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「……っ!!」
誰かの名を叫び、目が覚める。
頬を伝う涙に気付き、熾闇は顔をしかめる。
「……またか……」
簡素な寝台から起き上がり、手の甲で涙を拭う。
実は、これが初めてではない。
たびたび奇妙な夢を見ているのだ。
かつての己自身の記憶。
麒麟だった者たちの生き様が、こうして夢となって現れるのだ。
今までの麒麟たちはすべて天帝位を望み、天界へと昇った。
無事位に就いたもの、道半ばで倒れたもの、様々であった。
だが、天帝位に就いたものすべて、己の選んだ道を玉座に就いた直後に後悔していた。
守護者を失う悲しみは、身を引き裂かれるようなものであった。
そうして誰もが、己自身に呪詛をかける。
二度とこの道を選ばぬと。
しかし、生れ落ちた麒麟たちは必ず天を目指すのだ。
「悔恨、なんて生易しいものじゃないな……」
あの慟哭は、役目すら放棄して直ちに己の心の臓を止めてしまいそうなほど、深い嘆きに満ちていた。
己の半身、否、総てと言っても過言ではないほど信を置いた人を失う辛さ。
その危険性にまったく気付かなかった己の愚かさ。
後を追いたいほど辛いのに、追うことができない悔しさ。
己の馬鹿さ加減もさることながら、天帝位に対する憎しみは深い。
「俺は、天帝になどならぬ」
記憶という呪詛を与え続けられる若者は、内なる麒麟たちにそう告げる。
ざわめいていた感情が、その一言で収まっていく。
「翡翠を失ってなどたまるか!」
同じ年、異性という歴代とはまったく異なる麒麟の守護者に執着を持つ熾闇は、唇を噛み締める。
今までの守護者たちは、保護者といえるほど年齢が離れ、そして同性であった。
この差異は、機織姫の介入のせいだという。
だが、そんなことはどうでもいい。
従兄妹であり、乳兄弟であり、親友である翡翠を手放すつもりは毛頭ない。
あの輝かしき存在を灰燼に帰すなど、ありえない。
生涯、それこそ天寿を全うするまで共に颱のために戦うと誓ったのだ。
今は少しその想いは違うのだが。
「早く戦いを終えて、あいつに好きなだけ舞をさせたい……戦いよりもそっちのほうが似合うやつなのに」
痛む心臓を押さえ、小さく呟く。
書でも絵画でも、楽でもいい。
穏やかな空気の中、楽しげに口許に笑みを刷いてそれらに勤しむ彼女の姿を見ることができれば。
「どうすればいい? 天界の介入をこれ以上赦すわけにはいかぬことは明白だ。しかし、翡翠に知られぬように行うこともできん」
天界の住人は、熾闇が天帝位を望むと思い込み恐れる者と歓迎する者に分かれている。
彼が天界へ行こうと思った瞬間にも翡翠にばれる可能性が高い。
「まったく。地上でも大変だというのに、天界まで面倒見切れるか!」
盛大な愚痴が、まさしく今の彼の心境である。
「完全に三界を断ち切るのも難しいしなぁ……」
深々と溜息を吐いたそのときであった。
「どうかなさいましたか? 熾闇様」
居室と寝室を区切る扉代わりの幕布の向こうから柔らかな声が問いかけてくる。
中性的なやや低めの落ち着いた声。
「翡翠!?」
まさか、彼女がここにいると思わず熾闇は慌てる。
「大丈夫だ! なんでもないっ!! ってゆーより、何でお前がここにいる!?」
「先程、わたくしをお呼びになりませんでしたか?」
すべてを許すと告げているにもかかわらず、中に入ってこようとはせずに幕布越しに話しかけてくる娘に、どちらが女性なのかわからなくなる。
「……おまえを……!?」
いぶかしげに呟いた若者はぎくりとする。
確かに、翡翠ではない誰かの名を呼んだ。
かつての守護者の名を。
もしかしてそのことを指しているのだろうか。
「三の君様?」
「あ。いや……翡翠、入ってかまわないぞ」
溜息混じりに告げれば、幕布を押し上げ、翡翠が中に入ってくる。
「熾闇様?」
従兄の様子がおかしいと、眉をひそめた翡翠は簡素な寝台に近づき熾闇の額に手を伸ばす。
「汗をかいていらっしゃいますね。着替えと汗を拭く用意をしてまいります。少々お待ちください」
「いや、このままでかまわん」
「風邪を引いてしまいますよ? 総大将が戦の真っ只中、風邪を引いて寝台に縛り付けられているなんて無様な真似をなさいますか?」
呆れたような表情で見下ろしてくる従妹に、かつての武将の姿を重ね、熾闇は苦笑する。
「おまえは、いつまでたっても心配性だな。俺も一応成人しているんだが」
「確かに、外見はそうでしょうが、中身はどうなんでしょうね? すぐに用意してまいりますので、そのまま寝入らないように」
まるで幼子に言い聞かせるように告げた娘は踵を返すと一度姿を消し、そうして湯気の立つ水桶と手巾、着替えを手に戻ってくる。
「さて。ご自分で脱がれますか? それともわたくしがいたしましょうか?」
「自分でやるっ!!」
大慌てで答えれば、笑い声が返ってくる。
湯に手巾を浸し、固く絞った翡翠が夜着を脱いだ熾闇の背を拭く。
「だから! 自分でやれるって……」
「背中はさすがに無理でしょう?」
「しかしだな」
「今更、恥ずかしがるようなことですか? 今まで何度してきたと思っているのですか」
「それは、そうだが……やっぱり、その……」
言い淀む熾闇に翡翠が溜息を吐く。
「……非常に申し上げにくいのですが、わたくしの天幕に忍び込んで、人の寝台で眠ったり、湯浴み中に踏み込んだりした方が、何を仰るのでしょうか……あぁ、そう。街に下りた帰りに、雨に降られて濡れて帰ったときに、風邪を引くと人の服を剥いだりしましたよね?」
「それはっ!?」
「それは?」
「……三年前に俺がやらかしました……」
反駁しかけた熾闇だったが、にこやかな笑みをたたえて問う翡翠に迫力負けし、しゅんと肩を落として懺悔する。
「えぇ、そうですね。記憶力はまだ衰えていないようで安心いたしました。それに比べれば、たいしたことではありませんね? おとなしくなさってください」
主の言葉を封じた娘は、楽しげに笑うと作業を開始する。
言葉通り、背中だけを拭き、再び手巾を湯で洗い、固く絞ると若者に差し出す。
「わたくしは湯を換えてきますので、その間にどうぞ」
「すまん」
わざと席を外してくれる卒のなさに感謝しつつ、乳兄弟の背を見送る。
歴代の守護者の背と見比べても、かなり小さく感じるのに、その誰よりも力強く思えるのはなぜなのだろう。
守りたいのに、守られてしまっているのは、やはり彼女が守護者だからなのだろうか。
答えの出ない疑問を胸に、彼はこっそりと溜息を吐いた。