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白く輝く世界。
階が目の前に広がる。
「……我が君、あれが玉座にございます」
低く落ち着いた声が背後から聞こえてくる。
幼い頃から聴き馴染んだ声だ。
「お進みなさい。あの至高の玉座に座したとき、御身が天帝となりまする」
「あれが、黄の玉座か……」
「御意。御身の為に散って逝った者たちもこれで報われましょう。すべて、このときの為にと……」
感慨を持って呟く青年に、壮年の男の声が応じる。
「おぬしのおかげでここまで来れた。礼を言うぞ、……よ」
彼が生まれた時からずっと傍らにいた守護者の名を告げたはずなのに、言葉にならない。
そのことに彼は戸惑いを浮かべて振り返る。
「……?」
何度、彼の名を紡ごうとするのに、音にならない。
「どうなされました、我が君? さあ、玉座に」
遥か彼方に在ると思われた玉座が目の前にある。
そこに座ってはいけないような気が、突然彼を襲う。
だが、ここまでどれだけの血を流したかは、彼が良く知っている。
彼らのためにもこの血に濡れた玉座に座らねばならぬのだ。
黄金に輝く玉座に、かれは躊躇いながらも腰を下ろす。
ざっと床を蹴り、膝を付き、頭を垂れる音がする。
人界に生れ落ちた麒麟が、天へと駆け上り、そうして天帝位に就いた瞬間であった。
「我らが主に永遠の忠誠を」
朗々たる声が響き渡る。
今まで苦労を共にしてきた人々だ。
人界から天界へと駆け抜けて、獅子奮迅の戦いを繰り広げてきた強者たちである。
「皆に礼を言う。よくぞここまで我を助けてくれた」
至高の座に就いた青年が、礼を述べる。
その言葉に、さらに深く額づく兵士たち。
そこへ、一陣の風が吹いた。
風に溶け込むように兵士たちの姿が崩れ去っていく。
「……な……!?」
今まで一緒に戦ってきた戦友たちの姿が灰塵と消えていく様に、青年は驚いて立ち上がる。
「お別れにございまする」
堂々たる偉丈夫が笑顔で告げる。
「なぜだ!? これからだぞ。お前たちに俺は何も報いていない!」
半ば裏切られた想いで、彼は叫ぶ。
「これから御身がこの天界で行う正道が我らにとっての恩賞にござれば、気になさることは何もござらぬ」
満足げな笑みをたたえ、守護者が告げる。
「何より、すべて覚悟の上。御身が玉座に座したとき、我らは再び地に還る」
それは、人界に戻るという意味ではないことは、明白であった。
「何故……」
「天界と人界では、時間の流れが違うのだ。すでに地上では数百の年月が過ぎている。例え地上に戻ったとしても、この身は朽ちる。いずれも同じことよ」
「知っていて、なぜ、おぬしたちはついてきた!?」
「夢を見とうござった。御身が至高の座に就く夢を。それが叶えば、思い残すことはござらぬ」
守護者が語る背後で、風に溶け込むように共に戦ってきた男たちの姿が消えていく。
「まさか、おぬしまで」
「それが理というもの。守護者は麒麟を玉座に導くもの。役目を果たせば、消え逝くもの」
「……待て。逝くな!」
己を育てたもうひとりの父とも呼べる存在との突然の別れに、彼は畏れる。
「あんなに小さかった和子が、このように大きくなろうとはの」
目を細め、愛しむ様に男が彼を見つめる。
「何の憂いも悔いもなく、このときを迎えられるとは……」
「俺は何もまだ報いておらぬ! 逝くことは許さぬ!!」
「もう充分生きた。報いてもらった」
「ならぬ! ならぬぞ!!」
触れようと手を伸ばしても、何故か届かぬことに青年は怯える。
「こんなことになるなら、俺は天帝になぞならなかった!」
血を吐くような叫びが響き渡る。
「これが、天との約定だ。善き主になれ。天界の平穏が、人界の安寧に繋がる。時、満ちればまた会えもする」
さらさらと音を立て、守護者の身体が灰塵となり始める。
「待て!! 逝くな!!」
悲痛な叫びとは対照的に、麒麟の守護者は満ち足りた表情を浮かべている。
「なぜ、おぬしを失わねばならぬ!? 天の約定など俺は知らぬ! 俺はまだ半人前だ! おぬしがいなければ……っ!!」
「我が身が滅んでも、我は守護者。常に御身を見守っていよう」
「………………………………っ!!!!!」
声にならぬ悲鳴が空気を振るわせる。
叫びが雷鳴を轟かせ、天地が鳴動する。
新しき天帝の慟哭に共鳴しているのだ。
「こうなると知っていたなら、天帝になどなりはしなかったものを……」
床に拳を叩きつけ、涙に暮れた青年が呟いた言葉は我が身に向けた呪詛であった。
「……、おぬしが望んだがゆえに、今生の俺は天帝として務めよう。だが、次はこの道を選ばぬ! おぬしを失う道など、決して!!」
その言葉を呟いた時、彼は以前にも同じ言葉を紡いだことを思い出す。
今ではない、前世の己が同じ言葉を。
否。
その前も、それ以前も、何代にも渡って同じ言葉を呟いてきたことを。
「麒麟になど、生まれとうなかった……二度と、この道を選ばぬ」
何度も呟き、そうして、また同じ道を選んでしまう愚かな理。
そして、再び、麒麟の卵が地上に落とされた……。