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朝、寝台で目覚めた第三王子熾闇は、昨夜の出来事を思い返し、苦笑を浮かべる。
麒麟の守護者と、天帝の卵たる麒麟との関係は繰り返される夢で大体のことがわかってきている。
なぜ、あのような夢を見るのか、彼には朧気にわかっている。
過去の麒麟たちが、繰り返される絶望に苦慮し、夢という形で己の記憶を当代の麒麟に送っているのだろう。
それだけ彼らの心の闇が暗く深いということだ。
「同じ轍を踏むなということであるなら、ありがたく思うが、あの感情に同調するのはいささかな……」
戦場を目の前にしての悪夢は、あまり嬉しくはない。
そもそも見たいとは思わないのだが、一方的に送りつけられる夢を忌避する方法を彼は知らない。
「白虎殿に聞いてみた方がいいか……だが、あの方は時間と風だから、夢は別の方だろうなぁ」
四神獣は、四長揃って天帝と同等の力を持つという建前である。
実際は、その時々によって、天帝の持つ力が異なるため、均衡を保っているとは言いがたい。
誰がどの力を持っているのか、詳細はそれぞれの神獣族の者たちしかわからないだろう。
そうして、現帝の耳に触れないように、その力を秘しているかもしれない。
白虎族が時間に干渉する力を持つと公言しているのは、ある意味、牽制なのだろう。
時間に干渉することが出来るということは、先の未来を変えることが可能なのだ。
つまり、天帝自身を存在しないものとして過去に干渉すれば、彼の運命はすでに閉じているということになる。
そうなりたくないのなら、四神族を滅しようなど思うなと、白虎神が言ったのだろう。
一族を、そうして四神を守るためなら、彼はそのぐらい言ってのける性格をしている。
天界の武神将である白虎は、武術と神力のどちらで屠られたいかと聞きそうである。
なぜ彼らが、人界を封土として与えられ、守護神となったのか、今の彼にはなんとなく話が見えてくる。
そうして、四神の長たちが、あえてそれに反目せずに従ったのかも。
ぐるぐると考えていた熾闇は、首を振って考えを打ち払う。
「夢ひとつ制御できないのかと笑われそうだ。やめておこう」
これ以上は見たくないと思えば、きっと過去の麒麟たちも夢を見せるのは止めるかもしれない。
彼らは、熾闇が天帝位を目指すことを阻止したいだけなのだから。
「どちらにせよ、俺にも翡翠にも、過去の干渉は必要ないんだけどな」
昨夜は守護者にどちらも翡翠にかわりないとは言ったものの、やはり大事なのは親友たる娘の方だ。
苦楽を共にしてきた相手と、過去の意識とでは、やはり重きが違う。
「翡翠の方も何とかしないと困るよなぁ……」
夜着を脱ぎ捨て、用意された衣に袖を通しながら、若者は少々自分勝手なことを呟いてみた。
風は西から東へ柔らかく通り過ぎる。
草原の草を薙ぎながら、目に見えぬはずのそれは己の存在を誇示してみせる。
風の長の傍近く、目に見えぬ風霊たちがくすくすと楽しげな笑い声を響かせている。
風霊たちのお目当ては、今この場で舞っている舞い手の衣装である。
見事な舞を披露する舞い手が翻す袖や裾を優美にかつ大胆に翻して遊ぼうとしているのだ。
白虎の不況を買わない程度、より舞が美しく見えるようにと、彼らなりの趣向を凝らしているつもりらしい。
黒髪の舞い手が舞うのは男舞。
壮麗な剣舞である。
戦を始めるために、神に捧げる舞としては最高のものだろう。
戦勝祈願ではないが。
決して激しい動きではない。
むしろ、静かでゆったりとした仕草である。
緩やかな動きであるがゆえ、舞い手の力量が物を言う。
しなやかな指の表情、揺ぎ無い足捌き。
夢見るような穏やかな面とは対照的に、細部まで神経が行き渡り、力が漲っている。
それでいて、どこまでも自然体である。
風が奏でる音のみが、その舞の伴奏である。
無音に近い静かな舞。
だが、見る者の脳裏には豊かな曲が流れているように感じ取れる。
舞を志す者がこの舞を目にすれば、恍惚を覚えるか、己が才の乏しさに絶望するか。
それほどまでに、素晴らしい舞である。
姿が見えぬモノを除けば、観客はふたりである。
颱国第三王子熾闇と、颱国を守護する四神族の西の長。
本性は純白の毛並みを持つ虎であるが、神獣である彼は人形を取ることもある。
天界にいるときは、ほぼ人型であるのに対し、人界ではその大半を本性で過ごしている。
その理由は『面倒臭いから』といういことであるが、どこまで本当なのかはわからない。
今は白い髪と少しばかり青が混ざった銀の瞳を持つ青年の姿を取っていた。
満足そうに目を細め、口許に笑みを刷き、舞い手の姿を追っている。
風の神は、舞い手のために心地良い風を作り出し、そうして封土の隅々まで風の恩恵を分け与えているのだ。
舞は、型通りの所作を追うのではなく、その時々の感情が込められる。
その感情こそ、彼ら天界に住まう者たちの何よりの好物なのだ。
神や自然に対する感謝の念。
浮き立つような楽しげなもの。
陽の気の塊を眺めるのは、まるで輝きを放つ宝玉を眺めるような心地である。
見事な舞い手ともなれば、見るものをも惹き込み、さらに大きな感情の渦を作り出す。
その稀有な舞い手のひとりがここにいる。
それを独占するなど、贅沢の極みだろう。
いつもならば、白虎ともうひとり、彼女の舞を独占する権利のある王子は、見事な舞に感動の嵐の最中であるはずが、今日に限って思考の渦に溺れている。
落ち込んでいるのとも、微妙に異なる。
ようやく少年の域を脱し、青年と呼べる年に手が届きそうな若者は、気分が滅入ると舞を所望する癖がある。
だが、今日はそれとは少し違うらしいと、つぶさに観察した白虎は思う。
多少鬱屈しているらしい。
その鬱屈の原因が、事もあろうに彼の大好きな従妹兼乳兄弟兼親友である娘だから驚きだ。
否。
ある意味、当然の結果だろう。
それこそ生まれる前から一緒にいる幼馴染が、肉体は彼女であってもその中身がまったく異なるモノであれば。
白虎にとって懐かしい知人ではあるが、不自然であることは否めない。
現在、舞を舞っているのは翡翠自身のようである。
かつて麒麟の守護者だった友も、舞は下手ではなかった。
だが、彼の愛し子ほどの才能はなかったようだ。
機織姫は、かなり気前良く綜家の末娘にあらゆる才能を与えている。
それは過酷な運命を与えることへの罪滅ぼしだとでもいうのだろうか。
大きすぎる才能は、時として人を破滅へと導く。
そのことをあの機織姫は知らない。
人を愛しながら、人の世について学ぼうとはしなかったからだ。
当代の麒麟の守護者たる翡翠が、かの姫に反発を覚えても仕方ないだろう。
あまりにも彼女は身勝手すぎると、白虎ですら思うからだ。
そうして、機織姫が与えた歪みが、今現在、翡翠を苦しめているといっても過言ではない。
過去の守護者たちの意識が面に出れば、本来、その肉体の持ち主である翡翠の意識は押し込められた状態である。
あの誇り高き娘が抑えられ、おとなしく出来るはずもないだろう。
今はわざと主導権を渡しているとしか思えない。
そのことを理解できていないらしい熾闇が混乱して、鬱屈をためているのが現状だろうと、白い虎の化身は思う。
だが、麒麟の理に四神族は介入できない。
それが天界の理だからだ。
現在、天帝位にある簒奪者を討つのは簡単だ。
あの狡猾で猜疑心の塊のような男は、常であれば決して天帝に選ばれることがなかったほど弱い。
だが討ては、その場で熾闇が次の天帝となってしまう。
熾闇は颱の次期王になることすら拒むほど、地位に興味を示さず、逆に疎ましく思っているような若者だ。
守護者は麒麟の意思を常に尊重し、先回りする。
機織姫と麒麟の守護者。
今回ばかりは何を考えているのか、それを読み解く気すら白虎にはない。
「おまえら、一体何を考えてるんだ?」
思わずぼやきたくなってしまっても仕方ないだろう。
「それより、熾闇の方が先だろうな。話だけでも聞いてやるしかなかろう」
舞を見ても気が晴れた様子を見せない若者を気の毒に思いながら、白虎はこっそり溜息を吐いた。