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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
20/201

20

 綜家の第二姫、芙蓉の婚約が決まったということを、翡翠は王都に到着したその日、実母の口から初めて聞いた。

「……姉上が……? それはめでたきことですが、お相手は、一の君でいらっしゃいますのか?」

 驚きながら、姉の慶事に笑みを見せた娘は、軍装を解きながら母に問う。

 姉が秘かに第一王子に想いを寄せていることを知る翡翠は、穏やかな表情で言葉を紡ぐ。

「いえ……そうではないのですよ、翡翠。芙蓉は、外大臣のご子息であらせられる稜貴様の許へ嫁ぐことになりましたの。稜貴様は、ご存知よね、あなたは」

「はい。大夫であらせられる方ですね? 思慮深い落ち着いた方とお見受けいたしましたが」

「では、その方が、熱心に芙蓉に文を送って下さっていたことも?」

「……それは、初耳です」

 もともと、剣を手に取り、戦場を駆ける武将である翡翠は、色恋沙汰にはかなり疎い。

 公人としての稜貴は知っているが、その彼が姉に想いを寄せていたというのは、全く知らなかった。もっとも、親しく口をきいたことはないのだが。

「三の君様の早馬が到着する少し前だったかしら……正式に外大臣家から使者が立ち、そうして芙蓉がそれをお受けしたのです」

 おっとりとした口調で告げる母桔梗は、ほうっと溜息を洩らす。

「人の心というものは、かくも難しきことですわ。我が家の娘は三人。ひとりはすでに嫁ぎ、ひとりは婚約が決まり……残るひとりは、いかがなものかしら、翡翠?」

「さて。残るひとりは未だに幼きものゆえ、そのようなことは不調法。父上、陛下、白虎様の良きようにお任せいたしまする」

 鎧姿から、質素な官服に着替え終えた少女は、その瞳と同じ翡翠の綾紐で髪をゆるりと一つに束ねる。

「……この子は……望み望まれる方に嫁ぐことが、娘としての幸せのひとつでしょうに……何故に頑なになるのか」

 いつもの言葉に、桔梗は深々と溜息をつく。

「此度はいつまでこちらに?」

「それも風の思し召しのままに。少しばかり傷を負いまして、それが癒えるまでは静養するようには言われておりますが」

「怪我を?」

「心配ご無用。かすり傷にございます。我が軍は生真面目な者が多いので、そういう理由をこじつけてわたくしが休まねば、皆、休もうとはしませんので」

 くすりと笑って答えると、母は安堵したように頷いた。

 侍女達を呼び、鎧や袍を片付けるように指示を出しながら、桔梗は娘を見守る。

 襟の袷を気にする素振りで、翡翠は戸惑ったように溜息をついている。

「……母上、姉上は……?」

「皆様方と香を練っておいででしたよ。そろそろ終る頃かと思いますが……」

 意を決したように尋ねる娘に、苦笑しながら母は答える。

 戦場では怖れるものなしといわれる娘だが、家にあって姉とその友人を非常に苦手としているなど、誰が想像できようか。

 綜家最大の機密事項に、桔梗は笑いを堪えるのに必死である。

「そうですか。では、挨拶をして参らねばなりませんよね」

 気が重そうに呟いた少女は、母に一礼すると足取り重く部屋を出た。


「翡翠様? 翡翠様ではありませんの?」

 離れから母屋へと移り、そうして姉の部屋へと向かっていた男装の麗人は、その声にギクリと足を止めた。

 時間をずらしたつもりだったが、まだ姉の友人達はいたようだ。

 表面上は穏やかで落ち着いた様子の翡翠だが、内心ではこれから起こることへの恐怖に白虎神へ祈りを捧げたい気分である。

「翡翠様ですわ! いつこちらへお戻りに?」

「凱旋おめでとうございますわ。碧軍師のご活躍、颯州にも聞こえておりましてよ」

「ご無事でお戻りになられて、嬉しゅうございますわ。戦のお話、聞かせていただけませぬか」

 きゃわきゃわと色とりどりの鮮やかな裳を身に付けた娘達が、翡翠を取り囲むや否や、かしましく囀りはじめる。

 頬を染め、麗しの軍師へ憧れの視線を向ける姿はそれなりに可愛らしいと思えるのだが、相手がすべて年上であり、あの芙蓉の友人ということもあり、その迫力は生半可なものではないのだ。

「翡翠様、是非一度、我が家へお越し下さいませ。翡翠様に見ていただきたい書がございますのよ」

「抜け駆けは狡いですわ。わたくしとて、翡翠様にご覧に入れたい絵を用意しておりましてよ」

 本人をそっちのけで言い争いを始める仲の良さに、翡翠は頭痛及び眩暈を感じてしまう。

 どうしてこんなに元気なのだろうと、こっそり溜息をついていると、実に楽しげな笑い声が聞こえてきた。

「そこらで妹を解放してくれぬかな? 姫君方」

「綜将軍」

「季籐様……」

 綜家の長兄の登場に、娘達は頬を染め、優雅に一礼する。

 だが、季籐は少しばかり渋い顔をして末妹を眺めた。

「おまえな……家にいて、兄を役職で呼ぶか、普通?」

「申し訳ございませぬ。ただいま戻ったばかりですゆえ、つい……」

 家にいても有事の時では父を右大臣と呼ぶ軍師は、肩をすくめて答える。

「したが、兄上がこちらに居られるとは思いませなんだ。姉上にご挨拶に伺いましたが、長兄殿がこちらに居られるということであれば、偲芳兄上もおられるのでしょうか?」

「偲芳は奥の院に籠もってるぞ。さて、姫君方、お客人に礼を欠いて申し訳ないが、そろそろ末っ子を解放しては貰えぬか? 我らとて半年ぶりの再会で、積もる話があるのだが」

 飄々とした態度を崩さずに、季籐は娘達に妹の解放を申し込む。

「申し訳ございませんわ、季籐様。礼を失したのはこちらの方でございますわ。どうぞお許し下さいまし」

「私どもは、これで失礼いたしますわ」

 さすがに自分達の礼を失した態度の気付いた娘達は、大慌てで謝ると、急いでその場を立ち去った。

「──兄上、いささかやりすぎではございませぬか? あのように怯えられて……」

 さすがに気の毒に思ったらしい翡翠は、兄に呆れたような眼差しを向ける。

「可愛い妹の窮地を救ったというのに、その扱いはなかろう」

「限度がございましょうに」

「……逃げてしまわれましたの? 意気地のないこと」

 いささか低次元の争いを始めた季籐と翡翠を遮るように、呑気な声がかかる。

「芙蓉姉上……」

 がっくりと肩を落とした少女は、本来の用事を思い出し、さらに深い溜息をついたのであった。



 数カ月ぶりに姉と再会した男装の少女は、少しばかり躊躇う様相を見せたものの、姉自ら煎れてくれた白茶を手に、そっと溜息をついた。

 先程窮地を救ってくれた長兄は、二番目の妹に末っ子を引き渡すと、あっさりとどこかへ姿を消してしまった。

 普段は尊敬に値する季籐だが、こういう時だけは逃げ足が早く、恨めしく思ってしまう。

 もっとも、長兄の前では話しにくい話題ではあるのだが。

 もう一度、こっそりと溜息をついた翡翠は、姉に視線を向けた。

「戦勝、おめでとう存じますわ、翡翠」

 自分の分のお茶を煎れ、そうして茶菓子を用意した芙蓉は、妹を振り返り、にっこりと笑って祝辞を述べる。

「ありがとう存知まする、芙蓉姉上」

 ゆったりとした仕種で返礼した軍師は、姉が椅子に座るのを待つ。

「翡翠からも、祝辞を述べさせていただきます。ご婚約をなされたそうで……おめでたきことと存じます。姉上には、永きに渡り健やかにお幸せになられることを心より願っております」

「ほんに……わたくしの下は男の子だったのかしら? 妹だったと思っておりましたが、あまりにも堅苦しいことを」

 可愛らしく小首を傾げ、そっと切なげに呟いて見せた芙蓉は、悪戯っぽく笑う。

「自慢の妹だけれども、こういう事は不器用でいらっしゃること」

 くすくすと笑った芙蓉は、次の瞬間、真顔に戻る。

「何がお聞きになりたいのかしら、我が妹は?」

「本意かと」

 花の容を曇らせ、目を伏せた翡翠は、身を強張らせながら呟く。

 それだけで、芙蓉は妹が何を言いたいのか、悟った。

「えぇ。稜貴様はよい御方ですもの。すべてをご存知でわたくしを望んで下さいましたわ。あの方の許なら、穏やかに時間を過ごせるかと思いました」

「何故にとお尋ねしてもよろしいでしょうか。姉上は……」

「一の君様に振られてしまいましたの」

 あっさりとした口調で告げた芙蓉は、にこりと笑う。

 思わず顔を上げた翡翠は、姉の表情に何とも言いがたい顔になる。

「稜貴様には以前より佳約をとお話を頂いておりました。あの御方は、わたくしがお返事するまでは父君への正式なお申し込みを待って下さるとまで仰っていただきました。なれば、わたくしもお返事を疎かにするわけにも参りませぬ。はしたないとは思いましたが、一の君様にお逢いする機会がございましたので、思い切って打ち明けました」

 儚い笑みを浮かべた芙蓉の瞳が揺れ、涙で潤む。

 だが、それ以上の涙を許さず、芙蓉は言葉を続けた。

「わかっていたのです。あの方に想う女性がおられるということを。それでも良いから、お側に置いて欲しいと申し上げました。でも……」

 俯いた芙蓉の顔を隠すように宝簪がゆらゆらと揺れる。

「許しては頂けませんでした。我が身は病を得、いつみまかるかもしれぬものゆえ、心を与えることができず、奪うだけでどうして去れようかと。残り少ない時間、わたくしではあの御方お心をお慰めすることができないと思い知らされましたわ」

「……姉上……」

「今でも、あの御方をお慕い申し上げておりましてよ。おそらく、これからも……稜貴様はそれでも良いと仰っていただきました。その気持ちごと、わたくしを受け止めてくださると。それゆえ、わたくしは気持ちを定めました」

 きっぱりとした口調で告げた芙蓉は、見掛け通りのたおやかな乙女ではない。

 右大臣家の姫として、自分の役目を良く理解している娘である。

 姐姫が東の淙へと嫁ぎ、末姫が武将として国のために働くなら、己は国内安定のために相応の家のもとへ嫁ぐべきだと、幼い頃から自分へ言い定めていた。

 年頃の若い乙女の夢が潰えたのなら、昔より定めていたことを実行するのが当たり前だと、芙蓉は自分の役目を果たそうとしているのだ。

「翡翠、一の君様をお恨み申し上げないでくださいな。意に添えないで苦しまれたのは、あの御方も同じこと。誰よりも慕わしく想っているあなたにそのようなことを思われたら、一の君様も立つ瀬がないでしょう」

「芙蓉姉上」

「わたくしは大丈夫ですわ。稜貴様はよい御方ですもの。きっと、いつの日か愛しく想える日も来ますわ」

 懸命に言い聞かせる姉に、翡翠は苦笑を浮かべた。

「姉上。わたくしは、いつでも姉上のお幸せを一番に願うておりまする。なればこそ、姉上のお輿入れの時は、わたくしが行列の先触れを致しましょう。一の君様をお恨み申すなと仰るのなら、そのお言葉、従いましょう。どうぞ、お嘆きなさいますな。姉上にはいつでも笑っていただきたいと、不肖の妹は願うております」

 そっと細い肩を支え、優しく耳許で囁きながら、翡翠はかつての敵であった女帝を思い浮かべた。

 かの女性も叶わぬ恋に嘆いていた。

 他国の神に想いを寄せ、己の国とその身の破滅を願っていた。

 なんとも恋とは不可解なもの。

 そのような感情を理解したいとは思わない少女は、深い溜息をついた。

 姉には無難な答えを返したものの、事は王家と綜家の名に関わる。

 後日、こっそりと第一王子に会い、事の次第を確かめなければなるまいと、碧軍師と呼ばれる娘はそう思ったのである。



 その数日後、綜芙蓉の許へ、第三王子が手に一杯の花束を抱えてやって来た。

 武将として名を馳せているものの、それ以外のことにはとんと無頓着な少年が、何故の訪問かと不思議に思ったのだが、芙蓉は、彼が手にしている大きな花束を目にしたとき、嬉しげに微笑んだ。

 両手一杯に抱えたその花の名は、二の姫の名と同じ芙蓉。

 突然の御機嫌伺いの目的は、本人に会うためだとわかったせいだ。

「突然済まぬな、芙蓉殿。本来ならば、使いをやり、色々と手順を踏まねばならぬのだろうが、思い立ったのが先程ゆえ、この様な礼を失したことになってしまった」

 どうやって持ってきたのだろうかと、不思議に思うほど大量な芙蓉を前に、熾闇は屈託ない笑みでとりあえずの口上を述べる。

「我が妹の大切な方であれば、いつでも歓迎いたしましてよ、三の君様」

「それはありがたい。偲芳殿には翡翠を独り占めしていると嫌味を言われるゆえ、実は敷居が高くてな……そうそう! これを芙蓉殿に。何を持ってくればよいのかわからずに、花をお持ちしたが、気に入ってくれればありがたい」

 手にした花を侍女達に分け渡しながら、熾闇は芙蓉に率直に言う。

 なるほど、女性を訪ねるのに手ぶらではなるまいと気付いたところは、この少年にしてみれば上出来である。

 物心ついてからその殆どを戦場で過ごしているせいか、こういったことには妹同様かそれ以上に疎い熾闇は、秀麗な顔立ちをしているがあまり都の娘達の話題には上らないのだ。

 素直なのは美徳だが、いささか率直すぎるというのが、彼女達の弁だ。

「もちろんですわ。三の君様からお花を頂いたのは、きっとわたくしだけですわね。このままずっと大切に取っておきたいと思いましてよ」

「……面白いことを言うものだな。花は毎年咲くものだろう。これだけをそのままの形でとっておいても仕方ないことだと思うが?」

「取っておきたいのは花ではありませんわ。送って下さった御方の心ですの」

 にっこりと笑った芙蓉は、侍女の手から芙蓉の花枝を一本手に取ると、大事そうに花を眺める。

「この花には、三の君様がわたくしのためにと思ってくださった心が宿っておりますわ。わざわざ『芙蓉』をお選びいただいたのは、そのためでございましょう。それゆえ、わたくしはとても嬉しいと思うのですわ」

「なるほど」

 納得した面持ちで頷いた熾闇は、ふといいことを思いついたとばかりに笑みを浮かべる。

「では、毎年この時期に、芙蓉殿のためにその花を贈るのはどうか? 芙蓉殿は喜んでくれるだろうか」

 少年らしい無邪気さに、芙蓉にも笑みが零れる。

「ありがたい仰せですこと。もちろん、わたくしは三の君様のお心に触れることができ、とても嬉しいと思いますが、それでは三の君様の大切なお方が不愉快に思われることでしょう。女性に花を贈るのは、特別なときにだけになさいまし」

 年上の女性にそう言われ、熾闇はあっさりと納得する。

 もとより、翡翠が頭の上がらない女性であるゆえに、彼に最初から勝ち目はないと悟っているだけに、熾闇の態度は他の誰よりも素直である。

 無用なとばっちりは避けたいと、そう願っている態度がありありとわかる。

「それだが、芙蓉殿! 最初に言うべきであったのを順番を狂わせてしまった。婚約をされたとか、お祝いを申し上げる」

「まぁまぁ……ありがたいことですこと。そのためにわざわざ?」

 熾闇の用件が婚約祝いだと知った芙蓉は驚きのあまり目を丸くする。

 普通、貴族の婚約には王家からは何も贈られない。華燭の儀に初めて祝いの品が贈られるのがしきたりである。

 慣例を知っているはずの少年が、それらを無視してやって来たことに、芙蓉が驚いたのも無理はない。

「まぁな。芙蓉殿は従姉妹殿ゆえ、俺個人として祝いに来た。それではまずいだろうか」

「いいえ、いいえ! 嬉しいですわ。熾闇殿のお優しいお心、わたくし、とても嬉しく思いましたわ。これほど嬉しいことはありません」

「……そうか。そなたの妹御を取り上げて申し訳ないと思っているが、俺も翡翠がおらぬと色々と困るゆえ、許してくれ。芙蓉殿は翡翠の大切な姉上、そうして俺の従姉妹殿。幸せになって欲しいと思う。そのためには、俺もできる限りのことをしよう。何なりと言ってくれ」

「わたくしは、ほんに幸せ者ですわね。颱きっての名武将にそこまで仰っていただけるとは……わたくしの願いはただひとつですわ。熾闇様と翡翠が健やかに過ごされることだけですの。この風のように、健やかに伸びやかに過ごされてくださいませ」

「わかった。約しよう」

「翡翠を、お願いいたします」

「あぁ」

 佳人の言葉に、熾闇は素直に頷いた。

 その裏に隠された想いにはまったく気付かずに、額面通りに受け取り、あっさりと首肯する。

「翡翠は離れにおりますわ、熾闇様。どうぞお逢いになってくださいませ。その後で、わたくしとお茶を飲んでくださいませ。お約束いたしましたわよ」

「わかった。翡翠を連れてくる」

 笑みを浮かべた少年は、年長の女性に対する礼儀にかなった仕種で一礼した後、乳兄弟の許へ急ぎ走り出した。

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