだろう。

 そうして、病み衰えた姿を人前にさらすことも。

 作法に則り、洗練された仕種で退出の挨拶を述べた翡翠は、摂政の部屋を後にする。

 立ち尽くし、彼女を見送っていた第一王子は、微笑みをゆっくりと崩す。

 穏やかな仮面が削ぎ落とされ、苦しげに咳き込み、口許を覆う。

 ごふっと奇妙な咳をした青年の口の中に錆鉄の味が広がる。

 唇の端を滴り落ちる赤い糸。

 掌を染める鮮血。

 残る片手で苦しげに胸元を掻き、握り締めていた青年はふうっと溜息をつく。

「幸せになりなさい、翡翠。わたしが願うのは、そなたの幸せ……誰よりもそなたを愛していましたよ。そう、そなたが生まれた日から」

 蒼白の顔で、それでも幸せそうに王子は囁く。

「愛しています、翡翠。永久にそなたを……」

 本人には決して聞かせることのない想いを囁いた王子は、最後に得ることのできた朝露のような清らかで儚い一時の逢瀬に、至福の笑みを浮かべて目を閉じた。

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