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白虎の宝玉  作者: 西都涼
蠢動の章
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 戦場で一方的な展開が繰り広げられる中、陣内では副将兼参謀が次々と指示を出していた。

 本陣詰めであるからといって娘がじっとしていることはない。

 戦況を静かに見つめ、そうして後援として必要なことを指示していくのだ。

 それは、今必要なことだけではなく、これから必要になることまで先んじて判断しなければならないため、非常に複雑な判断を下すことになる。

 一切迷うことなく、淡々と条件を整えていた翡翠の動きが止まった。

 何気ない仕種。

 白い繊手が持ち上がり、指先で空に文字を書く。

 何かを確認するような動きを見せた後、考え込むような仕種を見せて動きを止める。

 そのことに気付いたのは、隣に立っていた犀蒼瑛だけであった。

 わずかばかりの違和感を感じ、首をかしげた直後、強すぎるほどの重圧感を感じ取る。

 身動きできぬほどのそれは、気の弱い者であればそのまま絶息しかねないほどの殺気と憎悪を孕んでいる。

 周囲を見れば、何も気付かぬ様子で、忙しなく動き回る兵士達。

 おかしいと感じた視線の先には、いつも通りに佇む碧軍師の姿がある。

 そこで合点がいった。

 先程、彼女が空に書いた文字は、おそらく印だったのだろう。

 一般兵士達と自分達を切り離すための、結界と呼ばれるものだ。

 この殺気を他の者に悟らせないために行ったのだろう。

 憶測だけの結論だが、それ以外、正しいことはないようにも思える。


 何かが来る。


 圧力を孕む空気に蒼瑛が身構えたとき、それは来た。




 ぎりぎりと弓弦を引き絞るように、緊張感が高まる。

 翡翠へと向けられた殺気には、憎悪と怨嗟が含まれている。

 それに気付いた娘は低く笑った。

 突如、空が割け、そこから刃先が現れ、そうして人の姿がずるりと落ちてくる。

「覚悟をおし!」

 女の叫び声と共に、剣先が翡翠へと向けられる。

 いきなり信じられぬ光景を目の当たりにした犀蒼瑛の目が瞠られたが、翡翠は落ち着いたものであった。

 指先で剣を止める。

 左の人差し指が、刃先に添えられる形で押し止めているのだ。

 女がいくら力を込めようとしても、まったく揺るがない。

「そのように殺気立たれては、折角の不意打ちも台無しですよ」

 くすりと笑った娘が穏やかに窘める。

「おのれ、愚弄するか!? あの人を殺めただけでなく!!」

「あの人……あぁ、あの方ですか……」

 憎々しげに吐き捨てる女に対し、翡翠は何のことだろうかと首を傾げ、ようやく思い当たったかのように何度も頷く。

「当然のことでございましょう? 戦とは、殺すか殺されるかのふたつにひとつ。その覚悟がなかったというのなれば、死して当然というもの」

 まるで世間話をしているかのように、気軽な口調で理を説く。

「それがお嫌なら、全力で逃げればよいものを……逃げる気力もなく、不満を相手にぶつけるだけでは自業自得というものでございましょう?」

 にっこりと微笑んだ娘は、女の鬼気迫る殺気をそよ風のように流している。

 実際、そよ風とも感じていないようだ。

 それだけの実力差がこのふたりの間にはある。

 絶対者とも言える翡翠に対し、この乱入者である女は蟻どころか微生物に等しいほどの儚さだ。

「何を知って、そのような大言を!!」

「すべてを知って……かつて、狩人たるをよしとせず、己が存在意義を懸けて戦った者を幾人も知っております。そうして、彼の者たちが抗った絶対者は強大な力を誇っておりました。今のような矮小な主ではなく」

 侮蔑を隠そうともせず、きっぱりと言い切った翡翠の言葉に、女は目を瞠る。

「矮小と申すか!?」

「えぇ、卑小とても言い換えましょうか? 力を求むる者は、力無き者。王に非ず」

 瞬間、女の殺気が膨らんだ。

 ふわりと翡翠の左の人差し指が外され、女の額へと当てられる。

「さよなら」

 囁くような声音と共に、女の額を指先で弾く。

 悲鳴を上げる間もなく、女の身体が砂と化し、空に溶け込む。

「八つ当たりとはいえ、直接敵討ちをしに来た気概は認めますが、実力が伴えばよろしかったのに……」

 残念そうな、惜しむような口調で呟く娘に、蒼瑛は我に返った。

「翡翠殿、今のは……」

 その先の言葉を紡ぐ前に、彼は黙り込む。

「許せとは申しません。時満ちるまで、記憶を封じます」

 それは、すでに決定事項であると断言した娘の言葉よりも、哀しげな表情の方が蒼瑛の心を打った。

 したくないことをしている。

 そんな印象がいつまでも彼の記憶に残っていた。




「どうかなさいましたか、軍師殿?」

 考え込むような仕種を見せる王太子府軍の軍師に、犀蒼瑛は声を掛けた。

「……?」

 かけたと同時に、幾許かの違和感を感じ、彼は眉をひそめる。

「そんなに長い時間、考え込んでおりましたか」

 わずかばかりの困惑を滲ませ、翡翠が蒼瑛を見上げている。

 宝玉のような瞳が相変わらず美しい。

「いえ、それほど長い時間というわけでもありませんが……あなたの瞳の美しさを称える詩を作り出すには充分な時間でした」

 ご披露しましょうかと問いかける蒼瑛に、翡翠は苦笑する。

「わたくしの瞳よりも、もっと美しいものはこの世にいくらでもございましょう。目に見えるものも見ないものも」

「恋に焦がれる男とは愚かな者。目の前の御方の美しさに惑い、そうしてそのつれなき言葉に一喜一憂してしまう……」

 年下の娘に美丈夫は口説き文句を並べ立てる。

「例えあなたが人でなくとも、恋の僕はあなたの前に額づくことでしょう」

 そう、蒼瑛が口にしたとき、翡翠がぎくりと肩を揺らした。

 そうしてそれが蒼瑛に気付かれたと知ると、苦笑を深くする。

「人でないわたくしというのは、一体どのような存在なのでしょうね。きっと、醜く恐ろしい化物がその正体なのでしょう」

 呟くように告げた娘は目を伏せ、自嘲すると再び視線を上げる。

 凛然とした空気を漂わせ、天才軍師と呼ばれる娘は前を見据える。

「殿下のご帰還です。お迎えに上がらねば」

 既に次の行動を定めた軍師は、鎧を身につけていると思えぬ身軽さで歩き出す。

「翡翠ー!! 戻ったぞ!」

 愛馬の背から大声で叫んだ若者が、大きく手を振り、その背から飛び降りる。

「三の君様!?」

 駆け寄ってくる第三王子に、思わず立ち止まった翡翠は蒼瑛の姿を探す。

 面白がるような光を浮かべた美丈夫は、肩をすくめて笑う。

「翡翠、無事か!?」

 やけに真剣な表情で娘の両肩を掴んだ第三王子が問いかける。

「はぁ……陣内で無事を問われるような事は起こらないかと存じますが……」

「妙な気配がしたぞ。神族がいただろう?」

「いいえ。どなたもいらっしゃいませんでした。蒼瑛殿以外、傍には誰も」

 蒼瑛に視線を向け、告げる。

「本当か、蒼瑛?」

 信じられないと言いたげな表情で熾闇が青年を見つめる。

「えぇ、それに関しましては、真としか申し上げようがございませんが……」

 引っ掛かりを感じながらも、事実を述べる蒼瑛の表情に偽りはない。

 それゆえに、熾闇は腑に落ちないという態度を隠そうともせず、だが、無理やりに納得してみせる。

「そうか、ならいい。おまえ達が無事だというのが何よりの証拠だろう」

「上将?」

「本陣から奇妙な気配がした。あの男と同じ気配だ。翡翠が術を使えないようにしたと言っていたからな、腹いせに翡翠を直接狙うかもしれないと思い当たって、あいつら速攻で潰してこっちに戻ってきたところだ」

 肩から力を抜いた若者は、翡翠から手を離し、本陣をぐるりと見渡す。

 彼が指示を出すまでもなく、既に様々な準備は整っている。

「おまえ達が無事で、本当によかった」

 もう一度、同じ言葉を繰り返し呟いた第三王子を、奇妙なものを見るように蒼瑛は眺める。

 そうして彼は気付いた。

 彼が思っていた以上に時間が進んでいるということに。


 それでも、記憶の一部が封じられていることに、彼は暫くの間気付くことはなかったのである。

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