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白虎の宝玉  作者: 西都涼
蠢動の章
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 彼は今、苛立ちの中にあった。

 理由はごく簡単である。

 今まで上手くいっていたことが、ここに来て、急に齟齬が生じ始めたからだ。


 光り輝く悠久の地を治める尊い方から、ある命を受けたことがそもそもの始まりだった。

 本来であれば、その命を受けるも断るも身分立場に関係なく自由であるはずなのだが、今回ばかりはそれを許されなかった。

 彼一人だけではない。

 他に何人もの同胞が同じ命を受けたのだ。

 それは耐え難い屈辱でもある。

 ひとりでは決して為しえないと端から断言されたも同然なのだから。

 それは、まだいい。

 相手の正体を聞かされたとき、そのことについては納得した。

 三界最強の存在を相手にするのだから、自分ひとりでは無理だということは、素直に納得できたからだ。

 しかし問題はそれではない。

 その命に従い、成功しようが失敗しようが、彼の誉れは地に堕ちるしかないという事実が消しようもなかったからなのだ。

 仕方なく、本当に仕方なく、その地に向かい同胞達と策を練り、それを実行することにした。

 それは今までことごとく潰され、対象にはそよ風にも満たないもののようにあしらわれ、中にはなかったものと扱われた者もいた。

 三界最強の名は、それこそ飾りでも何でもなかった。

 冗談ではなく、本気で向かってこられたりでもしたら、その場から全力で逃げ出したいほどの恐怖を覚えたのは一度や二度ではない。

 それでも真名を奪われた身には、命に背くことは許されない。

 下等な者達の許へわざわざ赴き、その中枢へと喰い込み、そうして上手く焚きつけ戦を起したまでは良かった。

 だが、彼が全力で練った策を尽く無視し、勝手に動く武力だけの無能者には呆れ果て、そうして彼の者と共にある者に追い詰められた。

 人から見れば無限に近い生を紡ぐ身とて、不死ではない。

 確かに生命力も遥かに強く、不可思議な力をその真名に与えられてはいるが、終焉を越えることはできないことを彼は知っている。

 だからこそ、追い詰められ、恐怖し、咄嗟にその封じなければならない力を使ってしまった。

 至高の方はそれを許すだろう。

 対象の力を削ぐ功績のひとつとして認めてくれるだろうが、実際はそうではない。

 不文律で禁じられていた禁忌を思い切り踏み躙った事実は消え去らない。

 それどころか、刻一刻とその罪が重く圧し掛かってくる。

 真名が悲鳴を上げ、彼を蝕んでいるのだ。

 汚名を雪がなければ、このまま消え去ることはできない。

 だが、時間がない。

 苛立ちだけが募っていた。




 天幕の中で苛々と歩き回る男がひとり。

 彼の周囲に天幕はひとつもない。

 なぜならば、彼が策を授けた者たちに、戦場で天幕の下で眠るという習慣がないからだ。

 夜襲を受けてもすぐに馬に乗り、相手の首を討ち落とせるようにと、愛馬の隣で剣を枕に横になるのだ。

 下等な者たちは下等だけに野蛮にできていると、彼は舌を打つ。

 彼らは彼らで、天幕を張り、簡易の寝台で寝起きする男を都かぶれの優男だと嘲笑っている。

 どちらも信頼で結ばれているわけではない。

 欲得だけの関係なのだ。

「無能者め! 力では勝っているだと!? 陣を乱すこともできずによく言うものだ。我の話を理解できぬ愚か者とまだ付き合わねばならぬのか、嘆かわしい。所詮は下等な生き物だということか」

 荒々しい足取りで狭い天幕を歩きながら呟く言葉は、相手を見下すだけのもの。

 その態度が彼らの反感を買い、策とは別の行動を起させているなどとは気付きもしない。

 彼にとって、所詮、非力で無力、そして無能な存在でしかないのだから。

「あの男! 我に傷をつけたあの男……何とかせねばならぬ。他の者に知られる前に……」

「どうなさるおつもりですか?」

 ぶつぶつと呟いていた男のすぐ耳許で銀鈴のように涼やかな美声が囁かれた。

「……っな!?」

 誰もいないはずの天幕で人の声がしたことに男は驚き、辺りを見回す。

 周囲に人の気配はなく、天幕にも誰もいない。

 なのに、くすくすと軽やかな笑い声が響き渡る。

 奇怪な現象である。

「神族であれば、このくらいのことに驚くこともないでしょうに」

 何処か呆れを含んだ声がからかうように告げると、しゃらんと銀線のしなるような音共に空間が裂け、ひとりの美姫が現れた。


 人とは短命で頑迷で愚かで醜い生き物だと思っていた。

 だが、目の前の娘は天界にいる誰よりも美しいと思える存在であった。

 美とは姿形の良さを表すものではない。

 魂の輝きが滲み出るものだ。

 だからこそ、命あるものは美しいものに心惹かれ、憧れの念を抱くのだ。

 正しくそのような存在を目にした男は、魂を奪われたかのように呆然と娘の姿を見つめた。

 高潔で勇敢、そして静謐にして苛烈。

 そんな言葉が良く似合うと思える存在だ。

 かつての守護者を彼は知らぬが、以前、その存在を見知っていた者が常にそう言っていた。

 人にして人に非ず、神にして神に非ず。

 麒麟を天に与げた後は、潔く散り果てる。

 それゆえ、彼の者は三界に於いて最強と呼べる存在なのだと。

 己のためには一切何も望まず、ただ護るべき者を守り抜く気高き存在。

 それを目にして感銘を受けぬ者はまずいないと。


 すっきりとした身のこなしで現れた翡翠を前に、神族の男は戸惑いを覚える。

 麒麟の守護者を追捕する役目を与えられた者は、その名を天帝に取り上げられ『狩人』とのみ呼ばれる。

 此度、狩人に選ばれた者は、常の数倍以上にも昇ると噂されている。

 狩人は、守護者が屠られた時、または天帝が交代したときにその役目を終え、そしてその命もまた尽きるのだ。

 禁を破り、神力で人を殺めた同胞もいたらしいが、その存在はすでに感じ取ることができない。

 死を与えられたわけではないことはわかっている。

 だが己はどうだろう。

 殺気も何も感じ取れぬ泰然とした態度を取る娘に彼はただひたすら戸惑うのみだ。

 ここに麒麟の守護者がいるということは、敵将だった青年は生きているということだろう。

 守護者は、主に対してもそうだが、味方となるべき人間に対して非常に甘いところがあるらしい。

「不思議そうな表情をしていらっしゃいますね。なぜ、わたくしがここにいるのかがわからない?」

 やや低めの抑揚のない声は、それとは裏腹に魅惑的に響く。

「そんなに『狩人』の役目が嫌ならば、抗えばよかったものを……」

「そんなことができるわけ……」

「不可能ではないのですよ。かつて、何人もの神族が抗い、奪われた名を奪い返しました。己の意志がすべてを決める、それが天界の理というもの」

 嘘偽りを口にするような相手ではないと、何故かわかる。

 だがしかし、その内容は到底信じられるようなものではない。

「ですが、あなたは自分自身に負けたのです。そして、さらに禁忌を犯した」

 穏やかで優しげなのに、その身に纏う空気も暖かいというのに、これ以上ない断罪者であった。

「わたくしの大切な同僚を傷つけた罪は重い。わたくしが手を差し伸べなければ、あの方は今頃泰山への道を辿っていたことでしょう。白虎様が護る地で神力を振るう大罪、神力で人を殺めた大罪。例え真名を奪われ、猶予が与えられたとしても、許されざる罪であることは明白」

 淡々と語る言葉に怒りも何も感じられない。

 ただ事実を述べているだけなのだと、その口調は物語っている。

 しかしながら、その抑えた言葉こそが彼女の怒りの深さを表しているような気がして、恐怖に身が竦む。

 これほど美しいものにその罪を暴かれることほど恐ろしいものはない。

 男は、無言で首を横に振る。

 命乞いをしているのか、罪を否定しているのか、自分でもわからない。

「無用な騒乱を起こし、神力でなくとも人の生き死にに深く関わった罪。一国の歴史を揺るがすは大罪でございましょう? 真名を奪われてよかったこと。己の罪がどれだけ深いものか、自覚する前に千々に引き裂かれては反省を促すことができませんもの」

 ゆったりとした口調は、笑みを含んでいるはずなのに、まったく笑っているようには聞こえない。

 ただ背筋が粟立つような怖気が走る。

 一方で、これほど美しい断罪者に罪を暴かれ、制裁を受けるというのならこれほど嬉しいことはないと思う気持ちもある。

 天帝に名を奪われたときには嫌悪しか感じられなかったが、それが彼女であれば陶然とその足許に額づくことだろう。

 狩人はただ麒麟の守護者を見つめた。

「ひとつだけ、よい事を教えて差し上げましょう。我が君は、天帝位を望んではいらっしゃらない。地にあり、人としての生を望んでいらっしゃる」

 音楽的な声が、信じられない事実を告げる。

 思わず目を瞠った男に、娘は柔らかな笑みを浮かべた。

「我が君の意に染まぬことをなさる方々は、尽く焼き尽くしてくれよう。それが守護者たる我の役目。おとなしく天界に戻ればよし、戻らねば我が刃を紅蓮に染め続けようぞ」

 すいっと守護者が狩人の傍へと歩み寄り、低い、とても低い声で囁いた。

 まるで娘ではなく男性の声だと狩人はぼんやりと思う。

 ふと気付けば、己の胸に剣の柄が生えていた。

 否、生えているのではない。

 剣が心の臓を貫き、その刃が背を突き抜けているのだ。

 そして、守護者の声は、狩人の血を通して他の狩人へと届けられているのだと、彼は悟った。

 ゆっくりと首をめぐらせ、守護者に視線を向ける。

 麒麟の守護者は、穏やかに微笑んでいた。

 狩人の胸を貫く剣の柄を握り、激情に駆られるでもなく、ただ穏やかな笑みを浮かべ続けられるその強さ。

 何も感じていないわけではないだろう。

 それでも、その笑みを保ち続けることを選んだ強さは、神族にはないものだ。

「……麒、麟……」

 男はかろうじてそれだけの言葉を紡いだ。

 もはや何を言いたかったのか、自分でもわからない。

 そうして、それ以上の言葉を紡ぐことなく、その身が灰のようにふぁさりと風に舞い散った。

 そこに残ったものは、何もない。

 天界に住まう者は、亡骸を残すことはないのだ。

 遺骸を残すのは、地に住まう者だけだ。

「………………」

 断罪者は表情を消し、剣を柄に収める。

 天幕の中には、何も異常はなかった。

 主たる人物の姿が見えないだけ。

 誰が見ても、逃げ出したと思うことだろう。

 それらを確かめた翡翠は、再び虚空に姿を消した。

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