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一刻後に会議は終わり、明日の出立に向けてそれぞれが己の向かうべきところへと足を向ける。
参謀室へと向かう娘の背に、声をかける者がいた。
「軍師殿。お話が……」
「蒼瑛殿……何事でしょうか?」
足を止め、振り返った翡翠は穏やかに問いかける。
「用件は既におわかりでしょうが……先手を打ってもよろしいのではないかと思いまして……」
「先手……つまり、刺客を放てと仰りたいのですか?」
「えぇ、そうです」
常にその手の話を切り出すのは、蒼瑛のみである。
この男の発想に、禁忌はありえない。
むしろ、被害が最小限に抑えられると判断した時には、あっさりとその手段に出ることを提案してくる。
もちろん、その大半が彼の親友が瞬時に却下してしまうのではあるが。
「神力を人界で放てないという制約があるのなら、刺客は有効だと思いますが、いかがでしょう?」
「有効……そうですね、制限は確かにありますが、有効ではないとお答えしましょうか?」
「なにゆえに?」
「人を害するわけにはいきませんが、己の身に突き立てられる刃を砕くことくらいなら、許されるのですよ」
「……あぁ、なるほど。確かに、それでは殺せませんね」
あっさりと納得した男は、別の切り口で同じことを言い出す。
「では、同じ神族でしたら、どうでしょうか?」
「神族同士なら、互いに神力を使うことは可能ですから、あとは力がより強い者が勝つ……それは、言えますね」
「それでもあなたは厭われますか?」
真面目な口調で問いかける美丈夫に、翡翠は笑う。
「いえ。実は、その点に関しては、私も考えてはおりました。もっとも確実に事を運べる者を送り込めば良いと……」
「まさか、ご自分で出向かれるような真似はなさらないでしょうな?」
おそらく反対されるだろう事を予測しての言葉は、簡単すぎるほど受け入れられ、そのことに懸念を抱き、問いかけてみれば、視線をそらす娘がいる。
「翡翠殿! 提案した私が言うのもなんですが、そればかりは承服しかねますよ!! あなたがご自分の手を汚さずとも……」
「既に汚れておりますよ」
にこりと笑った娘は、その笑顔ひとつで男の言葉を封じてしまう。
「国をいくつ潰そうとも、私は後悔いたしませんし、この身が血で穢れていても、何の躊躇いも覚えません。ご存知でしょう?」
「えぇ。そういうあなたと殿下だからこそ、私はあなた方の旗下に降ることをよしとしたのですから」
「ならば、その時はお任せくださいませ。わたくしは、この国を守るためでしたら、化物と呼ばれる道でも喜んで選び取りましょう」
静かに告げる娘を、蒼瑛は眩しげに目を細め、眺めやる。
「血の海に浸かりながらも、あなたの魂は決して穢れることはないということを失念しておりました。あなたの示す道に、乗りましょう。だが、嵐泰はあなたを全力で止めようとするでしょう。それだけはお忘れなく」
「承知いたしました。そのようなことがないように、心掛けましょう」
誠心誠意、犀将軍の言葉を受け止めた娘は、真面目な表情で頷いてみせる。
「では、またあとで」
そう告げた軍師は、参謀室へと向かうために歩き出した。
参謀室の前でさらに客人を見つけた娘は、ひそりと溜息を吐く。
「……お待たせしてしまいましたか」
穏やかな口調で問い掛け、笑みを浮かべる。
「申し訳ない、軍師殿。ちょっと、お伺いしたいことがありまして」
大らかな笑みを浮かべて手を振ったのは、来公丙である。
その隣に、笙成明と嵐泰が立っている。
実に珍しい組み合わせだ。
特に公丙は、堅苦しいことを嫌い、参謀室に足を向けることなど殆どと言っていいほどないのだから。
「先程の軍議に何かありましたか?」
「あー……いや、その……」
水を向ければ、困ったように視線を彷徨わせる公丙の姿がある。
「どうやらわたくし、相当に信用がないようですね」
くすっと笑って応じれば、決まり悪そうな表情が並ぶ。
「信用は、充分にしております。だが、あなたはご自分を粗末にされる傾向にあるゆえに、どうにも」
心配だという言葉を飲み込んだ嵐泰が、溜息まじりに告げる。
「できれば、臨機応変などと仰って、ご自身を囮になされないようにお願いに参りました」
硬い表情で成明が進み出る。
その点に関しては、痛いところを突かれてしまった翡翠に言葉はない。
「とりあえず、此度は囮になるつもりは毛頭ございませんので、ご安心を」
何とか紡ぎだした言葉も、疑問視する瞳の前には表面を滑り落ちるだけである。
「先の、十二人の神族の件がございます。我らを結界に閉じ込め、自らが前に出られた」
ぼそりと成明が呟く。
「それは……」
「彼らが神族の中でも相当な使い手であるがゆえ……理由はわかりますが、承服できかねる」
結界の中で為す術もなく、ただ見守る立場に置かれた歯痒さは、おそらく理解出来まいと、嵐泰が告げれば、残るふたりも大きく頷く。
「本当に信用をなくしましたか、わたくしは」
苦笑を禁じえないとはこのことだろうかと、翡翠が溜息を吐いたとき、背後から足音が聞こえた。
「おや? 取り込み中ですか、翡翠?」
穏やかな笑い含みの声。
「偲芳兄上!?」
振り返った翡翠は、軽く目を瞠る。
二番目の兄は、もう一人、連れを伴っていた。
「翡翠っ!! 無事かっ!?」
そこへ、白虎が突如として空を割り、姿を現す。
真白き獣の姿で、偲芳の背後に立つ男に向かい、今にも飛びかかろうと牙をむいている。
そのいつにない警戒心剥き出しの態度に、武将達もいつでも剣を鞘から抜けるように構えの姿勢を取る。
「偲芳兄上、そちらの神族の方はどちらの方でございましょう?」
「おまえの許婚……なんて冗談が言えないようですねぇ。白虎様までそのような態度を取られるとは……」
穏やかで真面目な印象が強い文官の偲芳だが、融通の利かせ方はさすが綜家といえるほど柔軟な思考の持ち主なのだが、今回はそれを遺憾なく発揮できる状況ではないようだ。
「えぇ。そのようですね。何方に紹介なさるためにお連れになられたのでしょうか?」
「こちらの方は、母上を頼られて来られた方で、おまえに会いに来たのだよ。兄上が今にもこの方を害されそうだったので、私がご案内役を母上から仰せつかったのですよ」
「季籐兄上……」
末っ子に甘い兄達は、きっとこの客人を巡って熾烈な舌先を繰り広げたのだろう。
一番上の兄が今頃弟に負け、傷心を抱えている姿を想像し、翡翠は軽く笑いを堪える。
「翡翠! 呑気に笑っている場合か!? こやつはっ!!」
眉間に皺を刻み込み、白虎が唸る。
その怒りを抑えた様子に、宙を漂う風霊たちが怯えている。
「天帝位を持つ方のそう遠くない血脈に列なる御方でございましょう? ようこそ遠路遥々人界まで」
にこやかに告げる翡翠の言葉に、綜家の兄妹以外の者たちが凍りつく。
「………………あなたが、話のわかる方でよかった。守護者殿」
あからさまな怒気や警戒心にさらされ続けた客人は、ほっと安堵したようにそう告げる。
「私は、機織姫の遣いだ」
人界、特に颱において、非常に神族が警戒される状況下に、わざわざ降り立った使者は、些か困ったような表情でそう告げたのである。




