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白虎の宝玉  作者: 西都涼
蠢動の章
171/201

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 敵陣から本陣へと道なき道を辿って戻った娘は、己の天幕へと何事もなかったかのように歩き出す。

 だが、数歩も歩かぬうちに足を止めた。

「………………何をなさっておいでなのでしょうか、殿下?」

 いかにも呆れたような声音で問いかける視線の先には熾闇がいた。

「あれ? 翡翠こそ、なんでそこにいる? 俺のほうが後から天幕を出たはずなのに……」

 きょとんとしたような表情を浮かべた熾闇が問い掛けに問い掛けを返して首を傾げている。

「わたくしはあちらから参りましたが……」

 自分が歩いてきた道程を視線を向けることで知らしめた翡翠に、熾闇が目を瞠る。

「あ。俺、反対側から来た……だからかー! って、何だよ、その目は!?」

「もう一度、お伺いいたしましょうか。何をなさっておいでなのでしょうか、殿下?」

 醒めた眼差しで冷ややかに問いかける翡翠に、今度こそ熾闇は言葉を詰まらせる。

「……い、いや……散歩?」

「何故、疑問系なのでしょうか」

 温度というものをまったく感じさせない容赦ない突っ込みに、若者は怯みそうになる。

「あーっと……何か、気になったんだよ」

 ふいっと翡翠の視線を避けるように顔を逸らした闇色の瞳の若者は、照れ臭そうに呟く。

「おまえが泣いているような気がして」

「……わたくしが……?」

 思いがけない言葉を聞き、翡翠は軽く目を瞠る。

 思わず呟いた娘の言葉に、若者はこくりと頷く。

「ん。何か、辛いことがあったんじゃないのか? おまえはすぐに感情を隠してしまうから……」

 気遣わしげな視線がちらりと彼女に送られる。

 その心配そうな空気を漂わせながらこちらを伺う三の王子に、翡翠は言葉を失う。

 元々、心優しい気性の王子である。

 表現は下手だが、こういったことにはどこか聡い。

 だがしかし、以前はこんな気遣いなどは見せなかった。

 感情を隠すなと駄々を捏ねるように告げたり、逆に彼女を護ろうと一切を排除しようとしたりと、事を大きくしがちだったのだが、今は少し距離をとり、つかず離れずのところで彼女の様子を見守っている。

「泣きたくなるようなことは、ありませんでしたよ。少し、疲れておりますが……」

 力ない笑みを見せた翡翠は、ゆっくりと歩き出す。

「……あ……」

 疲れた理由に思い当たったのだろう、熾闇は視線を泳がせた。

「そうだったな。すまん」

「いえ。何より蒼瑛殿のご無事が一番ですもの」

「それは、そうだが……」

 言い淀んだ第三王子は手を伸ばし、翡翠の頬に触れる。

「冷たいぞ! 身体が冷えては、疲れも増すだろうに」

 むっと顔を顰め、そのまま乳兄弟の肩を掴み、自分の方へ引き寄せると胸許へ抱き込む。

「熾闇様?」

「温まるまでこのままだ!」

 きっぱりと言い切ると、ぎゅうぎゅうと自分の内に閉じ込めるかのように抱き寄せる力を込める。

「……や、温もるのなら、天幕へ戻ったほうが早いのですが……」

 巨大な引っ付き虫を背負った娘は、実に冷静に応じる。

「羽毛の膝掛けと温かいお茶がありますし」

「そこまで戻る前にもっと冷えるだろう!?」

 翡翠が歩き出そうとすると、ずるずると熾闇もくっついてくる。

 普通、年頃の乙女なら、見目良い王子に抱き締められれば夢心地で陶然とするはずなのだが、麗しい見た目と異なり中身はかなり親父な翡翠は、当然のことながら感銘を受けるわけもない。

「お言葉ですが、温もる前の殿下の重みで潰れるか、肩が凝るかのどちらかです。かなり鬱陶しいのですが」

 辛辣な言葉をかけ、押しやろうとする翡翠を憮然とした表情のまま抱き締めていた熾闇の顔色がふと変わる。

 翡翠から僅かに奇妙な香りがしたからだ。

(死の匂いがする……)

 血の臭いでもなければ、恨みを纏っているわけでもない。

 はっきりと嗅覚で感じ取れるものでもない。

 それは、漠然としたものであった。

 たまたま誰かの死に居合わせ、または通り縋ったかの様な曖昧なもの。

 だがそれが、翡翠を疲れさせているのだろうと直感する。

 翡翠が泣いていると思ったのは、そのせいだったのかもしれない。

 思考力よりも直観力を頼る傾向にある熾闇にとって、それが真実に近いように思えた。

「熾闇様?」

 怪訝そうに問いかけてくる従妹の声に、ハッと彼は我に返る。

「何でもない。おまえの髪、真っ直ぐだから櫛通りが良さそうでいいなぁと思って」

 ふと視界に入った艶やかな黒髪に、若者は誤魔化しでもなさそうな感想を述べる。

「あぁ。熾闇様の御髪はクセが強うございますからね。小姓たちも髪を梳かすのは大変でしょう」

「やってもらってない! おまえ以外には触らせたことないぞ。自分のことは自分でできる。俺の仕度を手伝わせるのは、おまえだけだからな」

 何の気なしに告げた翡翠の言葉に、極端な反応を見せた熾闇は、嫌そうに顔を顰めてそっぽを向いている。

「ご立派な心がけと申し上げたいところですが、小姓たちの仕事を取り上げてはどうかと……毎回、泣きつかれるわたくしの身にもなってくださいませ」

 呆れたように肩をすくめる翡翠に、熾闇は口惜しそうな表情をちらりと浮かべる。

 陽はすでに傾き、空には星が輝いている。

 草原を吹き渡る風が、草の香りを運んでいる。

 その風がふわりと綜家の末姫の髪を弄ぶ。

「おまえ以外に触れられたくはない。例え、兄弟だろうともな。戦場での暮らしが長いせいなのか……」

 常に命を狙われる生活を続けてきた熾闇にとって、心許せる唯一の人物は乳兄弟である従妹だけだ。

 彼女になら、自分の命を預けても何ら不安はない。

 例え、翡翠が熾闇を殺めようとも、彼女の手に掛かるのなら笑って逝けるだろう。

 むしろ最良の最後と思える。

「そんなものですか? ですが、それが御髪が乱れても良いという理由にはなりませんからね。ちゃんと毎朝整えてくださいませ」

「はいはい。大将たる者、見映えも大切か? 戦場なら多少汚れても仕方ないと思うぞ」

「汚れても、それなりの誂えというものがあります。士気にも係わりますから、きちんとしていただかないと」

 いつも通りの何気ない会話の中、熾闇は櫛通りの良さそうな翡翠の髪に指を絡める。

 銀粉を散らしたような艶やかな黒髪はしなやかで、少し冷たく感じられる。

「……本当だ、花の香りがする。香油じゃなさそうだけど」

 口許近くへ運び、髪の香りを嗅いだ若者は、納得したように呟く。

「こんなの、毎朝俺にやれと……?」

「そこまでは申しませんが」

 困ったように翡翠が答えるのを首を傾げて眺めていた王子は、手の中のそれにそっと唇を押し当てる。

 従妹の視線が別のところへ向けられているときのことであった。

 無意識にそれを行った彼は、髪を手放し、翡翠の視線を追いかける。

 そこには、熾闇の姿が見えないことに驚いて捜している小姓たちの姿があった。

「……やれやれ。俺は一人になることも許されないのか……不便なことだ」

 うんざりしたように呟いた王子は、従妹の横顔を見つめる。

「小姓など、面倒臭くていらぬと何度言えばわかってくれるだろうか……」

 傍に置きたいのはたったひとりだけだ。

 それ以外の存在などは不要だと無意識に断じてしまった若者は、鬱陶しそうに首を横に振る。

「立場というものをお考えくださいませ。一軍の総大将が、側御用を務める小姓をひとりも持たぬなどありえませぬ。わたくしが始終お傍にお仕えすることはもうできないのですから」

「………………わかってる」

 不本意そうに、実に不本意そうに頷いた熾闇は、溜息を吐く。

「明日は、存分に暴れて憂さ晴らしをしてやる」

 ぼそりと呟いた一言に、麒麟の守護者は天を仰ぐ。

「……育て方、間違えてしまいましたか……?」

 歴代と異なり、あまりにも奔放に育った今生の麒麟に、同じ年の守護者は深く息を吐いたのであった。

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