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密かに放った手の者の報告を読み終えた娘はわずかな安堵の息を吐く。
西の地に張った結界は、今も息づいている。
決して破られたわけではない。
天界最強の守護者の結界を破れるような者は、この世にはたったひとりしか存在しない。
だが、その存在が彼女の張った結界を破ることはないだろう。
今回のことは、ある一定の条件が満たされたために起こった現象だと、彼女は結論付ける。
勿論、それが許されるべき出来事であるはずもないのだが、それでもその条件が相手に伝わった様子はみられない。
本来であれば、その条件が満たされることも、ありえなかった。
西の地の守護者が戻るまで、同じことが二度と起きないように、結界に手直しを加えた娘は、条件が満たされた経緯を探るかどうかを悩む。
偶然として片付けるべきか、そうでないか。
彼女の出した答えは、否、であった。
徹底した原因究明を行うこと。
それを、配下の者達に伝える。
神族の血を持ち、麒麟の守護者への絶対的な崇拝と忠誠を抱いた者たちだ。
その言葉に従い、彼らは独自の判断で動く。
彼らに任せて大丈夫だという信頼関係はすでに築かれている。
次の問題をどう片付けようかと、娘がその漆黒の髪に手を触れたとき、天幕の外から声が掛かった。
天幕の外へ顔を出した翡翠にとって意外でもなんでもない、だが、ここにいること自体、非常に問題となる人物であった。
白一色の軍装。
これで、髪と瞳の色が白であれば、誰もが白虎神に列なる神族であると思うであろう凛々しい顔立ちの若者。
だが実際には闇色の髪と暁の瞳を持つ人間である。
若者は、翡翠が姿を見せたことに屈託のない明るい笑みを浮かべた。
「翡翠……」
「………………」
随分と背の高くなったその王子を見上げ、視線をそらした翡翠は、ふと溜息を漏らす。
明らかに心底呆れた様子に、熾闇がむっとする。
「出会い頭にその態度はなかろう!?」
「あれほど、己の立場をお考えくださいと申し上げているのに、一向に態度を改めてくださらない方に対して、他にどのような態度を取れと?」
「常に考えているぞ!」
「ならば、これは何ですか!?」
「乳兄弟で従姉妹で親友のおまえの許に、何故俺が来てはいけない!? おまえが何故、俺を否定する!?」
何故、初っ端からこうも喧嘩腰になってしまったのだろうか。
お互いにそう考え、それでも止まらずに言葉は続く。
「総大将の居られる本陣と、わたくしの天幕の位置関係をお考えくださいませ。いくら、陣内とは申せ、端と端。御身の安全を一番だと常に思っていただかねば軍は成り立ちませぬ」
きっぱりとした口調に、熾闇は怯む。
「……それでは、俺は自由におまえに逢うことができなくなる」
「己に課した責務をお考えくださいませ。軍の頂点として務める今、殿下の我侭は許されざるものでございます」
同じ年だというのに、熾闇の方が少しばかり先に生まれたというのに、翡翠の方がもう何年も先に生まれたかのように彼を諭す。
それは物心付いてからずっと同じであった。
そして、ここ最近、その傾向が顕著である。
翡翠自身には自覚はないようだが、老齢の守役が幼子を導くような眼差しで第三王子を宥め諭す場面が増えた。
その態度に、安心感を覚えると共に謂れのない苛立ちを覚える若者は、彼女に反論しようとして従姉妹を見据え、そうして戦意を喪失した。
大陸随一の美姫の名をすでに恣にしている翡翠が、とろりと甘く微笑んだのだ。
「わたくしは、いついかなるときも熾闇様のお傍に控えております。いつなりともわたくしが御前に参りましょう」
女性にしてはやや低めの澄んだ声が、甘く優しく響く。
彼を甘やかす声音と微笑みに、熾闇は白旗を掲げた。
「……すまん」
「ご理解いただければ、それでよろしいのです。御用の赴きはどのようなことでございましょう?」
にこりと微笑む娘に、熾闇は僅かに頬を染める。
「あ、いや。その……」
今の笑顔で用件を忘れたとは、とてもいえない。
顔を見に来たといえば、先程の言い争いが再現されてしまうことだろう。
さすがにその程度のことは不器用な熾闇でもわかる。
「その、これから先の旅程だが……」
ようやく用件を思い出した若者は、ぱっと表情を輝かせて話し出す。
「西は当分大丈夫だと言えそうだが、南はまだ落ち着かない。少しばかり南を廻ってから王都へ戻ろうかと思うんだが……」
「御意」
しっとりとした声音で頷く翡翠。
悪戯っぽい笑みを浮かべて熾闇を見つめている。
「反対、しないのか?」
てっきり、何らかの反論が返ってくるものだと思っていた若者は、怪訝そうに問いかける。
「反対する理由がございませんもの」
「そう、なのか……?」
「えぇ。予定よりも早く戦が収拾いたしましたから。それに、兵糧もまだ随分と余裕がございますし」
軽く首を傾げ、考え深げな表情を見せた娘が結論付ける。
さらりと音を立てて、艶やかな黒髪がひと房、翡翠の肩から滑り落ちる。
白く光を弾きながら、大きく揺れる髪に、一瞬、目を奪われた若者は、従姉妹を形作るその部品のひとつひとつの美しさに気付く。
部分の造形美よりも総合的な美しさで、その美を表すものはとても多い。
例えば、顔立ちよりも表情の美しさ、笑い声の美しさでその人を美貌の持ち主だと断じることもあるほどに。
だが、よくよく見れば、その人を形作る部品はさほど美しくないことがある。
圧倒的な何かが、整えられていないことを些末事だと記憶ごと塗り替えてしまうのだ。
しかしながら、翡翠に至ってはそのような思い込みは必要なかった。
毛一筋までもが、見事に整って美しいからだ。
こんなに綺麗なのに、近寄りがたさがないのは、彼女の持つ独特な柔らかな雰囲気のせいなのだろうか。
ぼんやりと、従妹の持つ美に関して考えてみる。
ただはっきり言えるのは、彼女は誰とも似ていない、ということだけだ。
美人と評判の貴族の娘達は、顔立ちは勿論のこと、化粧や仕種、笑い方までそっくりに見える。
一度、紹介されたとしても、二度目にあったときに区別が付かないということもかなりの割合であるのだから。
何がそこまで彼女を際立たせているのだろうか。
こんなとき、こういうことを考えることに無理があるのだが、つい、考えてしまった熾闇は、親友の呼び声に暫くの間気付かなかった。
「……ま、熾闇様!?」
「…………あ?」
ふと顔を上げて首を傾げれば、苦笑を浮かべる翡翠の顔がある。
「何をお考えになっていたのでしょう?」
頬に感じる風に気付けば、あちらこちらに風霊の姿が見える。
楽しげにくすくすと笑う声まで聞こえそうだ。
「腑に落ちないことが多すぎて」
ぼそりと言葉が滑り落ちる。
その言葉に一番驚いたのは熾闇自身であった。
自分が考えてもいなかったことを勝手に唇が紡いだのだから当然だろう。
「妙な気配の奴らは神族だということはわかった。だが何故、彼らは翡翠を狙う? 神族に狙われるようなことをおまえがするわけがない」
一体、この言葉を話しているのは誰なのだろう。
その思いは、熾闇と翡翠、その両方にあった。
「それに、神と呼ぶには弱すぎる。白虎殿の足許にも及ばぬどころか、人より神力が使えるだけマシな程度しか力がない」
「白虎様は、天界最強の武神将のおひとりですもの。それはもう、例えようもなくお強いと申し上げることができますね。それに、神族すべてが戦うことを得意としているわけではありませんし。そこのところは、人の世とあまり変わらないのでしょう」
苦笑を浮かべ、天界のあり方を説明する翡翠の言葉に頷きつつも、熾闇の表情は少しばかり厳しい。
「だが、武将のおまえを狙うのなら、やはり武に長けた者を送り込むのが常套だろう。それが普通のやり方だ」
「命じている方が、武神将にそう告げても、拒否されてしまったらどうなのでしょうね?」
「あ?」
「白虎様がわたくしの命を絶てと命じられて、それに従いますでしょうか?」
「……考えるまでもない。抗うだろう、それこそ、命じた者の首を逆に跳ね飛ばすほどの勢いでな……って、そういうことか」
今度こそ、翡翠の説明に納得した若者は、何度も頷く。
「大したヤツではないのだな、おまえの命を狙おうとしているヤツは」
「さぁ。お会いしたことはございませんから、どのような方なのかはまったく存じません」
「そうか。で? 反撃はするんだろう?」
「いいえ。必要ございません。わたくしを狙うことで、己の命数を縮めているのですから、放っておいても問題ないと思われますが?」
自分の髪に指を絡め、やや乱暴な手つきで梳く娘は、ゆったりとした口調で答える。
相変わらず自分に対しては無頓着な態度を取る幼馴染みに、熾闇は溜息を吐いた。
「問題大有りだろう!? 命数が尽きるとはいっても、神族と人とでは、まったく生きる時間が違うではないか。命数が尽きたといっても、人の時間では百年ぐらい生きるのが神族なのだろう?」
「そうなんですか?」
どこか不思議そうな表情で問いかけてくる翡翠に、若者は顔を顰める。
「もういい! おまえが自分の命を大切にしないのなら、俺が護ればいいだけのことだ」
「それは誤解というものです。わたくしは、充分大切にしておりますとも。たったひとつしかないかけがえのないものですから」
「翡翠!」
「そうでございましょう? わたくしは、あの時確かにお約束いたしました。熾闇様を我が主と定め、いついかなるときも傍に控え、天寿を全うし、泰山に昇るまで生き抜くと」
にこやかな笑顔で言われた言葉に、熾闇の記憶が刺激される。
遥か昔、幼い頃の約束だ。
「そう、だった。だがな、いくらおまえが命を惜しむ性格とはいえ、敵の命まで惜しむ必要はないぞ。敵の頭に情けをかけるな。でなければ、俺が全力でそいつを叩き潰してしまうからな」
例え翡翠が嫌がろうとも、翡翠を狙う存在を許すわけにはいかないと、固い決意で宣言する。
「承知いたしました。仰るとおりに致しましょう」
どこか呆れたように、溜息混じりに頷いた娘は主を促す。
「そろそろ天幕へお戻りくださいませ。後ほど、わたくしも本陣へ参りますゆえ」
「……わかった。むこうで待っている」
あっさりと頷いた熾闇は、陣の反対側にある己の天幕へと向かって歩き出す。
その背を見送っていた娘は、そのまま視線を右に流した。
「来客中でお迎えもできず、申し訳ありませんでした」
柔らかな口調で告げた軍師は、そっと品のよい笑みを添える。
「蒼瑛殿と嵐泰殿がお揃いで、何の御用にございましょう?」
まるで王宮に居るかのように一分の隙もなく身なりを整えた蒼瑛と、王族であるにもかかわらず黒衣を好む嵐泰が気配を消してそこに立っていた。